⭐︎マネキン 2 (旦拝)

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「えっと、まずお聞きしたいんですけど、拝原先生はこういうところで、普段どんなことをなさってるんですか?」

 まるで普通のホテルに、ビジネスで来ているように、上着を丁寧にクローゼットにかけてから、旦波はそう訊ねてきた。

 拝原は、とうとうここまできてしまったという事実に、不意に眩暈をおぼえた。病的なほてりを孕みだした顔を、同じように血の代わりに恥の火がめぐる指で覆い隠そうとした。そうでないと喋れる気がしなかった。しかし、腕がかたかたと震えて、眼を隠したり指の隙間から微笑む旦波がみえたり、耐えられなくなってぎゅっと目を閉じ、絞り出した。

「好きに……好きにしてほしくて………」

「好きに? ちょっと難しいですね、あまり…経験がないものですから。もう少し、具体的に教えてもらえませんか? 拝原先生」

 意地悪じゃなくて本心から言ってるのだ、とわかっていても、羞恥や、ある種の屈辱に似た何かに、ぐっと喉の奥が絞まり──そこから、人工シロップをそのまま嘗めさせられたようなびりびりした感覚が脳の真ん中を侵していく。目の奥がつん、と鋭く、熱くなる。

「モノにされたいんです、ヒトとして見られていたくない……」

「ものにされる、ですか。それは所有される、という意味ですか、それとも"物質"にされるという意味で?」

「壊れたマネキンとか…不出来なラブドールとか……なんでもいいんです、廃棄品のように思って、扱ってくれれば」

 一枚一枚、皮膚を剥がされていくようだ。背中のコルセットピアスの痕に、セックスの最中、リボンを通され、背後から引っ張られた感覚が甦る。強引に、操り人形の糸を巻き取るように。全身にみえない支配の糸。

 旦波は、黙って、生徒の相談を聞くように頷きながら、拝原の、およそ常軌を逸した、浅ましい言葉に耳を傾けている。配管のせいか、壁の向こうから、蜜蜂のうなるような音が、ずっと微かに聞こえている。それが少しずつ、小さな振動で揺すぶって、殻が剥がれ落ちていく。

「人権とか、尊厳とか、そういうの要らないんです。なにもかも厭……」

 旦波は頷くと、生徒たちに向ける笑顔のまま、軽く袖をまくった。

「わかりました、先生。とりあえず、歯を食い縛ってください」





 洗面所の床で、何度めかの殴打にしたたかに体を打ち、息が詰まった。けれど、昔殴られて倒れたときのような、あの自意識が痛みの闇のなかに溺れるような感覚はなく、衝撃の少なさに左目を泳がせて理由を探せば、旦波に濡れたシャツの背を掴まれていたことに気づく。本当に壊してしまうつもりはないのだと、そこに旦波の理性を感じとり、腫れあがる羞恥と悔しさで窒息する。この醜態を冷静な目で見られて、聞かれて、記憶されて──それでもまた、朝が来ればこの男と何食わぬ顔をして真人間のふりをして言葉を交わさなければならない──呼吸ができないまま鼓動が波打ち、耳の裏の血管まで弾けそうだった。被虐の興奮が半ばを占めた熱に輪郭が融けて、頭の奥まで滲み透った痛みに酩酊しているような感じがして、思わず目の前の男にとりすがった。「か、カオに、顔に痕つけてください」

「え?」きょとんと、つい今まで人を殴っていたとは思えない表情で、旦波は首を傾ける。「いや、顔はよしといた方がいいんじゃないですか?」

「言い訳はどうとでもできるから、お願い、みえるところに」

「拝原先生、生徒たちが心配しますよ」

「う、うう……」

「いくら不幸になりたくたって、人を巻き込んじゃいけないと思いませんか? あの子達だってそうですよね? だから僕がこうして、拝原先生の──」

「じゃあ殺してくださいよ!」

 悲鳴のような声が空を切り裂いて、一瞬旦波の瞼が痙攣する。

 次の瞬間、旦波が口を開く前に、喉を絞められた嗚咽が、血のように滲み出た。

「ちが……死にたいわけじゃ……死にたいわけじゃないんですよぉ……」

 手のひらで顔をでたらめに擦る拝原の手首をつかみ、旦波はゆっくりと繰り返した。

「死にたいわけじゃ、ないんですね」

「…ぅ、うう……」

 旦波は蛇口を捻った。バスタブに水が注がれる音が反響して、拝原の身体じゅうの痣を、みえない指で叩く。痛い。熱い。身体がどんどん重たくなって、ずるりと魂だけ残して溶け崩れそう。そうしたら分離できる、この重たいばかりの要らない肉体、熱を膨らませる、腐った腹のなかの、欲望……。

「もう少し頑張りましょうか。拝原先生──」

 旦波の目は、笑えば、細い三日月に似た形になる。その真ん中にあいた底無しの瞳孔の黒を、力なく睨みあげる視界に、ちらちらと、黄緑やピンクや白の羽虫が瞬いていた。瞼の裏──泳ぐ補色のアメーバ──見えない棘の群れが目の奥を刺して──眩しい──逆光なのにはっきりとわかる、赤い口の中が、瞳の際だつ黒が──。

 思い出す、彼が、自分が死ぬほど追いつめた相手を前にして口にした言葉を─その表情を。

 痛い。苦しい。揺さぶられる。なのに、壊れたセックス・トイになれない。人間としてなぶられている、旦波の瞳は拝原を人間として見ている。関節の外れたマネキンに、いつまでもなれない。嗚咽がぼとぼと溢れる。人間にこんな風に触れられる男の中身はいったいなんだろう、と、皮膚と粘膜のその下が覗いている瞳を見上げる。ああ、これが、この黒が、この男の中身? 旦波の手が拝原の鎖骨を強く押す、折れるか折れないか、その加減を知る掌は汗に湿っている。部屋じゅうに散らされる暴力の音に、潰れた胸郭から押し出されて、震える声が絡みついた。

「あなたみたいな人に頼るしかないなんて……」




 枕に、頭をつかんで押さえつけられている。呼吸を塞き止められて爆発しそうな頭蓋の中心には溢れそうな二酸化炭素のあぶくが膨らみ、酸素の足りない血液が勢いよく流れて血管に当たる音が鼓膜を内側から叩く。ああ、死ぬ、もう、飛ぶ、と真っ白と真っ赤に点滅する視界が暗転する直前に、不意にぱっと手を放された。いきなり冷たい空気が涙や体液で濡れた顔を刺激し、突然酸素を供給された気管が驚いて収縮した。体を折って、土下座をするような形でえずいていると、旦波の暖かい手で背中をさすられた。

「すみません、でも時間の十五分前だし。そろそろやめた方がいいかなって」

 拝原は不明瞭な返事をしながら、ずる、と泥のなかから起き上がるように体を起こした。時計が見当たらず、ふらふらと視線をさ迷わせていると、スマートフォンの画面を見せられた。

 一度バスルームへ行くと、外してあったらしい腕時計をつけ直しながら出てきた。もみあげや前髪のあたりが湿っていて、顔だけでも洗ったらしい。

「シャワーする時間とかないですかね。すみません、僕がもう少し早く気づけばよかったんですけど」

「いえ……」

 発した声が掠れていて、拝原は数回咳をした。咳をするたびに脇腹や背中に痛みが走った。まくれあがっていたシャツを確認すると、目立つ汚れや破れている箇所はないが、しわくちゃになり、切れた唇から滴った血をなすりつけたような染みが袖口にあった。

「帰り、僕が運転しますよ」

「え」

 上着に袖を通しながら言った旦波に、狼狽えた声が出る。不思議そうに振り返った旦波は「一応、道は覚えましたし。わからなくなったら訊きますね」

「あ、いや。いいですよ。僕が」

 ベッドからつま先を床につけたら、膝が折れた。手をつくと、肩胛骨がぎしりとずれて軋んだ。旦波に手を貸されて、そろそろと立ち上がる。右膝だけが特に痛んだ。

「無理しないでください。山道だし、事故されても大変ですから」

「……そうです、かね」

 任せっきりで悪いなあ、という気が今さらながら普通に沸き起こってきたが、実際のところ、右目がない、今は満身創痍の拝原の運転よりも、五体満足の旦波の運転のほうがよほど安心できるのは確かだ。

「カード使えるんですね、こういうとこって」

 自動精算機を見た旦波が、感心した風に呟く隣で、拝原は黙々と財布から現金を取り出す。「最近、できるようになったんですよ……でも、気分的になんか嫌じゃないですか?」

「んー、わかるような……」

 ガレージにおりると、乏しい灯りを反射して、薄っぺらいグレイに光る車体の運転席に、それが当然という振舞いで旦波が滑り込んだ。一瞬、足が止まったが、引きずり下ろすこともできず、拝原は結局、手足を折り畳むように助手席に入り込んだ。背もたれに当たる肩が鈍く痛んだ。

 ライトをつけた瞬間、ハンドルを握った旦波の指の付け根が、擦りきれて赤くなっているのが照らされた。




「あ、あのローソン、行きにも見ましたね。もう少し先でしたっけ、インター」

 運転席で、行きと変わらない調子で話している旦波の声を、ぼうっとした様子で聞いているのかいないのか、拝原は助手席の窓に頭をもたせかけて黙っている。

「拝原先生?」

「あ、…はい」

「大丈夫ですか? どこか体調悪かったりしますか?」

「いえ、大丈夫です……」

「……窓に頭つけてると、痛くないですか? 僕、昔やったとき、思ったより揺れてぶつかるからびっくりしました」

「………………痛いというか、ほら…いっぱい当たると、なんでしょう…揺さぶられてる感じになるんですよ。頭蓋骨のなかで。脳みそが」

「脳震盪起こさないようにしてくださいね」

「……」

「先生?」

 旦波は不意に、交差点でブレーキを踏んで、多少強引なUターンを行った。拝原の目が薄く開いて、困惑したように体を起こす。

「ちょっとローソン寄りましょう」

「え、あ、はい……」

 通りすぎたばかりの、皓々と真っ白な光を放出しているローソンの駐車場に入る。夜に見る田舎のコンビニエンスストアは、灯りを消した部屋のなかに置かれたスマートフォンの液晶みたいだ、と拝原は思う。暗い部屋のなかで白々と点る画面と、浮かぶ通知のポップアップの、文字……。

「拝原先生。せんせい」

 肩を軽く叩かれる。

「本当に大丈夫ですか? 痛いところとか、気持ち悪いとかありませんか?」

「ああ……なんかすみません、心配かけちゃって。いつもこうですから、ほんと、大丈夫です」

「いつもって、こういうことした後は、ってことですか?」

「……あー、最悪な例えですけど、賢者タイムというか……」

「……なるほど」

 軽くハンドルにもたれかかると、旦波は薄く笑った。灯りをつけない車内で、フロントガラスから差し込む真っ白なコンビニの光を浴びた顔は、確かに笑みの形の陰影を帯びていた。

 この人は本当に笑っているのだろうか、と拝原はぼんやりと考える、空とは本当に青いのだろうかと考えるように。たまたま、唇が、瞼が、頬が、この形を作っているだけで、その意味するものは? この顔の皮の下には何が?

 旦波が、ふっと息を漏らすように笑う。

「なんか、拝原先生の口から賢者タイムって聞くの、ちょっと面白いなって」

「僕のこと何だと思ってるんですか」

 皮肉げに片頬を歪める。無い右目の眼窩が、眼帯の下でぐにゃりと空気を食む。

「…出ましょうか。カーシェアの返却、時間ギリギリになっちゃうので」

 だいぶはっきりしてきた口調で言いながら、拝原は薄っぺらい車のドアをあける。「コーヒーだけ買ってきます、駐車場使いましたし。……」

「あ、そうですね。僕行きますよ、拝原先生」

「もうおりちゃったから、僕が行ってきます」

 アイスコーヒーを二つ手に持って戻ると、旦波はカーナビを起動させ、何かを入力していた。

「あ、拝原先生。最寄り駅、──であってますよね」

 送ろうかと思ったんですけど、家がわからないので、と、くっきりした眉を少し下げて、相変わらずの笑みで言う。

「──駅まで行ったあとに返しに行っても、ギリギリ間に合いそうです」

 表示された、想定される所要時間を見て言った旦波に、拝原は、アイスコーヒーのコップを差し出す。ゆらり、と手首が揺れる。

「……──駅より、返却場所から歩いた方が早いんですよ、うち

 旦波は黙ったまま、アイスコーヒーを見つめていた。結露が掌とプラスチックの間でべちゃりと水の膜になり、手首を伝って、血のついた袖のなかに滴った。

「……シャワー、貸しますよ」

 壊れたマネキンのように、折り曲げた体を暗がりに半ば沈めて、拝原は、薄暗ぁく、身体中にまといつく夜の粘りけで微笑んだ。

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