亜熱帯夜話 Ⅴ (栱英)

 大学生のときから付き合っていた女性と、就職後に結婚を考えたとき、栱梛は初めて気がついた。自分がどんな他人をも、謝花英より優先できないということに。

 当時付き合って四年になっていた恋人は、美人ではないが、竹を割ったような明るさと優しさをもちあわせた、本当にいい女性だったと栱梛は思っている。子供が好きだと言っていて、実際いい母親になるだろうと思われた。

 だからこそ、「この先」を真剣に考えた時に、自分は彼女に──というよりも、結婚という行為に相応しくない、と思い至ったのだった。

 両親に会ってほしい、と言われて、そういうことなのだ、と察したある夜、ピロン、と音がして、スマホの画面にメッセージが表示された。

『三茶のXXXで飲んでる 今から来い』

 アパレルショップで働き始めた、英からのメッセージだった。読み終わったときには、栱梛は上着を羽織りながら立ち上がっていて──不意に、その異常性に気がついた。

 栱梛は直感した。たとえ恋人が妻になり、生活を共にし、妊娠したとしても──出産の最中であっても、自分は英から呼び出されたとしたら、応じてしまうだろう。

 だって、英は唯一の「代わり」なのだ。

 俺をひとり置いていった、俺のことを要らなかった家族の代わりなのだ。

 恋人は本当にいい女だった。栱梛の告白と、青春の四年間を奪った謝罪を、「そんな気がしてたよ」という微笑で受け止めた。

 だからこそ、英に代わる存在ではなかった。

 英は傲慢だ。我儘で不遜で、栱梛の意志など関係なくその人生を消費する、最悪の男だ。

 彼だけが、人生に羽島栱梛という男を、ただひとつの存在なのだ。

 纏足した皇后のように、盲目の王のように、最期まで手を離してもらっては困る。世話をさせろ。甘やかさせろ。尽くさせろ。お前が無理やりこの世に引き留めた命なのだから、お前が火を焚べて、燃やせ、燃やせ。逃げ場はもうない。

 沈もうとする命を小舟の上に引きあげたのは英だ。

 お前のせいで生きている。




 病院で処方された錠剤を、銀の薬包からぱちりと押し出して、飲まずに透明な壜に入れる。百均で買ったクッキー・ジャーはそれなりの大きさがあるのに、月のように白い粒は、もう壜の半分ほどたまっている。そうしていつか、このガラスの口から溢れる。

 これだけの夜を、英と過ごした。

 栱梛は眠る英の身体を跨いで、見下ろした。

 金と茶色の猫っ毛、今は閉ざされた灰青色の瞳、頬や肩の星の砂めいたそばかす、ピンクに熟れて、無防備に脈打つ頸筋くびすじ。歯を立てたらより強くなるその眩暈のするような香り──魂が嗅ぎつける腐った蜜。

 これがなくては居られない。太陽も優しい恋人もビタミンDも要らない。

 この甘い匂い。

 腐った南国の果実の幻覚。

 亜熱帯の、夜の甘み。



 魂の安らぎはどこか?

 ──そんなものは、もうどこにもないのだ。

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