亜熱帯夜話 Ⅳ (栱英)

 十五年近く経つが、今も栱梛の隣で、英はすやすやと眠っている。

 ブラインドを少し押し下げると、寝台と肉体の上をわたる月光の帯が波打って、広がった。やけに明るい、亜熱帯の夜が、栱梛の胸の上を通って英の顔を照らしている。薄く開いた唇から、ちょっとだけ舌の先がのぞいていた。月光色をした縞もようの猫みたいだ。

 この舌を引っ張って首を絞めてやろうかと、一度も考えなかったといえば嘘になるかもしれない。

 心中方法は練炭自殺で、書き置きひとつ、縄ひとつ遺されていなかった。もしも「あとからおいで」の一言さえ──あるいは「お前はがんばれ」の一言でもいい──あれば、栱梛はと今も考える。

 死の瞬間まで、家族は自分のことを忘れていたわけではなかった、と証明してくれる一端さえあれば。

 今も、あの日のことを考えない夜はない。

 両親は、きょうだいたちに睡眠薬を飲ませながら、自分一人くらい、いなくてもいいと思ったのだろうか。

 栱梛は、家族にとってそれだけの存在だったのだろうか。

 違うと否定してくれる両親はもういない。答えは二度と手に入らない。

 その程度の存在だったとしたら─だったとしても─せめてその日、その場にいたなら、忘れずに連れて行ってもらえたのだろうか。あるいは、自分が電話をかけていたなら。

 英は後になって、電話に出た栱梛の母について「別に普通だった。泊まるって言ったら、あらそうなの、よろしくね、と言われただけだった」と言っていたし、警察や周囲の大人にもそう話していた。だから実際その通りだったのだろうが、栱梛は今も、母の最期になった自分に関する言葉を母の声で聞きたかったと思っている。英があのとき受話器を奪わなかったら、母は自分と話すはずだった。そうしたら、母は自分に、──帰っておいで、と言ってくれたのではないか。

 母は、よろしくね、と英に言ったという。それがどのようなニュアンスだったのか、じかに聞いていない栱梛には永遠にわからない。それを聞いた耳を、柔く噛んで溝に舌を這わせる。英はみじろいで、眉を顰めたが、目は開けない。

 どうしてこんなに無防備になれるのか。

 お前があのときあんなこと言わなければ。

 お前のせいで。

 お前のせいで。

 お前のせいで。

 お前のせいで、すべて失ったのだ。

 



 栱梛って英に甘すぎないか、と、高校時代、友人の望月もちづきが疑問を投げかけてきたことがあった。栱梛と英と、もう一人を加えて四人で中学時代からよくつるんでいたメンツで、栱梛の家族が心中した日にも、英の家に集まっていた。

 理由は覚えていないが、たまたま英だけがいない昼休みだった。パックのフルーツ牛乳を飲みながら、望月は「二人の間のことはわかんないけどさ、」と前置きし、考え考え話しだした。

「英、正直おまえに対して横暴すぎるトコあるだろ。元々そういう性格だけどさ。栱梛に対しては特に顕著っていうか、なんつーか、もはや狙ってやってるよな、あれ」

 風馬ふうまもそう思うだろ、と水を向けられたもう一人の友人は、焼きそばを口の端から垂らして「え? ごめん聞いてなかった」とのたまったので、望月に脇腹を強めにどつかれた。

「痛っ! ふつうに痛い!」てーかさ、モッチーも俺にオーボーじゃね、それと変わんなくね、と風馬はぼやくが、望月は首を横に振った。

「だってさ、あいつ、廊下とかで栱梛がリコと一緒にいるの見かけたら走ってくんだぜ。邪魔しに」

「え、あれわざとジャマしてんの? いやジャマだろうなーとは思ってたけど」

「風馬クソバカだからやっぱ黙ってていいわ。え、リコはどうなん? さすがに嫌って言ってない?」

「……まあな」

 英は、栱梛が付き合っていた同級生の莉子りこと一緒にいるときを狙い澄ましたようにやってきては、休み時間が終わるか、あるいは莉子が、話あるみたいだから、じゃあね、と離れるまで栱梛に話しかけ続けるのだ。

 さらには、放課後や休日、栱梛が莉子といるところを見透かしたように、電話までかけて栱梛を呼び出しては猫のように笑むのだった。なに? おまえ、リコといたの? あいつカワイソウだね。そんなんじゃ続かねえよ──

 その後、莉子からは別れを切り出された。なんか違う、別れよ、というそっけないメールが届き、栱梛も食い下がらなかった。このことを伝えると、英は勝ち誇ったように笑った。──ほーら、やっぱ続かねえって言ったじゃん。

 最後に届いたメールの内容だけは、英に言わなかった。

 クイナって、あたしよりアキラくんのこと大事にしてるよね。

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