指輪と小籠包 (春秋)

攻 春山青葉(よそのこ) 警察官。千秋とは幼馴染。

受 烏丸千秋 研究者。京都訛り。

※リバ


「…ハイ、受けとりました。ほな、また明日。学生サン」

 レポートを受け取り、ファイルにしまいながら、千秋はちらりと目配せした。露骨に安堵した顔をしている女学生は、ふたりとも目を見合わせて、それから──いつもならそそくさと研究室を去るのに──千秋の方を見上げてきた。

「あのぅ、質問があるんですけど」

「それ、僕でええの? センセイなら五時くらいに戻ってくると思うけど。言付けとこっか」

「あ、その、真剣な質問じゃなくって。ていうか、すみません。金曜日の小試験のことなんですけど」先生の作った問題から、烏丸さんが選んで出すんですよね? 潜めていても、若い女の声はよくとおる。

「君たち、先輩から聞いたな? 僕、今日早くあがるから、──スタバわかる? 大学の北門の真ン前。あそこで待ってて」

「わかりました」

「悪いけど飲み物は奢れへんよ。お菓子くらいなら考えたるけど」

「わ! ありがとうございます」

 素っ気なく言うと、千秋はファイルを事務方に預けにいくついでに、椅子に掛けていた上着をとった。秋物のダウン、染みるような紺色ネイビー──ポケットから手のひらほどのジップロックを出す。ふと振り返ると、女学生たちはもういない。千秋は口角を少し緩めながら、その中身を出して指にはめる。



「──、え、あとは実習でやった検査の手順説明できれば大丈夫ですか?」

「まあ、スラスラ説明できればじゅうぶんやろ。知らんけど」

 スタバのアーモンドフロランタンを渡しながら、ざっと説明する。教授から渡された問題群から、事務方といっしょに問題を選って小試験を作るのは千秋の仕事だ。正直、広すぎる脳神経内科学の試験範囲を網羅するのは、実習の一環で見学に来ているだけの学生には難しい。だから、暗黙の了解でこうして教えてやるのが、ここ数年の"習わし"なのだそうだ。ありがとうございまぁす、とお菓子を受け取った彼女たちは、スマホに必死にメモをしている。

「口頭試問の内容もわかりますか?」

「ミヤマセンセイのやつ? なんとなくわかるけど、問題そのまま言うてしまったらあかんやろ。これ、ただでさえ限りなく黒に近いグレーなんやから」

 ほうじ茶とキャラメルのクリームラテという、千秋からしてみればケッタイな思い付きの組み合わせを飲みながら、女学生たちはバス停できゃあきゃあ相談し始めた。

「君ら、医学部でしょ。大変やねぇ」

「あ、はい、えっと、でもまだ二年生なので。楽だと思います」

「ちゃんと遊んでる? 今、となりの精神科の医局で死にかけてる研修医見かけるから。早いうちに遊んどかないと死ぬで」

「わたしたちテニス部なんですけど、この実習終わったら同級生みんなで芦ノ湖いくんですよぉ」

「あーええねぇ」

 僕も箱根行きたいワ…と適当に返したところで、ふと、女学生二人が顔を見合わせる。そのまま、揃いの丸い瞳をきらつかせ、千秋の手を指さしながらこう言った。

「──烏丸さん、指輪してる」

 セクシャルハラスメントだのマリッジハラスメントだのを気にせず、好奇と憧れだけでそれを口にできる年頃だ。仕事中は外しているそれはよく磨かれていて、細い銀は花嫁色の反射光をくすり指にまといつかせている。

「ええやろこれ。ハリー・ウィンストン」

「え! まじですか」

「うそうそ」

 息をのんで見つめた彼女たちの瞳に、指輪の銀が反射する。千秋は手を振ってその夢を払う。

「研究者の薄給でンなもん買えへんて」

 それにこれ、買うてもらったんよ──その言葉は飲み込む。なあなあで半同棲が続いていたある日、冗談で、式も指輪も僕らには縁のない話やなァと言いあった恋人が、真面目な顔をして差し出してきた小箱のワインレッドを、今も鮮明に覚えている。




 仕事帰りに、混んだスーパーに寄るのが少し気後れするのはいつからだったろうか、青葉はできるだけ家族連れや老人を威圧しないように、大きな肩幅を縮めてカゴを取りに行く。

 警察官という職業は、望んでなったものではあるが、眼光や身のこなしが気づかぬうちに染まっていくらしく、人混みで避けられるようになって久しい。

 ビールを買っていこう、と思い立って寄ったスーパーではあるが、ずらりと並ぶ商品と人々をみていると、ふと同居人のことが浮かぶ。もう仕事は終わっているだろうか。

 つやつやとパックのなかで色とりどりに盛られた惣菜を見て、できあいでもいいな、と思いながら、青葉はスマホをとりだして電話を掛けた。

「もしもし、千秋。今スーパーなんだけど。今晩なんか買ってくものある?」

─あ。青葉ぁ。

 少し語尾をひっぱる声。昔から変わらない、自分にだけ甘えたな幼なじみの癖だ。

─今ショーロンポー作ってるから、なんも買わんでええよ。

 少し間が空いた。あ、そう、と自分の気の抜けたあいづちに重なって、せっかくやし、ビールぉといで、とやわい声色が右耳を包む。明日明後日休みやろ。祝杯や。

「……お前の好きな酒も買っとくよ」

─じゃ、カルヴァドス。

 ショーロンポーにカルヴァドスははたして合うかどうか、青葉にはわからなかったが、わかったと返事をして通話を切った。スマホケースにかちりとなにかが当たり、見ればそれはくすり指の華奢な銀色だった。




「あ。おかえり」

 鍵の音でわかったのか、ただいまの音をだす前に声がかかる。た、の口の形のまま、曖昧に呟いて、青葉は靴を脱いだ。

「手ェ洗い。色々したらでええからお皿とかお箸だしといて」

 黒いエプロンをつけた恋人の背中が、こまめによく働くのを眺めながら、青葉は言われた通り、スーツの上着をハンガーにかけ、少し悩んでからワイシャツも脱ぎ、襟と袖口に漂白剤をスプレーで吹き掛け、洗濯機に入れた。

 シャツを着て台所へ戻ると、千秋はまだ実を包んでいた。青葉を一瞥すると、「シャツ、ちゃんとシュッてした?」と、スプレーの手振りをする。

「したよ」

「偉いやん」

「当然だろ」

 ハイハイ、いい子、と母親ぶる年下の幼なじみの、黒いエプロンの腰ひもが縦結びになっているのを見つめながら、青葉は直してやりたいのを我慢する。

「ショーロンポーって家で作れるんだな」

「せやで。ネットに載っとった。ま、初めて作るんやけど」

 スマホの画面を確認しながらそう言うわりに、皮で実を包む手つきはなれている。元来、器用な質なのだ。…くすり指に、外したばかりの指輪のあとがあった。食卓の上に、ジップロックに入ったおそろいの銀色が小さく光る。細かい手作業のたびに外す幼なじみのこまめさを、青葉はいっしょに暮らすようになるまで気がつかなかった。

「ショーロンポーって、何が違うんだ、シュウマイと」

「スープ。…が、なかに入ってるのが特徴らしいわ。知らんけど」青葉、食べたことないん? と訊く流し目がやけに無防備そうに見える。

「んー。あんまり。シュウマイならよく食べたけど。っていうか、なんでわざわざショーロンポーなんだ?」

「僕、汁っぽいモン好きなんよ」無性に食べたくてしゃあない、と、言いながら、スマホの画面を確認する。汚れた指先で画面に触れないよう、曲げた指の関節でスワイプするのを見かねて、見たいであろう工程を表示させる。あんがと、とこちらを見ずにこぼす気安さに、ああ、こいつと伴侶として暮らしてるんだなぁ、という実感が広がる。

「難しいなァ。コレ。なんか、ヒダを十四以上作らんとダメらしい」

 うーん、と細かいことをしている千秋の隣で、買えばよかったのに、とその肩のラインを見ながら思う。千秋も仕事を持っていて、自分より早く帰ってきた日にこうして、手間暇かけてなにかを作っている姿を見かけるたびに思うのだが、好きでやっているのかも、と考えれば口に出せない。代わりに、「風呂入れとくわ」とその背に声をかけた。




 どう、と訊かれるまえに、美味しいと云う癖がついた。教育ってヤツかなァ、と青葉は考えて、いや、言ったときの表情が見たいだけだな、と思い直した。当の本人は、初めてにしては上出来やろ、と眉尻を下げて口許を緩めた。つ…と垂れる肉汁をなめる舌と唇の照りに、食卓の蛍光灯のあかりが急に眩しく感じられる。脂身をふくんだ肉だねの後味を、安いビールで洗い流せば、いくらでも食べられそうだと唾がわく。

「青葉ぁ」

「……何」

「中華街行かん? 明日か明後日」

「なんで今だよ」

「いや、やっぱしプロの食べたいなって」

「…お前のも旨いよ」

「まあ僕器用やからな」

 次のための参考や、参考、と言いながら、食卓でスマホをいじりだす千秋の指をやんわり画面からどけ──中華街の店を検索していた──青葉はもう一度「旨いよ」と呟いた。

「……どしたん。なんかやらかしたん。今素直に言うたら許したるで」

「してねえよンなこと。……明後日でいいか」

「ん。あ、ついでやからみなとみらい行こ」

 他愛もない会話が、湯気といっしょにふわふわ漂う夕食の終わりがけ、千秋が先に立ち上がった。自分の食器と、椅子の背にかけたエプロンをとって「先、お風呂もらうわ」と台所の方へ向かう。

 その背に向かって「準備しとけよ」と言うと、振り返った千秋の眉間に、ぬるっとシワが寄った。

「……僕、ホンマに青葉がしたがる日のタイミングわからんわ。何なん、疲れマラ?」

「お前ほんと下品だな!」

 耳慣れた笑い声を片耳で聞きながら、青葉は少し熱のおちついたショーロンポーを一口で頬張った。

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