【更新】夜の味(日月)


「弓弦先生は、しっかりしてるから一人でも心配してないけど」

 教職員の、年度末の飲み会の席であったと思う。

 おだやかな、退職予定の女性英語教師が、そう云ってから数秒間、暉は反応できなかった。

 隣の月彦当人は、そうですかねえ、とおだやかにウーロンハイなどを傾けていたが──暉だけが三秒ほど反応できなかった。

 年度終わりの、退職する教師を労う飲み会の席であった。身を固めていない若い教員たちに、少々面倒な学年主任が結婚はまだか、と時代錯誤な絡み方をしてきたのがきっかけで──その話題自体はすぐに、英語教師が上手に逸らしてくれたのだが、不意にそのあと彼女がこぼした言葉である。

 確かに、いつも身嗜みは整えられていて、礼儀正しくて、一見しっかりしているように…感じられなくはないのかもしれない。日ごろ、仕事場で自分の目に映る彼の姿を考えて、暉は思い直す。だが、プライベイトは別だ、とも思う。

 月彦はあれでいてかなり、暉からしたら変な男である。


 学生時代、五日間の八ヶ岳縦走予定の前夜のことを思い出す。こういう長い登山の予定の前、暉は月彦の部屋に上がり込み、必ず荷造りの進行度を確かめていたのだが──

「月彦、取り出しやすいとこに甘いもん入れとけよ」

「うん」

「何入れた?」

 暉は普段どおり、一口大ですぐに口に放り込めるチョコレートの袋をリュックの上に入れながら振り返ると、月彦は何やら、習字で使う固形墨のようなものを入れていた。なんだそれ、と目を凝らすと、それは有名な店舗の個包装の羊羹だった──「夜の梅」。

「これ」

「それ、じかに齧んの?」

「うん」

 平然と首肯く彼に、一瞬、なんと返したものか、と迷ったが──別に羊羹でもいいか、と思い直す。

「買った余りがあったから」

 そう云う彼は、昨夜突然に思い立ち、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」にある「暗闇で羊羹を食うと美味しい(要約)」という記載について、実際試してみたのだという。夜になるのを待ち、冬用の遮光カーテンを引いて、灯りを全て消して──

「で、美味かったの」

「いつもより甘かった気がする」

 頷いた月彦に、本当かよ、と問いただすと、うーん、と腕を組んで、ひょろりと長い首を傾げる。モディリアーニの絵みたいだな、と思わなくもない。

「視覚が遮られているから味覚が鋭敏になっていただけかも」

「曖昧だなあ」

「暉も食べるかい」

 そう云うと、冷蔵庫からもう一包み取り出してきた。いくつ買ったのだろう。礼を云って受け取り、──お前は「夜の梅」と「おもかげ」が好きなんだもんな、と内心つぶやく。

 この老舗の和菓子店では、その二つに「新緑」をあわせて、大抵小さな詰め合わせとされている。父親の職業柄か、それとも贈り主の好みなのか、弓弦家はそういう品をよく貰っていた。遊びに行くたび、紙の箱を開けて、好きなのを選びなさいと言われていた。

 ひんやりとした包みを指先で受けとり、黙って剥いて、ひと口齧る。

 四角く上品に固められた薄闇は、甘く溶けて、深いところから舌を痺れさせた。


 他にも、こんな話がある。

 職員室で隣に座っていた月彦が、「ねえ」とか「ちょっといいかい」の一言もなしに、唐突に話し始めた。

釈迦頭しゃかとうとか仏手柑ぶっしゅかんとか、人体の名前がついた果物ってあるだろう」

 暉は前者の存在を正直知らなかったが、月彦が云うならあるのだろう。

「頑張れば、全身ぶん集められないかな」

「寝な」

「足とか…ありそうだけど…」

「寝なって」

 三者面談の準備が全く終わらず、二人とも限界に近い夜の会話であった。夏の夜のなか、皓々と蛍光灯がともる職員室で、他にも何人かの教員が残っていた。

「お前、限界になると急に意味不明なこと言い出すからわかりやすいんだよ」

「そうかな……」

 ちょっと寝る、と素直に忠告を聞き入れ、おもむろに眼鏡を外して机に突っ伏した月彦を一瞥して、自分も今日はあと少し作業したら、キリのいいところで打ち止めにしておくか、と一度伸びをした。

 休憩がてら、ふとメモ帳をめくり、思いついた順に、竜眼りゅうがん乳瓜パパイヤ、と書き出していって、やはり足が思いつかない。スマートフォンという文明の利器で調べてみた。「足、果物」と打ち込んで検索すると、「踝」の漢字がヒットした。…そうではない。

 調べていくと、フトモモという果実があるらしい。ふふっと笑ってしまった。

 少しスクロールして探したが、他のパーツは無さそうであった。画面を閉じる時、あ、と思いつく。ある意味、最も直接的に人の肉体をあらわす果物。


 その果実の色と同じ、真っ赤なサワーの水面に、凍りついた己の笑顔が映っている。

「日嗣先生はね、ちょっと思いつめるところがあるわよね」

 ──先ほどの、「弓弦先生は…」に続く言葉である。

 喧騒の中の方が、かえって誰も聞いていない、というのはわりにある話だ。座敷席の奥のほうで、英語教師と、暉の二人きりの会話だった。つい一瞬前まで話を聞いていた月彦は、斜向かいの古典の教師に話しかけられて、既にこちらを向いていない。一瞬のうちに脳裏に投影された思い出はまだあざやかで、そこに英語教師のおだやかな声が落ちたインクのように染みた。

「意外と、突拍子もないことをするのはあなたかもしれないわ」

「そんなことないですよ。俺、小市民的幸福と、安全運転がモットーなんで」

 笑って言いながら、暉は柘榴のサワーを飲み干す。赤い液体の中で氷がぶつかって、無数の泡がその隙間をざわついて赤をぎらつかせる。

 柘榴。

 人の肉の味がするという果実。

 あの夜、最後に思いついたのはそれだった。人喰いの鬼子母神に仏陀が与えたという果実は、愛する者を失う痛みの味であり、あたたかい戒めの味でもある。似ても似つかないはずの、暗闇の羊羹の甘さが思い起こされた。

 酒精は喉から胸に注がれ、泡のように深くまで染み込む。心臓を取り巻く赤い液体が、柘榴の味になる。

 視線をやると、彼は空になったグラスを集めて卓の端に寄せていて、こちらを向いてはいなかった。青い血管が透ける白い頸を晒す月彦は、確かに、いつだって自分に対して無防備だし、浮世離れしているけれど──闇をためらいなく齧ってみる思いきりの良さに、不意に暉は置いていかれそうな気持ちになる。

 過ごしてきた日々のなかでは砂粒のように些細な出来事のはずなのに、今でも忘れられないあの夜の羊羹は、胸を痛めつけるほど、ひどく甘かった。

 ──夜に齧る柘榴もきっと、闇のように甘いのだろう。

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