SPARKLE SPARKLE(春秋)
病院前の坂道は、ぽつぽつと咲き始めた金木犀の匂いでいっぱいだった。
デスクワークがメインの仕事帰りだと、立って歩ける解放感のおかげで、逆になんでもできそうな気がする。
青葉はスーツの上着を脱いで、軽く背伸びをした。人がいない広い歩道の真ん中で、深く息を吸って、吐く。灯りはじめた街燈の下で、影が長く伸びていた。
病院の自動ドアから、見知った姿が現れる。ポケットからスマホを取り出して、画面に視線を落としっぱなしだ──自分にLINEでも送ろうとしているのだろう、と思いながら、青葉は声を張った。「千秋!」
ぱっと顔をあげた恋人は、わかりやすく笑顔になって、小走りに坂を降りてきた。
寒がりの千秋は、もうファーのついたモッズコートを羽織っている。
「ごめん、遅なって」
「別にお前のせいじゃないだろ」何の気なしに返してから、そっけなく聞こえたか、と思って「おつかれ」と肩を軽く叩いた。
「ほんまやで。こんな遅くなる予定じゃなかったんやけど」
「新しい検査?」
「せや。こう、電極つけて、脳波とか見ながらこう、……そんで、治療の効果見る感じかな。別に時間かかるものでもないんやけど、でも前の人らがえらい押しててな。始まったのが四時回ってたんよ」
「外来の時間、余裕で終わってんじゃねえか。先生たち大変だな」
「んー。まあ、もっと遅くまで化学療法とかやってる人おるし」
大変だなぁ、と言うと、うーとあいまいな返事をして、千秋はちらっと青葉を見た。
「なあ、北口のイタトマ行こ」
「この時間いっぱいじゃないか?」
「せやったら近くで適当なとこ入ったらええやん」
焦れたように眉を寄せる千秋に、青葉はごめんごめん、と笑ってしまう。「腹減ったんだな」
ふくれた幼馴染を見ていると、小学生の頃に戻ったような気になる。しかし、今は二人とも二十代半ばで、しかも恋人どうしだ。
恋人どうし、と頭のなかに響いたとき、ちょうど顔に秋風が吹きつけてきて、寒いはずなのに、耳から鼻がかあっと熱くなった。
先を行く千秋は足早に駅前の雑踏の隙間を縫って、すいすい目当てのイタリアントマトの方まで行くと、ガラス越しに店内を覗き込んで「禁煙席空いとる!」と嬉しそうに云った。早足で入っていった千秋の後ろを、青葉も鼻をこすりながら追う。
空いた席にいそいそと鞄を置き、ずいぶん嬉しそうにカウンターへ向かい、桜海老のペペロンチーノを頼む千秋の後ろから「同じので」と店員に告げると、少し驚いたように「お会計はご一緒ですか?」と訊ねてきた。
「はい」と頷けば、さっと千秋がカードを出した。財布を用意しようとしていた青葉は思わず真顔になるが、家計は一緒なのだから、と自分に言い聞かせる。
──そう、家計が一緒なのだ。青葉は唇の端がゆるみそうになり、変な顔をして、千秋の向かいの席に着いた。
「どうしたん変な顔して」
「うるさいわ」
軽口を叩いて、少し待っていればすぐに同じ皿が二つ運ばれてくる。湯気の立つパスタを前に、千秋が嬉しそうにフォークを握って、いただきますと云う前にちらりと上目遣いで青葉を見た。その瞳に火花が散っているように見えて、ずいぶん楽しそうで何よりだ、と青葉は自分も手をあわせて「いただきます」と呟いた。
「あー、席空いててよかったあ。お惣菜買って帰ることなるかと思ったワ」
「俺は別に、買って帰ってもよかったけど」
「洗い物するの誰やと思うてるん」
「………来週は俺がやります」
フォークを置いて頭を下げた青葉に、千秋は堪えきれずに笑い、ええよ、たいてい僕のほうが帰るの早いんやから、とお冷やをぐいぐい飲む。
「味濃いなぁここ」
青葉は瞬きして、「そうか?」と訊ねてしまった。
「まあ、お前薄味好みだもんな。作ってくれるメシとか」
何の気なしに云った言葉に、千秋はフォークの動きを止めて顔を上げた。
「……僕の飯、味薄かった?」
「実家の飯よりは確かに薄いけど、そういう味付けだろ」
はよ言えや、とぼやく相手の頭に、撫でるつもりで青葉は手を伸ばし、少し迷ってからデコピンする。
「言っとくけど、好きだからな、お前の料理。なんていうか、千秋の味だなって思ってた」
「なんや青葉スケベな言い方すんなぁ。誘ってるんか」
「お前いい加減にしろよここ外だぞ」
動揺して早口になった青葉に、湿度は高く温度は低い目で、千秋はにたりと笑う。「人前でアタマ撫でるのもビビっとるもんなぁ、青葉は」嫁さん候補がおったとは思えんわ、と舌を出す。ちいさくて尖った舌の先が、ちろりと赤く青葉を煽った。
「……悪かったなあ」
「童貞か」
「童貞だったかもしれねえな」
雑に返すと、そうでないことを一番よく知っている千秋は大きな声で笑う。昔だったらこんなことはなかった。僕が男だから外で恋人って思われたくないんやろ、とヒステリックに喚きだすまでがセットだった。
それだけ自分のことを信じられるようになった、ということだろう。
店を出ると、もうあたりは真っ暗で、澄んだ空気がきんと冷たかった。
青葉は手を差し出した。
「ん」と千秋もためらいなくその手を握る。
恋人なら手を繋ぐものだ、という曖昧な意識で、手を差し出したことは一度もない。
白い手のひらと、指輪が秋の空気を吸って、つめたくなっていた。じんわりと熱が伝わって、二人の体温がおなじになる。
恋人になって、初めて手を握ったとき、千秋が泣きそうな顔をしていたのをよく覚えている。
あれは、春の終わりだったように思う。
葉桜の下で、頬をべたべた濡らす涙を袖でぬぐいながら、千秋は洟をすすって一所懸命に話し出した。手は、ぎゅうっと締めつけるように握られていた。
「あ
青葉はなにも言わずに続きを待った。千秋は、なんでもないことに妙に色気を含んだ言葉選びをするのが癖だったが、このときばかりは雰囲気が違った。
「僕あれやろ。昔っから、アレあったやろ。さわったらビリビリくるぞーってな、みんな言って。二年の頃やったら、山田とか佐藤が僕ンこと、バイ菌みたいな言い方しよって、千秋にさわられたら負けみたいな遊び言い出しよって」
「……千秋」
「ほんまよっぽど、テキトーな事故装ってまとめて感電死させられへんかなって思とったわ」
「おい物騒だぞ」
「やかまし。……実際、僕あの頃お医者サンからも、薬でコントロールできるように治療しとるから、あんまし人にさわったり、水あるとこで怒ったり興奮したりしちゃダメって言われとって。でもそんなんできひんやん、子供やもん」
「あー、……うん、いや? うん……」
一度はうなずいた青葉だったが、少し首を傾げてしまった。詳細は省くが、当時、まるで子供とは思えない事件を千秋がやらかしていたことを思い出したからである。アレ、完全に自分の能力をコントロールして…というか悪用してたよな……という疑問が膨れ上がってきたため、少し千秋の言葉を遮って、悪い、と話しかけた。
「なあ、千秋。ちなみにお前、俺が小二…小三かな、そのへんで、なんか覚えてることあるか?」
「ん? ああ、僕が公園の鳩とか学校のメダカとかを水浸しにしてビリビリで殺しまくったときのこと?」
「覚えてんのかよ怖いなお前」
「あれは青葉が悪いんよ。僕、青葉といっしょに帰りたかってん、なのに青葉、サッカークラブなんか入って、放課後もずーっと運動場でボール蹴っとるんやもん」
だからって学区で動物殺傷事件を起こして集団下校させるな。と心底思う青葉だったが、上目遣いできょとんと自分を見つめている幼なじみを見ていると、もうなにも言えなくなる。この感情が憐れみという侮辱になると知ってはいるのだが、──こいつにはやっぱり俺しかいないんだなあ、と、不憫になるのだ。計算高く小動物を殺して、平然と、青葉
もう
「……千秋のことは、俺が面倒みてやるから。
いちいち触るのにビビってて、なにができるっていうんだよ」
手に力を込めたら、千秋の瞳には、涙が火花のようにきらめく膜を張っていた。
「嬉しすぎて、どうにかなりそうや」
「……そんでな、僕のこの
「……うん」
「昔みたいに感情抑えろとかむちゃくちゃ言われんでええからラクではあるんよな。でも、なーんか、魔法みたいな感覚ではなくなってしもた、ってかんじ」
「…んー?」
千秋は突然立ち止まり、青葉の顔をじっと見つめた。気づかず数歩、進みかけて、あっと慌てて青葉は戻る。
「青葉ァ」
「わ、悪い。お前と初めて手繋いだときのこと思い出してて」
素直に白状したら、千秋は豆鉄砲でも食らったような顔をしたあと、にへら、と子供のように笑った。
次の瞬間、繋いだ手の薬指に「バチンッ」と幻聴が聞こえるほどの静電気が走り、「ぎゃっ」と青葉は身を強張らせた。
「つまりぃ、このバチバチは、得体の知れん超能力ではなくって、僕の感情そのまんまなわけや」
痛ってー…とうめきながらも、口元が緩んでしまう青葉のその瞳を、絡めとるように千秋の瞳の中に流星の尾をひいて火花が散る。
頭の後ろのほうで、ぱち、ぱち、と音がする気がした。
「青葉、僕いま青葉とえっちしたら、感電死させてしまうかもしれへんで」
「……望むところだよ」
眼を見てそう返すと、唇で火花を味わった。
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