花散雨 / Scream In The Rain (春秋)

 世界が滅びればいいと思った夜があった。

五年前の三月十四日もそんな夜で、降りしきる雨に、早すぎた桜の花びらと一緒に打たれて、千秋は目玉が溶け落ちそうなほどの涙と憎悪に溺れかけていた。



「僕、これ好きやないワ」

 カヌレの小さい紙袋を手に持って、千秋ちあきはぼやいた。同じものを買った隣の女は「じゃ、あたしが食べるわ」と気のなさそうに返事しながら、スマホの画面を見ている。

 駅ビルのなかは若い女と若い男で混んでいて、揃って大学二年生の千秋と連れは、しっくりと甘ったるい渦になじんでいた。少なくとも、表面上は。

「ミイハ、早よして。僕今日はエッグベネディクト食いに来たねん」

「ちょっと待って、店長のLINE返してんの。……はい、おまたせ」

 ミイハと呼ばれた女はANNA SUIのマニキュアの光る爪でスマホを叩き、顎でエスカレーターの方向を指した。

 狭いエスカレーターに前後して、振り返ったミイハは壁に貼られたホワイトデーフェアの広告を指さす。

「チアキ、ホワイトデー買わないの」

「当日に買うアホがおるかいな。用意しといて、十四日に渡すモンやろ」

「まーそっか」

 でもあたしお菓子見たい、と言う女友達に付き合い、千秋もエスカレーターで地下にもぐった。

「こういうトコって普段なに売っとるんやろ」

「常になにかしらのフェアしてるんじゃない」

 薔薇の花びら型のホワイトチョコレート、フルーツたっぷりのミルフィーユ、見たことのない色のマカロンなどのラインナップを横目で見ながらそぞろ歩く。

「てか、さっきの話だけど、チアキってホワイトデーとか渡すんだね」

「僕、モテるんやで。毎年お返し大変なんよ」

「カムアウトしてないからでしょ」

「しても寄越すんよ、これが」

「百パーお返し目当てじゃんそれ」

「せやからあらかじめ決めとる」

 話しながら、ラッピングされたショーケースの隙間を歩いていくと、ぴたりと千秋の足が止まった。

「…なに?」

 面倒臭そうに千秋の方を見たミイハに、ため息と一緒に吐き出す。

「……昔っからの知り合いや」

「…あんたの知り合い、どうやらアホみたいね」

 腕を組み、でかい体を丸めてブーケ型のいちごのお菓子を睨んでいる男は、千秋よりひとつ歳上の幼なじみであり──二十年継続中の初恋の相手でもある。青葉あおばは昔っからそうやねん、と囁き、彼の背後へそろそろと回り込む。スタンスミスのスニーカーは足音を消すのに最適だ。

「……ばあ」

 背中を叩くと、奇声をあげて青葉は振り返った。柔道の技でも繰り出してきたらどうしようかとひやっとしたが、幸いすぐに「おい、千秋かよ」とほっとした顔をする。

「青葉ってホンマ、アホやなぁ。一周回って安心するワ」

「おい、いきなりご挨拶だな」

 黒い柴犬を連想させる眉をひそめてから、千秋の背後へ視線を向ける。

「一人か?」

「おるけど、ツレ」

 振り返ると、ミイハは少し離れたところでソウル発の新作スイーツを眺めていた。千秋たちの視線に気づいて、軽く手を振る。

「彼女?」

「ちゃうよ。トモダチ」

 青葉は胡乱そうな顔つきをした。どうせ生真面目な幼なじみは、千秋のことを遊び人と思っているのだろうし──実際、間違いではない──それを訂正したいと千秋も思ってはいなかった。

「妙に真剣に悩んどるやん」

 ショーケースを覗き込むと、いかにも青葉のような男が考える「女性らしい」パッケージが並ぶ──コイツ、放っといたらこのうさぎとパンジーの絵がついたピンクのやつ選びそうやな、と思うのとほぼ同時に「これ、どうかな」と青葉の左手がそれを指差した。

 その薬指に、細い指輪がはまっていた。

 千秋は、その指輪から目を離せずにいた。一瞬、言葉も忘れていた。

 幼なじみの視線に気づいて、青葉は少し気まずそうに、あ、と声を漏らした。そんな顔をさせるなんて、自分はどんな表情を晒したのだろう、と背筋が凍るが、すぐに青葉の顔は照れに染まる。

「なんつーか、婚約したというか」

 結婚を前提に、みたいな空気感になって、と犬歯をみせて笑う顔は、小学生の頃と変わらない。変わらないはずなのに。

「……へー、ついに」

「こういうのって、サプライズの方がいいのかと思ったんだけどさ。俺一人で選ぶのなんてむりだし、彼女と一緒に買いに行った方がいいかと思って」ほら、お前もそんなこと言ってたじゃん、と千秋の昔の強がりを無邪気に掘り返す。なんでそんなとこだけ僕の言うこと覚えとるん。言い返したい気持ちを抑えて、それでも抑えきれない毒を冗談の砂糖に申しわけ程度にくるむ。

「……ま、青葉一人にアクセサリー選ばせたらさぞかし悲惨なことになるやろなァ」

「うるせえ。どうせ俺はハートのネックレスを選ぶ男だよ」

 声がうわずっていないか、自分で確かめることさえ難しかった。平静を装うことの苦痛はダイレクトに体に反映され、きりきりと胸が締めつけられて息が吸えなくなる。冷えていく指先を震えながら握って隠し、なんとか笑みを作る。

「ま、式の予定が立ったら早めに教えてや。準備したるから」

「おう。たぶん、お前に色々頼むと思うし──ていうか、お前もあんまり遊んでないで、早く身ィ固めろよ」




 雨が降っていた。ぬるい春の雨は無数の手のように千秋たちの肩や足を不気味に這い回った。

 青葉との会話を終えて戻ってきた千秋の顔の白さを見て、ミイハも只事ではないことを察したようだった。エッグベネディクトも食べず、黙って駅ビルを出た二人は、雨のなかで黙りこくったまま歩き続けた。小さな青い折り畳み傘を持った千秋の白い手はわずかに震えていた。

「……チアキ、」

 意を決して声をかけた彼女に、千秋は返事をしようとしたが、声が出なかったようだった。

 水たまりに浮かぶ桜の花びらを踏み、それが真新しかった靴に泥と一緒にはりついたその瞬間、千秋はわっと膝を折ってその場にうずくまった。そのスニーカーの足先で、止マレの文字が、雨で黒く滲んだ道に白く浮かんでいた。

「なんでェ、あんな奴好きなんやろぉ」

 ぼろぼろになりながら、ありったけの力で咽喉を引き裂くような声だった。

 ミイハが言葉に詰まった気配がする。それでも止められず、放電するように、痛む喉から声が、怨嗟が、恋の呪いがぼとぼとと落ちてくる。

「違うねん。ヘテロとかゲイとかそれ以前に、根っこからなんもかも違うんよ」

「チアキ、ねえ」

「なのにどうして楽しいんやろうなぁ。なんもかんも違うのに、どうして話してていちばん楽しいんやろ。青葉と僕が大切やと思うモン、全く違うねん。なのになんで僕、アイツと離れられないんやろ」

 ぬるい雨が降る、桜が降る、白い花の屍骸が黒髪や背中に降り続ける。うなじにはりつく濡れた桜が凶器でさえあれば楽になれるのに、と、透明な心の血を垂れ流しながら泣きじゃくる。

「あたしさ、アロマンティクだからわかんないんだよ。でもそれが、チアキにとってマジでどうしようもない、替えがなくて、変えられないことだってのだけはわかるんだけど──」

 桜の真下で、ミイハは千秋を抱きしめた。細くて頼りない女の腕で、稲妻のように憎悪を迸らせる男の肩を抱く。

「──チアキ、千秋。わかるよ。世界が憎いっていう気持ちだけは、あたしにだってわかるよ」

 風がびゅう、とうなり、花嵐が二人の体を叩いた。折り畳み傘が飛んでいく。

 二十年や、と、止マレの文字を涙の河で睨みつけた。

「なあ。呪ってええよなァ。僕。呪ってええよなァ。

 なんで僕が命賭けて大切にしとるモン、こんなカンタンに終わってええことにされてしまうのン。なんで僕だけが、このも墓まで持ってかなあかんの。

 ニコニコ笑って二十年来惚れとる男の彼女のノロケきいて、プレゼントの相談乗ってやって、ほんで結婚式にまできちんと出たろ思うとる。アホくさ。糞食らえ。アイツらが永遠に気づかへんくらい完璧な、恋の葬式したる。地獄みたいに奇麗な式にしたる。世界でいちばん、新郎新婦のこと憎んどる友人代表なったるわ」

 はなが降る降る、白が降る。刃とおなじ色が降る。濡れてぎらつく散り際を、汚れたスニーカーで千秋は踏み躙った。そのまま、醜く燃える声の血を、黒い夜の底に滴らせた。低く、唸り、呪いのように。

「誰も彼も不幸になれ。僕とおんなじくらい不幸になれ。世界なんて滅んでしまえ」

 吹け、はな散る風。

 アスファルトに転がった青い折り畳み傘を、トラックが轢き潰して走り去っていった。






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このあと超・紆余曲折あって、結局向こうは穏便に別れるし、千秋と青葉くん(よそのこお借りしています)はくっつきます。


くっついたあと→ https://kakuyomu.jp/works/16816452220786401591/episodes/16816927859941402376

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