昏い水

★昏い水 (旦拝前提拝+)

※CoC「ソープスクール」HO1で通過済の探索者を用いています。シナリオの直接的なネタバレはありませんが、未通過で通過予定がある方の閲覧は推奨しません。

※別CP受けが他の人間と関係を持つ話です。

※不倫、暴力、性描写があります。




 しゃがんで、冷蔵庫の四角い光の中からタッパーを取り出す。深夜みる家電の光は、どこか生き生きとしている。繁華街のネオンのように、室内の暗闇に囲まれて息づいている。実家の母が送ってきたタッパーは、蓋が青いからすぐにわかった。

 家の裏の、サトウさんとこだったけどサトウさんが老人ホームに入っちゃって売りに出されてそこに越してきたタカハシさんがもってきてくれたという砂糖づけにした庭の夏みかんを、一口かじる。甘い。さぞ酸っぱかったはずの、色の薄い黄色な果肉は、砂糖とシロップに浸けられ、得たいの知れないぷるぷるした集合体につくりかえられている。サトウさんもタカハシさんも、顔なんて見たこともない。母からの電話で聞く実家のまわりは、ずいぶんと売り家と、新しい世代が殖えたようだった。

 老いていく肉体の、ひかえめな新陳代謝。

 最近、横になって、腹の上で指を組むと、どことなく息苦しい。指をほどいて腕を体の脇に戻すと、空気が腹に入ってくる。腕の重さに耐えられないほどか、とあまりの自分の肉体の衰えに笑ってしまった。

 甘さに湿った指先を洗うと、拝原は、台所の床に雑誌を破って敷いた。なんの雑誌だったか、どうして買ったのかもどうでもいいぎざぎざのページのなかで、アイドルが学生時代いじめをしていたとネットで告発され、騒ぎになっていることが記事にされていた。

 料理ばさみを持つ。いちばん大きくて手になじむからだった。そのまま、前髪に、急な角度で刃を差し入れた。ばつん、と閉じると、じゃり、と大量の髪を噛んだ金属の負荷を、指の関節に感じる。

 刃が閉じきる前に、あやうくさらさらと毛束がすべって逃げて、前髪におかしな段差ができた。大きくはねて癖のついた、南国の鳥みたいなメッシュの入った毛を、ぱちんぱちんと切っていく。根本から数センチは色が残って、断ちきられて、とても変な形になった。

 そのまま、襟足にも鋏を通す。からだが固くて、肩胛骨から音が鳴る。軋ませながら、やみくもに、めちゃくちゃに鋏を閉じる。しゃらん。じゃり。しゃきん。じょる。ぎりぎり。ぱちん。

 雑誌の写真の上に、赤い毛束が広がって、アイドルの顔写真は隠れていた。

 水色の、人工的なきらきらした髪の毛がひっついた鋏を、ふっと自分の手に当てた。

 皮膚。肉。ばつん。

 ……切っ先を離す。沈んでいた灰黄色な膚に、桃色がさっと差す。

 意味がない。

 こんなことしても。

 スマホを持つと、母からの着信に、なんの変哲もないメールを返し、電源を切る。



 展覧会は、市民ホールに併設された展示場でやっていて、隣の大きなホールでは講演会をしているはずなのに、不気味なほどに建物のなかは静まり返っていた。

 ならんでいる作品は、すべて、まさにこれこそがブルゥ、といわんばかりの青がはりつき、窒息させるほどに青く染め上げていた。海綿や小匣や日用品を、青いチョコレートのなかに落として、フォンデュしたみたいだ、と思った。すべての作品のしたに、「イヴ・クラインに捧ぐ」という文章と小さなサインがあった。

「トオル」

 突然、声をかけられた。振り向くと、かぶっていたフードが外れて、ばらりと短かったり長かったりする灰水色の髪の毛がこぼれた。そのきらきらの隙間から、昔の男が見えた。

「なんだ、お前。その髪」

 スーツを着たその男は、びっくりしたように、濃い眉を寄せて呟いた。その表情も声も変わらないので、昨日も会ったように切り返した。

「今日の夜、染めるつもりです」

「色じゃねえよ。いや、色もだけど、どうしたんだよ。誰かに切られたのか」

「いいえ」自分で切りました。答えながら、フードを戻す。でも誰かに切られた方が、よかったんですけどね。

 男は、顎を擦りながら、展示場の入り口から、一歩こちらへ近づいた。受付にいた人物が、じろりと睨む。拝原が会釈しながら、展示場を出た。

 男は、洒落たシャツに、明るい色のジャケットを羽織っていた。昔よりも余裕のある表情に、皺が浮かぶ。大学一年生の拝原と、在学期間が重なっていないのだから、この男ももう四十かそこらのはずだ。

「好きなのか」

「何をですか」

「あの展示やってる作家。それとも、イヴ・クラインか?」

「いいえ。入り口の青いポスターをみて、なんだか、ふらふらっと」

「クライン・ブルー。なんだよ、知らないで来たのか」

「はあ。聞いたことは、ありますけど」

「俺が教えたんだよ」

 昔な、と、男は、自分の胸と、拝原の胸を交互に指さした。薬指に、リングをはめていた。

「奥さんとお子さん、お元気ですか」

「……ああ。もう下の子が、今年小学生だよ」

 はやいですねぇ。

「講演会、いいんですか」

「もう終わったんだよ」

「舞台演出家の講演会って、なに話すんですか」

「聴きにこい」

「……本当に行って、いいんですか」

「来んな」

 うっそり、口角だけが持ち上がっている。このいびつな笑顔を見慣れた、自然なしかめっ面で男は一蹴する。

 展示場とホールがある文化会館をでると、自販機の前で、どちらからともなく立ち止まった。拝原は薄く笑み、ポケットに手を入れた。適当に押したボタンのあと、ごとんと自販機がつめたい珈琲の缶を吐きだした。

「本当は、あなたのポスターを見て、ふらふらっとしたんです」

 珈琲の缶を、親指と人差し指で上下につまんで支えながら、呟いた。蜘蛛の脚のように広がった指の間から、こちらを向いた男の目を見た。

「……最近、あんまりあなたの舞台、みてないなーって」

「映画の仕事がはいってんだ。あと、連載。……書籍化するかは、わかんないけどな」

 あいかわらず、不気味な手してやがんな、と、男は拝原の手に腕をのばし、弾くように、珈琲缶から指を外させた。小さいのに重たい缶を受けとめ、男は、俯いて長く、息を吐いた。



 アパートの部屋にこもった、ぬるい雨のような空気に、男は大げさに顔をしかめた。

「掃除はしてますよ」

「……厭ぁな、女が住むような部屋だな」

 床に積まれたシャガールの画集を一瞥して、しめ切られた窓を見て、磨かれた、古いシンクを見る男の目は懐かしげに細められている。洗ったタッパーから、甘い匂いが消えない気がする。

「駅近いし。いいじゃないですか、きれいでしょ」

 狭い廊下の壁に、もたれると天井が近い。規格外の化け物の手足で、少し離れた玄関にある電気のスイッチをつけた。ぎら、と髪に油膜のような光が反射する。その手に、男の指がかかった。ぱちん、と、男の指に力がかかる前に、自分で電気を消す。湿った、青っぽい暗がりで男が笑う。

「教師がこんなんで、いいのかよ」

「だめですよ」

 男のベルトの金属に、髪の色が反射した。今晩中に、黒く染め直せるだろうか。そんなことはどうでもいいのに、ずっと買ったばかりのヘアカラー剤を視界の隅に入れていた。

 暗い部屋のなかで、なにかを蹴飛ばして、もつれるように後ずさる。手に持っていた珈琲の缶を、開けもせずに男は放った。

 昔の男は、キスをするときに必ず拝原の、上顎の独特の歪みやずれた歯列を舌でなぞる。このいびつが癖になる、と言った。その骨格が病気だと知っていても、拝原の答えは聞かなかった。また、違う唾液の味がする舌が、言葉を奪って、口蓋のふくらみをなぞっていく。

 向けられる欲望が身勝手なほど、反射のように、からだの奥のほうからじゅわりと、黒いよろこびが滲みだして、くる。

 くらり、ときてしまう。

 欲しがられている、という卑しい自負。

 滲みだして、ぽとぽとと、フローリングに溜まっていく。

 昏い水。

 からだの奥から満ちてくるつめたい液体に、ぶるっと震える。



 髪に指を差し込まれ、やがて握られた。指の腹が脳に沈みこむような錯覚をおぼえ、目眩がはげしくなる。口でするのが好きだと、言ったおぼえはないのに、必ず彼は立ったままで、拝原に膝をつかせる。萎えた男のペニスはものを見る器官を失った深海生物のようで、生温かい。

 昔より勃たないな、と思っているうちに、急に男は腕を伸ばして、拝原のバッグをひっくり返した。やがて見つけた、ビニール袋の中のコンドームのサイズを確かめていたが、すぐに封を切った。「最初からそのつもりかよ」と言いながら、ぐっと口の中のものが質量を増した。

 若い男のように、性急にはいってきた。小説や映画と違って、セックスはいつも痛い。そんな相手としかしてないからかもしれない。気づかないうちに体の表面が湿り、擦れあう皮膚と粘膜の間で水音が立つ。

 床に押さえつけられた拝原は、男のへその下をなぞりながら、そこに、白いものが混ざっていることについて考えていた。まだ年老いているわけではない男の肉体に異物のように混じった白い陰毛、これはなんだろうか。それは拝原にとってしるしに見えた。それは、異世界じみた青い夜が、分厚いカーテンの隙間から滲み込み、部屋にとろとろと溜まっていくのと同じように、侵略ではないだろうか。この世界のどこかにいる、姿のない忌まわしいものの。空虚にねじ込まれる熱が手足の感覚を失わせていく、脳と性器だけの廃棄品のセックス・トイになる。征服されるのが楽でいい。安易に、苦しくなる。遠くへ、遠くへ抛って、ばらばらにして。

「相変わらず汚ぇ背中だなァ」

 背後からのしかかる男が、背骨をはさむ皮膚を指で押す。自分の背中なんて鏡で見ないけれど、きっとろくなものでないのはわかっていたので、男の声の、なじんだ温度にほっとする。

 左右均等にあけられた、コルセットピアスの痕は、十年以上たっても消えない。

 当時はまだ結婚していなかった、芸術家的な気質の色濃かった男は、拝原の背中にピアスをあけた。男は芸術を求めていて、それは拝原には理解できないものだったし、自分自身が求められているのではないということはわかっていた。要するに、倒錯的芸術と暴力的征服欲のための獲物だったのだろう。それは美しい造形であってはいけなかったらしい。自分の、いわば異形っぽさのある身体的特徴と、陰気な性質をいたずらに消費して、男はそのうちに拝原を捨て、結婚した。

 あのとき撮られた、やたらにアーティスティックなモノクロームの写真には、埋め込まれた異物のような背骨と、ピアスに通された青いリボンと、散らばった鱗のような傷痕があった。

 あの写真は、どこかへ出展されたりしたのだろうか。どうでもいいが、されていたら、いいなと思った。そして、どうでもいい、汚い、と、廃棄されていればいいな、と。知らないところでも汚されていたい。乱雑に消費されて打ち捨てられ、忘れられる行為を、自分の内の空虚にそっとしまい込む。

「お前とヤってるとなぁ、なんだろうなぁ……」男は、指輪をつけた手で、拝原の胸の手術痕をなぞる。「なんか、人間じゃなくて…奇形とか…人形とか…気味の悪いもんとヤってる感じがして……」

 肩胛骨の尖りに親指をかけ、ぐいと体をそらさせる。自分の腕だって重たい肋骨の上に、強い力がかかって、息ができなくなる。

「興奮するんだよ」

 青いリボンをひっぱって、皮膚がひきつれる感覚がよみがえる。腹の奥からじゅんとにじみ出た昏い水が溢れて、涙に混じってうめきが出た。泡みたいに消えるこのうめきも、あの意味のない写真も、この汚い背中の傷痕も、ぜんぶは知らないのだ。知りもしないくせに自分を不幸にしたいなどと言うのだ。

 消えない傷痕はお前だけのものじゃない。この汚らしいキャンバスに、傷を塗り重ねて、まったく新しい絵を描くのだ。その見るもおぞましい絵を、あの男に見せてやる。だから早く、この肉体の空虚に満たせ。水を。昏い水を。青く、灰色で、ぎらぎらと輝く、甘くて腐った水を。

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