葉桜 (旦拝)

※CoC「ソープスクール」HO1、HO2で通過済の探索者を用いています。シナリオの直接的なネタバレはありませんが、未通過で通過予定がある方の閲覧は推奨しません。





 赤や黄色に塗られたタイヤが、半分地面に埋まっている。それは巨大ないもむしの背中にもみえる。

 その一番端のひとつに腰かけて、拝原はいばらは、まばゆげに左目を細め、芝生を駆け回る子どもを見つめている。

「トオルセンセー」

 まるで外国の名前でも呼ぶように、甲高い声で叫びながら、男の子が走ってくる。

「あっちの木にいっぱい毛虫いた!」

「おや。葉桜の季節ですからね」

「みて!」

 袖をつかまれ、立ち上がるのを待たずにひっぱられる。よろよろと中腰のまま行くと、なるほど桜の根本に連れていかれた。枝からは緑が噴き出し、隙間から白い光が散乱する。

 少し高くて太い枝に、ブランコがわりにタイヤがつるされていて、男の子はそのタイヤの下を指さした。かがんで目を凝らすと、風に揺れる草の間を這う毛虫がいた。

「アメリカシロヒトリですね。毒はないけど、あまり触っちゃだめですよ」

 拝原が顔をあげると、男の子はいつのまにか、姉にも毛虫の存在を伝えるために、芝生の真ん中のほうまで駆けていってしまっていた。

 はあ、と息をついて、かがんだままじっと虫を見ていると、不意に近くで、大人の足音がした。

 もう一度顔をあげると、桜につるされたタイヤの真ん中ホールからのぞく、見知った人の姿がみえた。

「あ。旦波たんば先生」

「こんにちは、拝原先生」

 快活な笑顔で、穴の向こうから旦波は片手をふった。

「奇遇ですね。先生、体はもう良くなりましたか」

「ああ、まあ…そうですね……」

 普段から下がりぎみの眉がさらに下がる。

 旦波は、子どもたちと拝原を見比べながら笑顔のまま訊ねた。

「……結婚なさってたんですか」

「まさか。年齢が」あわないでしょう、と続けはしなかったが、下がった眉がそう言う。

「…連れ子?」

「だから違いますよ。知り合いのお子さんです」

「ああ」

 旦波はそれ以上言わなかったが、視線はじっと子どもたちに注がれていた。

 下の子らしい男の子は、小学生になるかならないかくらいの年頃で、芝生のうえを飽きもせず駆けずり回っては転がっていた。なにが楽しいのか、けらけらとよく笑い、時おり拝原に拾った石などを見せにきたりしている。

 その子どもが、何かを見つけたようにぱっと遠くのほうへ駆けて行ってしまった。慌てて拝原が「あ、ダメですよ、あっちは。…旦波先生すみません、お姉ちゃんのほう見ててください」と立ち上がり、後を追っていった。

 突然に子守をふられた旦波は、とりあえず「お姉ちゃん」のほうへ視線を向ける。

 上の女の子は、澄ました顔をして、芝生のベンチで本を読んでいる。子どもの腕には余りそうな分厚く、黒っぽい装丁は、外国の有名なファンタジーのようだった。

 大人ひとり分あけ、旦波が隣に腰掛けると、女の子はちらりと眼鏡ごしに視線を向けた。最近は小さな頃から視力が悪い子が増えたな、と感じつつ、旦波は「こんにちは。たんばといいます。あそこにいる拝原先生の友だちです」と自己紹介した。

 女の子は「……えー?」と、まだ訝しげな表情をしていたが、気にせず、旦波は平坦な口調で「それ」と本を指差した。

「僕も読みましたよ」むかしね、と言うと、女の子はぱっと顔をあげて「映画みてる?」と訊いてきた。

「最初のやつは、TVでやってたのを観たよ」

「りおはルーナが好きなの」

 そうか、この子はりおというのか、と思いながら「いいね」と適当に返す。女の子はまたなにか言おうとしたが、子どもの突き抜けるような声が二人の間に飛んできた。

「ねーちゃん、おんぶバッタいたー」

「えー」

 彼女は本を置いて、ぱっと立ち上がって弟の方へ走っていく。なにかを見せられ、「おんぶしてないじゃん」とつっけんどんに言い、むくれた弟が「つかまえたら、上のが逃げた」と言い返している。

「りおがカマキリとったげるから、見てなよ」姉は夏に向かってのびようとする草地に顔をもぐらせ、弟と一緒に、弾けるように緑の世界を楽しみ始めた。

「拝原先生」

 子どもたちが自分で遊び始めたので、少し肩の力が抜けた拝原に、旦波は声をかけた。

「知り合いって、どんな方ですか?」

「ああ……大学時代のサークルの、OBなんです。僕が入ったときにはもう卒業してたし、なんならサークル自体にもあんまり行かなかったんですけど……なぜかウマがあって」

「なんのサークルだったんですか?」

「映研です」

 というか旦波先生はなぜ公園へいらしたんですか? いえ、ここじゃなくて、ここを通ってはす向かいの図書館に行くつもりだったんです。ああ、なるほど。どこかしまりのないやりとりを交わしていると、不意に着信音がした。上着のポケットをまさぐり、拝原は電話に出る。ほんの短い受け答えののち、通話を切った。

「リオちゃん、ユウジくん」

 意外なほどはっきりと通る声で、拝原が子どもたちを呼ぶ。教員というのは大きな声がでなくては始まらない職業だ。

 子どもたちは素直に駆け寄ってきた。あと十メートルかそこらのところで、女の子は走るのをやめて、うつむき加減に歩いてくる。男の子はそのままの勢いで拝原に体当たりして、けたけたと笑っていた。

「お父さんから連絡来たから、図書館の方へ行ってましょうか」

 ユウジくん、と呼んだ男の子の手を握り、遊ぼうとひっぱったりぶら下がったりしようとするのを押しとどめながら、拝原は姉のほうにも手をさしだした。

「わかった」

 とたんに大人びた口調で返事をした女の子は、拝原の手を無視した。

 拝原はいつもの困ったような表情で「車に気を付けてくださいね」と女の子に声をかける。

「僕がつなぎます」

 旦波は大股で近づき、ぱっと彼女の手をとった。意表を突かれたように、彼女は顔をあげて旦波の顔を見上げたが、「……危ないからね」と見下ろしてきた彼の目に、言葉を飲み込んだようだった。

 図書館の前にある、横断歩道の手前で立ち止まると、不意に旦波は口を開いた。

「大人もね、子どもの面倒を見てないと怒られるんだよ。だから手を繋がなくてはいけないんだ」

「おこられるって、だれに?」

「世間に、…かな」

 信号が青になる。後ろからは、元気いっぱいの男の子に、肩車をせがまれている拝原の、力ない「一回だけですよ」が聞こえる。

 図書館前の、つつじの繁みの前で子どもをベンチに座らせる。ほどなくして、横断歩道を、男がひとり渡ってきた。最初からこちらを見つめていて、旦波と視線があった。拝原が声をあげる。「リョウさん」

 世間的にみて、けしてサラリーマンやその類いではなさそうな四十絡みの……レザーのブルゾンの似合う男は、片手をあげて答えた。

「悪かったな、トオル」

「いいえ。お話はすみましたか」

「ああ、……そちらは?」

 旦波は頭を下げ、「旦波緑青です」と名乗った。拝原が、同僚で、体育の先生だと説明している間、旦波はじっと、その男の佇まいを見つめていた。『バッファロー'66』のヴィンセント・ギャロのようなファッションが様になる、それでもどこか内面の瑕疵きずを匂わせる、いびつな美貌の中年男だ。

「カジイ・リョウタです。舞台の演出なんかをやってます」

「あれ。お聞きしたことがあるような……映画の演出とかもやられてます? ほら…"新・曽根崎心中"?」

「ああ、それそれ」

 テレビでもやったからかな、知ってもらえていて嬉しいですねと男は笑う。目尻に折り畳むような皺が寄り、その微笑の印象を濃くする。

 とーちゃん、はやくごはん買ってかーちゃんむかえにいこ、無邪気に父親にまとわりつく男の子の後ろで、女の子は、拝原を無視したのとおなじような背中をして、じっと父親を見上げていた。

「リオ、どうした。おいで」

 男が手まねくと、やっと不満そうに父親の手を握った。「お父さん」「ん?」「いつも仕事とか、…他のこととかいっぱいで、やだ」「んん……まあな」「りお、待つのやだ」

「そう言われてもなあ」さらりと受け流すばかりの父親に、拝原と旦波のほうがひやひやとする。子どもの少ない言葉のなかに感じ取れるひりひりとした純粋が、限りなく尖っている。

「じゃあ、ありがとな、トオル。礼は今度するから」

「ああ……」

 ゆら、と拝原の長い首が傾く。ぞろり、と前髪が、その、薄く笑った目元を隠す。

「……そういうのは、いいですよぅ、別に」

「お父さん!」

 金切り声が響く。「こら」と父親は娘の手を引いて窘めた。

 ふっくらした頬を泣きそうな赤にして、唇をかんで黙りこんでしまった女の子の手を引いて、カジイは去っていった。男の子は、振り返って拝原たちに手を振った。葉っぱのように小さな手だった。



 図書館前の自販機で、拝原は微糖のコーヒーを買い、旦波はお茶を買う。

「よく、たのまれるんですか。子守り」

「よく、でもありませんよ。というか、あまり無いです。これで四、五度めくらいかな……」会うたびに大きくなってて、驚きます、とはにかむように笑う。

「嫌とは思わないんですか」

 旦波の唐突な問いに、相手は一瞬黙った。

 コーヒー缶を、並外れて大きな手のなかで不器用に転がしながら、拝原は少しだけ首をかしげた。

「別に……特に予定があるわけでもなし。暇があっても、買い出し行って、映画を観るくらいしかしないですからね、僕。楽しいですよ。子どもといるのは」

 力の抜けた笑みを浮かべる拝原を、「トオル」と下の名前で呼んだ男の声色が、耳の奥に潜り込んで離れない。

 そして、男に向けられる拝原の──眼。

 ……いいですよぅ、と、乱杭歯の間からこぼれた声色が、脳みそに滲みて、おぞましい。

「…拝原先生、ああいうの」

 よくないと思いますよ。

 生ぬるい、春の腐ったような風が、足元を転がっていった。

 拝原は、旦波のほうを見おろした。ぞろり、と、拝原の前髪が揺れる。

「──なにがですか?」

 きょとんとした顔で、そう言った拝原の瞳は、昏い、不透明に輝く水面をのぞいたような感じがした。

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