★房事と茹卵(春秋)

 冷蔵庫をあけると、卵ケースにならぶ白い殻に、黒いマジックで「ゆで」と書かれていた。

 まるくて細い、千秋の字である。それを見た途端、青葉はなんだかむらっとした。

 けして卵に関する特殊な癖をもっているわけではない。ただ、ゆでた卵にマジックで「ゆで」と書いて、生卵と混ざらないように卵ケースに置いておく千秋の姿──玄関や居間から見える、黒いシンプルなエプロンをつけた千秋の斜めの顔、頸筋、肩の直線的なライン。

 その二つのゆで卵の後ろには、生卵がならんでいる。

 その一番奥の一つに付箋が貼られていて「5/24」と書かれてあった。消費期限のようだ、と気づいた途端、青葉の首が火照りだした。弱火でことこと煮立てるように、だんだんと「きゅん」という感覚が、胸や腰の奥で弾けだす。

「おまたせぇ」

 丁寧にタオルで髪を挟み、水気をとりながら千秋が風呂場から出てくる。

「え、ああ」少し驚き、冷蔵庫の扉に指をかけたまま、一歩離れ、千秋の方を向く。「髪洗ったのかよ」

「今日汗かいた気ィしたもん」

 言いながら、するん、と猫の仕草で千秋が青葉の腕の下をくぐる。開けっぱなしの冷蔵庫のなかを覗き、水出しの麦茶─千秋が好きでいつも作り置きしてある─を取り出して、コップに注ぎながら、青葉に半眼を向けた。

「ベッドでムード作っといてくれればよかったンに」

「そんなん無理だっつの」

「色気のない男ォ」麦茶を飲みながら、片眼でちらりと千秋は青葉を見やった。…と、「あ」と声をあげ、ちょいちょい、と青葉を手招きする。

「なんだ」

 顔を寄せると、耳朶をつままれたので、内緒話かと耳を向けたら、ちゅ、と耳のすぐ下にキスをされた。

 いつもなら真っ赤になって情けない声をあげるところだが、今日は洗いたての前髪の先が頰に触れ、思わずぎゅっと目を閉じてしまった。

「つめたっ」

「もー、じゃあドライヤーするから待っとって」

「なんでお前いま髪洗ったんだよ? あとでまた入るんだからいいだろ!」

「いい匂いしたほうが嬉しいやろ!」

 ぷんぷんする千秋が、お互いの私物を置いておくスペースに一度引っこむ。何をするのかと目で追うと、モバイルバッテリーを挿したスマートフォンを手に「音楽かける?」と言いながら戻ってきた。

「いや、音楽は要らねーだろ……」

「じゃあええか」

 そうは言いつつも元の場所に戻すわけではなく、二つをベッドの脇に置いた。数秒、沈黙が生まれて、青葉は途端にどぎまぎする。この沈黙のなかでするのか、と、初めてのときはどうしたっけ、などと、思考はあっちこっちに散らばる。

「あのさー、千秋。やっぱ、無音は……」

「……青葉ってもしかして、元カノとセックスするときラブホでTVつけとった人?」

「つけない奴いるのかよ!」

 思わず叫んでしまった。

「アホか。ヤっとる最中、なんか冷めるノリのモン流れたら最悪やないか」

「いや最中とかじゃなくて、その、入ったときにさ、すぐ始めるわけじゃないじゃん」

 元カノと入ったときのことを思い出す。女性人気が高いものをネットで検索して予約したので、外観からして存外普通のホテルのように(少なくとも青葉には)見えた。内観もそこまで特殊ではなく、青葉が物珍しくきょろきょろしている間に、元カノは「あ! Netflix観れるって!」と嬉しそうにテレビのリモコンを握って操作しだした。

 結局、目ぼしい番組がなく、なし崩しにYouTubeで適当なBGMを流しながらになったが、終わったあとに「音要らなかったねー」と笑っていた元カノの声がよみがえり、頭を抱えたくなった。その後も、何度か機会はあったが、慣れから生じる惰性での行為に、緊張緩和の音楽は必要ない。だがしかし、まだ二回目、しかも幼なじみから恋人になった相手との行為は話が変わってくる。と、少なくとも青葉は思うのだった。

「ホンマに青葉はムード無いなあ」

 千秋はベッドにぼすんと座ると、また青葉を手招きする。近づくと、腕を軽く広げて、じっとこちらを見てくるので、がばっと勢いよく抱きしめてそのままベッドに倒れこんでやった。

「重たっ」

「潰すぞー」

「ぎゃあ、殺されるう」

 まるで小学生時代のじゃれあいと変わらない。どうしたらいいのかわからないが、不意にそのままのテンションで、千秋が青葉のズボンに手をかけてパンツごと引き下ろした。

「お前それは禁じ手だろ!」

 つい、小中学校のときのノリでその手を掴んで阻止しようとしたが、ばっちり目が合い、びりっと腰に電気が走った。

 千秋はにたり、と、猫のように大きく口を開けた。

「舐めたげよっか」

「…訊くな! そんなこと」

 あー、と千秋は声をあげながら、ぱくりと先っぽを咥えた。ぎゃあ、と青葉の情けない悲鳴が出た。舐めるんじゃねーのかよ。早いよ。この玄人め。

 そこでいたずらをし返せるほど慣れてもおらず、着ていたオーバーサイズのシャツからのぞく千秋の、卵のようにつるりとした皮膚の、肩から背中にかけての複雑でゆるやかな陰影を目で追うくらいが関の山だった。千秋の腰骨にはまだパジャマが引っかかっていて、後で引きずりおろしてやろうと心に決める。そのまま視線で脚を舐め、きゅっと丸まったつま先を見て、フローリングからもちあげた視線の先には、電気がつけっ放しの台所。青葉は息を呑む。

 あの台所で、いつもエプロンをつけて家事をしている千秋が、今ここでこうして自分のペニスを、とぐるぐるし始めた青葉の眼を上目遣いで捉えながら「ん、んっ」と鼻にかかった声を漏らして巧みに咥えこむ。うわ、と生々しい感触に腰がこわばった。親指で裏筋を擦られ、会陰を押され、袋をふにふにと揉まれる。辛抱が足りないと自分でも思うが、みるみる硬くなる。それにつれて、青葉の呼吸が荒くなり、心臓の鼓動も速くなる。

 やばい、普通に全然勃つ。青葉は意味もなく口元を覆った。今まで気づかなかっただけで男が恋愛対象範囲内だった──という事実があったとしても、そもそもこいつ幼なじみなのに。小学生の頃から知ってるのに。考えたことなかっただけで、目で見たらめちゃくちゃヤれるの、我ながらこわい。性欲ってこわい。思考がぐるぐるし始めて、二回目だというのに童貞のように頭が真っ白と真っ赤の二色の渦巻きに支配されてしまう。

 だんだん千秋の顎のほうも大変そうになってきて、歯を当てないように苦労して引き抜くと(それでもちょっと歯でしごかれて余計に興奮した)、男の象徴がすっかり臨戦体制で鋒を天に向けていた。そのツヤツヤぬめった多少グロテスクな質感に、耳を赤くした千秋はじーっと視線を注いでいたかと思うと。

「青葉のコレ、なんで恰好ええん!?」

 しみじみと言われ、変な声にもならない音が喉から出た。思わず千秋の頭を軽くはたいてしまう。

「何言ってんだボケ!」

「だって、僕青葉の顔も体つきも恰好ええから好きやけど、コレの形まで恰好ええ、というか僕の好みなんてそんなことある? 奇跡やん!」

「いやもう黙ってろ恥ずかしいから! バカ! 頬ずりすんな!」

「あっまだ大きくなりそう、いい子いい子」

「もう無理だよ!」

 潤んだ先っぽをわざとらしく掌で撫でられ、びくんと魚のように跳ねる。「ッあー…」と、声が漏れてしまい、面白がった千秋がこなれた手つきで先端を擦る。

 その濡れた指先が卵の殻に「ゆで」と書くところを想像して、玉の方がぎゅっと熱くなって痛いほどだった。

「…挿れたい?」

「…………千秋が嫌じゃないなら」

 本能を抑えるのが難しすぎて声が変な感じになった。千秋はひとしきり笑い、「準備してるもーん」と嬉しげにベッドの頭側、目覚まし時計の隣に置いてあったコンドームの袋を手渡してくる。

「久しぶりだから、優しくして」

 自分以外との行為を示唆されて、頭にも血が上った。めいっぱいめいっぱいして、こんなの初めてとか言わせてやりたい気持ちがないわけではないが、いかんせん、青葉自身の総合経験数がそれほど多くはない。艶ごとの天才というわけでもないので、素直に少しばかりビビりながら、先を押し当てて「入れるぞ」とぶっきらぼうに囁いた。

 「ん」と枕を抱えて軽く頷かれ、慣れた行為だというのが強調される気がして、はらわたと腰の奥がぐらぐら煮立った。自分も随分と手慣れてゴムをつけたくせして、身勝手なその嫉妬の火を押し当てる。丁寧に進めて、背中に覆い被さるようにシーツに手をつくと、千秋の指輪をした手が目に入った。

 いい匂いする方がいいとか、ムードがどうとか、そんなこと言ってるこいつが、この裸の上に服着て外出たりエプロンして家事したりしてんだ、そんでこの濡れている指先で仕事したり卵に文字を書いたり、平気な顔で、こうやってセックスした日も次の日も、この体がこの顔がこの声がこの手がこの目が、生活を営んでいくのだ。

 そう思うと、なによりたまらなかった。

「…あのさあ、動いていい?」

 そっけない物言いになってしまった気がしたが、押し殺しそうとする獣の息遣いがその本心を伝えてくれているはずだった。実際、耳元で囁かれた千秋はびくっと体を跳ねさせ「ン」と曖昧にうめいた。いいように解釈して、始めだけは軽く揺さぶるように、すぐにぬちぬち音を立てて抜き差しし出した。

「あ、あ、やっぱちょっと」

「痛い?」

「なんか、おっきい…」

 なんでそういうこと言うんだ。そんな掠れた声でそんな赤い耳して。おい。

 速さこんくらいでいいのかな、とか、すぐ出したらダサいな、とか、頭の隅では色々考えるも瞬く間に興奮に熱せられ、泡になって弾けてしまう。

 自分は幼なじみの千秋と恋人で、家族で、そしてセックスしているのだ。

 その地続きの生々しさが脳をずぶずぶに沸騰させる。

 これだと息しづらいィ、と文句を言われたので、仰向けになってもらう。今更なのに、脚を開くのを少しだけ躊躇ったような仕草にまたぐっときた。股関節をやわらっこく、大きく開いて、腰を押しつける。腰だけじゃない、腹も胸も、肩も腕も足も顔も、瞳も心臓も、どこもかしこも近くて熱かった。裸よりもあまりに高鳴った鼓動を聞かれることが恥ずかしくなるくらい、何もかもが伝わっていた。あ、と声が掠れて、喉の深いところから沸騰して、溢れる。胸が恋の熱でいっぱいでぐらぐらだ。

 腹の中から揺さぶられた千秋がぎゅっと目をつぶって、青葉の肩に手を置く。

「もう大きくならんってったぁ」

 泣き言のように弱々しい声をあげながら、手を首に回して、ぐ、と軽くしがみついてくる。

はよぅ。早うしてぇ、青葉ィ」

 ──なんで今呼ぶんだよと口にしたつもりで、できていなかった。このまま抱き潰してしまいたいと朧げながら高熱のなかで閃いた覚えだけはあるが、噴き溢れた腰の火が心臓を炙って、脳みそを茹であげてしまったので、頭が多少冷えた頃には可愛い弟代わりだった幼馴染は、獣に食い荒らされた獲物のように小さく震えながら失神していた。はふはふと、熱いものを食べているときと似た呼吸はまだ荒く、今度は優しく抱き込んで頬を撫でてやれば、「ん」とまた弱々しく、いつもはなんでもできる器用な指を広げて、昔とおんなじように青葉に抱きついてきた。

「…また、こんくらい激しいのしてェ、青葉兄ィ」

「おい、起きたと思ったらお前ッ」

「へへへ」

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