縷紅新草(黒昼顔)



――人目しのぶと思えども

羽はうすもの隠されぬ――

   『縷紅新草』泉鏡花





「論文掲載と、誕生日おめでとう、織部博士ドクター・オリベ

 孔雀園の中央にある浮島で、拡げた孔雀の羽根そっくりの花束を差し出し、黒髪の男は騎士のように跪いた。

「あ、織部博士だと誰かわからないな。蓉なのか、蓉の親父さんなのか、おじいさんなのか──」

「その冗句、そろそろ飽きたよ。それに、私はまだ博士じゃないし。花束ありがとう、重かったろう──うわっ、本当に重い」

「おい、花束を受け取って最初の感想がそれかよ」

 天野あまの晴彦はるひこは、おおきく拡がりすぎて受け取った織部おりべようの顔を隠してしまいそうな花束を、下から手を回して支えた。彼は、濃淡さまざまな緑と青を取り混ぜた花々の透き間から、悪戯っぽく「蓉」と名を呼んだ。

「こんなに美しい場所で、美しい花を贈っても、蓉はもうこんなこと慣れっこだろうな──今頃、君の部屋や研究室は祝いの花盛りだろう」

「別にそんなことはないよ。共同研究者が優秀な人たちばかりだったから」

「そうじゃなくって、誕生日のほうだよ。いいのか、誰かしら祝ってくれる人がいるんじゃないのか」

「──いないよ、晴彦以外」

 孔雀が闊歩する浮島は、黒い大理石の模様をしている。糞を掃除しやすくするために滑らかに仕上げられた面を歩く孔雀の鋭い爪が、メトロノームのような音を立てている。ばさり、と、彼らが羽根を広げたような響きを帯びて、束ねられた花と孔雀色の包装紙が風に揺れる。

「──今日、奥さんは?」

「あー、なんだか、女子会だと──未来のママ友の会だって云ってた」

「そうか、何ヶ月だっけ」

「六ヶ月。健診でも問題ないとは太鼓判押されてるけど、それにしたって元気でさ、休んでおけばと云っても、適度に出かけてる方が調子がいいって、今日も俺より早く家を出て──」そこまで軽やかなトーンで話し、はっと何かに気づいたように蓉に顔を向けた。「ごめん、俺ばっかり話してるな」

 浮島から陸地にわたる、ムーン・ブリッジの弧の頂点で立ちどまり、蓉は軽く首を傾げる。「いや、話していいよ。晴彦、家族の話をしてるとき、幸せそのものって顔してて面白いから」

「いや、今日は蓉の日なんだから蓉と話す日で──待って、面白いって云った?」

「うん。絵に描いたような幸福って顔してて、面白いよ」

 一瞬「揶揄うなよ」と云いたげな顔をした晴彦は、すぐに「いや、褒め言葉なのか?」と、不可解そうに視線を斜め上にさまよわせ、むむ、と考え込み、それから「まあいいか」という雰囲気の顔に戻る。一言も発してはいないのに、なんてわかりやすい百面相だ──蓉が笑うと、晴彦は肩をすくめて「まあ、実際幸福なんだから仕方ないよな」と笑い返した。蓉は腕のなかの花束に視線を落とす。見慣れないが、美しい、緑と青の花が勲章のようにきらめいていた。

「素敵な花だ。晴彦が選んだのかい? そんなわけないよな、梅と桃と桜の区別がつかない晴彦が」

「俺のことを理解してくれてありがたいけれど、いちおう、こういうイメージだっていうのは俺が考えたんだよ──花重はなえが、この花がいいって教えてくれたんだ──」花束にくちづけるように鼻先を埋める。「いちばんの親友に贈る花は何がいいって、相談したら、これだって」

 蓉は、苦しくなるほど深く息を吸った。名前を知らない花の香りは、生きた植物のはっとするような青苦さで蓉の呼吸を奪う。生きている存在が放つものは、美しいだけではない。晴彦は、その腥さをなんとも思わないような表情で、蓉と眼をあわせて笑った。

「──晴彦。結婚式に出られなくて、ごめんね」

 ぽつりと、思わず口からまろびでた。先に、草地に降り立った晴彦は虚をつかれた表情で振り返り、瞬きをする。

「いつの話をしてるんだよ。それに、あのときは蓉のほうこそ、大変だったじゃないか──体はその後、本当に何もないのかい」

「大丈夫だよ。あの時だけだ──論文の締め切りが近くて」

「夜中に、蓉のお母さんから入院したって連絡が来たときは、正直結婚式のことが一瞬頭から飛んだよ──もう無理はしないでくれ」

 蓉は黙って頷いた。もともと、病気でもなんでもないのだから、今は健康そのものだ──すこし強いアルコールで、すこし睡眠薬を飲みすぎただけだったのだから。

 そのことは、きっと一生黙っているのだろう。二度と目が醒めなければいいのに、と、錠剤といっしょに嚥みくだした恋心とおなじように。

「本当に、気にしなくていいんだ──そうだ、蓉の結婚式では、俺がスピーチしてあげようじゃないか」

「いや、それはいいよ。晴彦、ああいう時勝手に感極まって、余計なことまで話すだろう」

「その通りだけど、いいじゃないか。親友の結婚だぞ。思い出語らなくてどうする」

「どうもしなくていいんだよ。それに、結婚するかわからないし」

 さく、と靴先が地面を踏む。孔雀が悠然と、蓉と晴彦の間を通りすぎた。その長く美しい彗星のような尾が、草地に蛇の這ったような跡をつくる。

 少し先を歩いている晴彦は、「蓉が結婚してもしなくても、俺は蓉との思い出を語りたいよ。なんせ、こんなに気持ちが通じる友達っていうのは、そう出逢えるものじゃない。唯一無二なんだ」と、俯いている蓉に向き直る。蓉は、花束を抱えなおして、「──そうだね。私にとっても、晴彦は唯一無二だよ」と、香りたつ苦い花の匂いを噛み締めた。

「俺たちみたいな関係を指す、最近流行ってる言葉があるって、花重が云っていたんだ。なんだったかな──」

 足が止まる。靴先を、孔雀の羽が撫でた。

「ああ、思い出した。─恋人のような友達モナミ・メイトだってよ。まったく、へんな流行語だな」

 そう云って、首を傾げる恋しい男を、蓉は長く長く見つめたまま「私は、晴彦とそういう友達でいられて嬉しいけどね」と微笑んだ。

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