星と花

Il Nome della Rosa(赤薔薇)

Les roses de Saâdi|Marceline Desbordes-Valmore


サアディの薔薇

マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール 詩

嶋田青磁 訳


J'ai voulu ce matin te rapporter des roses ;

Mais j'en avais tant pris dans mes ceintures closes

Que les nœuds trop serrés n'ont pu les contenir.


Les nœuds ont éclaté. Les roses envolées

Dans le vent, à la mer s'en sont toutes allées.

Elles ont suivi l'eau pour ne plus revenir ;


La vague en a paru rouge et comme enflammée.

Ce soir, ma robe encore en est tout embaumée...

Respires-en sur moi l'odorant souvenir.


この朝 あなたに薔薇を贈ろうと

結んだ帯にあんまり多く挿したので

張りつめた結び目はもう 抑えきれなかった。


結び目は弾けた。薔薇は解き放たれ、

風に乗り みな海へと飛び去った。

そして波間に漂い 還ることはなかった。


波は紅く染まった。まるで燃え盛るように。

今宵 衣にはまだ その余韻が満ちている。

どうか香って、わたくしの芳しい想い出を。





 親殺しは無間地獄に堕ちる罪だと云う。

 もしもそうなるときが訪れたなら、俺は、八万四千大劫の時を──これが実のところ、どのくらい途方もない時間なのか、俺にはわからないのだが、まあ、永遠よりは短いのだろう──落下し続けるとき、彗星のように、最も美しい紅い炎をあげてやろうと思うのだ。

 俺の名前は紅兎ベニートと云い、この極めてふざけた名前の名づけ親ゴッドファーザーを十三歳で殺した。もっと早く殺していればよかったと、いまでは思う。


 母親は娼婦で、父親は屑。

 破れたパンティストッキングから、いつも痣が見えていた母は、不安から逃れるための煙草と酒を手放せない女だった。

 俺のことをドブネズミと呼んだ母の恋人は、悪徳によって崩れかけた美しさを、若さのためにかろうじて残した、腐りかけの果実のような色男だった。俺には馴染みの匂い、腐敗の甘露は苦さを残していつまでも鼻の奥から消えやしない。

 あの男を呼ぶ母の声は、記憶にある限りは大抵悲鳴に近かった。

 あばずれで、頭の空っぽな母と、その母よりも美しい俺を虐げた男は、いつも煙草をふかしながら、自分が俺の父親だと嘯いていた。が、母親は「たくさん相手がいたから、誰の子かわからない」などとほざき、父(便宜上、こう呼ぶ)によく殴られていた。ただ、父はあきらかに母よりも美しい男であったので、おそらく俺の実父である可能性はじゅうぶんある。兎に角、彼が俺の名づけ親であることだけは確かだった。おのれの血筋に想いを馳せでもしたのか、遠い昔の独裁者と同じ名前をつけやがって、血反吐がでそうだ。

 母が肝臓をアルコール漬けにして、血反吐をはいて死んだ八歳の秋、俺はその「父」の居館やかたに引き取られた。母には会うたび暴力を振るっていたくせに、奴はやけに感傷的な仕草で、手袋をはめた指先で俺の頬を撫でた。

 「父」には何人か「息子」がいた。俺のように、血が繋がっていると信じて引き取られた者もいれば、そうでない者もいた。そのうちの一人の百合ユーリイは、とある晩餐の席で俺にこう云った。

紅兎ベニート、君って、たぶん吸血鬼かなにかだよ」

 名前のとおり、生っ白い肌と髪をしたそいつがやたらと真面目くさった顔で云うもんだから、普段なら肉を切るナイフをその眉間目がけて投げつけていたところだが、俺はあっけに取られて肉を食おうとして口を開けたまま「あん?」と間の抜けた返事をしてしまった。

「だって、首に二つほくろがあるだろ。それ、吸血鬼に咬まれた痕なんだってさ」

「馬鹿云ってんじゃねえぞ、脳ミソまで脱色されたか」

 今度こそ勢いつけてフォークを投げてしまった──いちおう断っておくが、百合ユーリイは俺が凶器を投げたところでどうこうなるタマではない。案の定、「ひええ」とか情けない声をあげつつわずか数ミリの動作でそれを避けると「だ、だって、血が好きじゃなきゃこんなに暴力的なわけないだろ」と首をすくめた。

「おあいにくさま、俺の暴力は食事じゃなくて愛だぜ」

「えっ、気色悪いなあ」

「云うに事欠いてテメエ」

 残ったナイフも投擲しようとしたが、百合ユーリイの手にも同じものが握られていることに気がついてやめておいた。刃物の扱いにおいて、「兄弟」間でこいつの右に出るものはいない。──たぶん、兄弟間じゃなくても。

 奴が「父」に引き取られた理由は明白にその才能のためで、他のどこも「父」と似てはいなかった。

 そもそも、「兄弟」のなかでは、俺だけが「父」との血縁をはっきりと匂わせる外見をしていた。そのせいか、それとも特別ほかの「兄弟」は俺を遠巻きにしてばかりだった。この蒼白い鬼火のような百合ユーリイと、それから二度しか姿を見たことがない「長兄」だけが、俺とふつうに会話をした。長い長い晩餐室のテーブルに、時刻通りに着いているのはいつだって俺と百合ユーリイばかりだった──あいつ、今なにやってるんだろうな。俺が父親を殺してから、一度も会っていない。

 ほくろの隣に、薔薇のような痕が浮かびあがる首筋を襟で隠して、俺は改めて百合ユーリイを睨みつけた。

「あのなあ、暴力だろうが性交だろうが、行為自体は違えど、原因となる感情は同じ愛なら、結果としての内出血キスマークと痣になんの違いがあるんだよ? テメェ、さては唯名論者か」

「屁理屈こねるんじゃないよ、紅兎ベニート。どう見たって、君のそれは首を絞められた痣だ──わーっ、アイスピックはやめろって」

 フルーツ・フォークで俺の投げたアイスピックを弾き飛ばし、奴はおどおどと「暴力もセックスも、親子同士でやることじゃないよね。ま、暴力は意外とそうでもないのかも、しれないけど……」と、視線をさまよわせた。

 百合ユーリイはこの家に来るまで、よく母親に殴られていたらしい。まあまあ可哀想な育ちだ──その母親が情夫に殴られて死んだとき、その情夫をフルーツ・ナイフで刺し殺して、母親の死体もろとも二十センチ四方の肉塊に奇麗に解体して、花壇に埋めてきたことに目を瞑れば。

 俺? 俺は血反吐のなかでのたうち回る母親の鼻と口を塞いでやっただけだ、楽にしてやるために。父親に関しては──まあ、このときの俺はまだ何もしていなかったから、勘定に入れなくたっていいだろう。

 百合ユーリイは、俺の身体中の痕を幻視でもしたかのように顔をしかめて、「紅兎ベニートがさ──それでいいんなら僕はなにも云わないけど、君ってそんな殊勝なタマじゃないよな」と云いながら、フォークで果物皿の紅い葡萄を刺した。

「いいや、俺は構わないんだぜ。ただ、いつかもっと惨い目に遭わせてやるってだけで」

 驚きのあまり、大きな紅葡萄をそのまま飲みこんで、眼を白黒させていた百合ユーリイは、やっと一息ついてから「そんなこと──云っていいのか」と絞り出した。こいつは「父」の云うことならなんでも聞く男だったから、俺を見て、怪物でも見たような顔をしていた。

「愛してるから殴るって云うなら、俺だって同じことを云うまでさ」

 奴が飲みこむのに四苦八苦していた大粒の葡萄を、ぬるりと喉の奥へ迎えいれて、嚥みくだす。

「愛してるから、そういうことをするんだ。俺の愛は、そういう形なんだぜ」

 とん、と左の胸を叩いて、俺は犬歯を見せて笑った。


 胸のうちに紅がある。

 生まれてこの方決して誰にも与えたことのない紅を、父のように奪われるのではなく、俺自身が見せようと思った相手が現れるとき、それは薔薇の開花か、燃えあがる炎か、溢れる血か、そのすべてに見えるだろう。

 俺はそいつが愉しみでしかたないのだ。

 母の唇を濡らす血、父の亡骸を抱く炎、俺の身体に残る傷痕、それらすべてを内包する紅が、痛みをともない洪水となり──俺が愛した人間を襲う運命が。

 紅は地獄にふさわしい。

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