トルソー 3(旦拝)

「彼は、私以上に私なの。どんなもので作られていたって、私たちの魂は同じよ」



 何千本もの黒い糸を撚りあわせて、床と天井の間に縦に渡し、風で常に揺らいでいるその糸の波うつ様は、まるで風雨が灰色の渦を巻く嵐の夜のように見える。

 今にも飲み込まれそうなその大波を背負って、全身で役者が叫ぶ。

 加治井のつくりあげる舞台の上に立つ人びとを見ていると、拝原はいつも「板子一枚下は地獄」という言葉を思い出す。彼らの乗る板も、きっと落ちたらお終いの、地獄がひしめいてるのだろう。

 そうでなくては、ああも鬼気迫る演技はできない。

 愛しあい憎しみあう魂どうしが、どうしようもないほどに惹かれあう男と女が、嵐吹きすさぶ荒野、その灰色の土と黒い岩と、滲む血のようなヒースの丘のうえで、絡みあうように抱きあう。

 私たちの魂はおなじ。

 遠い嵐の夜、天から墜ちてくるときに分かたれてしまった魂のあちらとこちら。丘の上で泥となり、昏く輝く水のように、触れあえば元のひとつになる。





「凄かったですね」

 三時間の舞台ののち、外は夜になっていた。劇場の入り口でふと立ち止まり、旦波はひとこと、そう云った。

「──嵐が丘っていうか、あれ、ほんの少しだけですけど、泉鏡花作品のオマージュも入ってますよね。あのぅ、ほら。有名な──」

「外科室。でしたっけ」

「そう、そう」

 パンフレットを開き、インタビューを読みながら拝原は一人で頷いている。その肘をかるく叩いて進むよう促し、旦波は地下鉄の駅のほうへ歩きだした。拝原はその半歩後ろを追いながら、旦波に話し続ける。

「主演…主演でいいのかな。ヒースクリフ役の人、若かったですよね。ずいぶん迫力があって驚きました」

「──そうですね。キャシーやエドガーを追い詰める演出、原作とかなり違いますけど、原動力が憎しみでも愛でも、犯す罪が変わらない恐ろしさがこの劇の肝なんでしょうねえ。…拝原先生も、ああいうことをされたってことですもんね」

「いやあ。えっと…はは……」

 かなり“攻めた”演出を思い返しながら、拝原は俯いた。客席が無音ながら、どよめいた、と直感するほどの衝撃を与えた場面がよみがえった。幼いキャシーが癇癪を起こすとき、ヒースクリフが恐ろしい憎悪を剥き出しにするとき、彼らの背後で波打つ黒い糸の海の隙間から、閃光のように巨大な銀の針が突き出される。その針と針の間には真っ赤なリボンが、滴る血のように渡されて、激しく身悶えする針の動きに引っ張られ、ピンと張ったり、だらりと床に落ちて赤く広がったり、のたうち、蠕く……。

 気まずくて黙ってしまった拝原と、先ほどからまっすぐに前を向いたままの旦波の間に、夜の新宿の賑わいがするりと入り込んできた。

「旦波先生、どこか寄りましょうか。お腹減ってませんか」

「──家がいいです」

 ぽつりと、呟くように旦波は云った。拝原は、一歩遅れているのに、えっと立ち止まってしまった。

「え。僕の家ですか。旦波先生、明日どうなさるんですか?」

「始発で一度家に戻ります。明日は武道場の点検で朝練がないので。……いえ、ご迷惑でしたら大丈夫です」

「あ、いや、全然。僕は帰りが遅くならなくて、ありがたいっていうか……」

 それなりの距離を電車で来たので、終電を調べるハメになるのではないかと案じていた拝原は少しほっとしていた。しかし、夕食はどうかという誘いにこの返事──どうすべきなのだろうか、と考え込んでしまい、「お惣菜とか、僕が買いますから」という旦波の申し出を拝原は聞いていなかった。あ、と顔をあげ、少し眉尻の下がったいつもの力無い笑顔で、訊ねる。

「僕がなにか、作りましょうか」

 一瞬、旦波の肩が強張った。拝原ははにかむように目を細めたまま続ける。

「昨日買い物行ったんで、食材の買い置きは、けっこうあるはずなんですよ。味はもちろん売ってるものには劣るけど、安上がりではあるし」

「いや、作ってもらうとか、それこそ拝原先生にご迷惑じゃないですか」

「どのみち、僕、週末におかず作り置きするんです。だから旦波先生が来ても、なんにも変わんないっていうか…あ、ちょっとは丁寧に作ろうって思うかなあ……」

 地下鉄の駅の入り口、地下へとぽっかり開いた口に一歩足を踏み入れながら、拝原は首を傾げた。旦波は立ち止まっていたが、その後をついて、その口に片足をかけた。

「……なに、食べたいですか。旦波先生」

「なんでも大丈夫です、ほんとに」

「あー、じゃあ…なんだろう…」拝原は困り眉をさらに下げて、長い指で空中になにか書こうとする。「うちに、お米とー、あー、焼きそばの麺…はありますね……どっちがいいですか? パンは買わないとないけど」

「拝原先生が得意なもので大丈夫です」

「それだと、塩焼きそばか白髪ネギ乗っけたラーメンとかになりますね……」

 己れの貧しい舌と食生活に恥入りながら、拝原は考え込む。旦波は前を向いている。その耳の後ろから、頸筋にかけて、汗が一筋流れ落ちていた。

「あ、そうだ」

 階段を降りきって、改札を抜けて──地下鉄の狭いホームの端の端で、不意に拝原は俯いていた顔をあげた。

「卵、使いきりたいので、オムライスで構いませんか?」

 その瞬間、走り込んできた地下鉄の轟音に、旦波の返事はかき消された。

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