A perfect storm(A+)

(※前々話、前話に登場するキャラクター、アレン・チャンの過去の話です。キャラクターの倫理観に欠ける発言等が含まれます。)





 金色が嫌いだった。特に、銀にかぎりなく近いほどに輝く金が。





 ──……何の用、だよ。こんな、急に……これ、リムジン? なに、あなた、ヤバい組織の人かなにか?

 たぶん、なにか犯罪絡みとかなら、人違いだよ。誘拐ならなおさらだ。僕は本当に、ただの男子高校生だ。ドラッグのひとつもやったことなんてない。

 ──アレン・チャン?

 たしかに、ジュニア・ハイスクールまでは一緒だったけれど、最近は連絡をとってないよ。X X X寄宿学校ボーディングスクール

 ……あなたは、あいつとどういう関係でそんなことを訊くのさ? 親戚…ってわけじゃないよね? …あ、ごめんなさい。今の、アジア系差別かな?

 よかった。いや、アレンはさ、そういう言い回しをすごく気にするし、少しでも口を滑らせたら本当に怖かった。

 例えば? そりゃあ、普通に中国人チンクって罵られたり…悪意ではなくても、見かけがアジア系だからって、英語が話せないと決めつけられたり。アレンは、両親は移民だけど、本人はアメリカで生まれ育ってるからさ。嫌なんだろうと思う。

 あなたはアレンの知り合いみたいだけど、そういう面は知らないわけ?

 ──え、それ、どういうこと?

 知り合いってわけじゃないの?

 ……うん? よくわかんないけど、仲はいいんじゃないか? それって。

 …あなたとアレンの関係は、まあ、今は表現が難しいのかもしれないけれど。

 僕たちが九年生の時に起きたのことなら、覚えてるよ。忘れるわけない。

 エドガー・ソーバーン。

 まだ夢に見る。夢に見るんだよ、あの脚を。

 。──





「あれは殺人だ」

 アレン・チャンは狼の紋章の下でそう云った。木洩れ月の下で、黒髪があおく燃えていた。



 エドガー・ソーバーンが校舎から転落死したのは六月の夜、けっして暗くなることのない白い月の晩だった。

 イギリスからの転入生であり、僕たち九年生のなかでは、そのひときわ淡い色の髪と長身で浮いていた。母親がスウェーデン人だという噂はきいたことがあったが、北欧神話の挿絵みたいな容貌は、もっと遠い世界から降ってきた異物のようだった。

 いや、僕の友人のアレン――アレン・チャンも、「異物」ではあったと思う。彼は中国からの移民二世で、両親はクリーニング店を営んでいた。彼の目の形は見たこともない、夾竹桃の葉のような形で、切れ込みが深い眦の影は、なめらかな象牙色をしていた。

「お前だって勘づいてるだろ、シリル。――そこ、綴りが違う」

 アレンは、短く刈った黒髪に爪を立てて、神経質に僕の手元を指さした。僕ははっとして、模造紙に書いていた単語を書きなおした。

「勘づいてるって、何に」

「エドガー・ソーバーンのこと」

 僕は首筋をこわばらせて周囲を見渡した。あちこちで班をつくって、自分たちの研究をまとめている同級生たちが、アレンのその口調を咎めないか怖れたからだった。――死んだ人間の名前を、まるで明日の天気のことのように口にする、僕の友人の無神経さを。

「…やめろよ、今は」

「じゃあ、いつだ。ランチタイムの話のタネにでもしろっていうのか」

「…少なくとも、他の奴がいないときにしろよ。放課後とか」

「放課後は忙しい」

「なんで?」

「調べるから」

 不意に、アレンの真黒な瞳が僕をとらえた。

「見たのは、俺とお前だけだろ」

 肺そのものをわし掴まれたように、呼吸ができなくなった。記憶がフラッシュバックし、膨れ上がって心臓を叩く。

 六月の、白い月の夜。

 校舎と寄宿舎にかこまれた、閉ざされた四角い中庭クアッドの三本の樹。桜、くるみ、シベリアスモモ。

 その間、コンクリートの上に、黒い制服の両脚が投げ出されている。注がれる月光で、真新しい制服の布地は銀灰色に濡れてみえる。

 死体が、死体だとわかる異常さというのは、まず足首にあるんだと僕は知っている。ぐんにゃりとした足首――完全な脱力――生きていれば、きっと皮膚や筋肉がねじれて痛くて、ああはしていられない。重力にひきつけられた靴下の足の、側面が、ひたりと地面についている。

 靴下。そう、エドガー・ソーバーンは靴を履いていなかった。そのことをよく覚えている。

 靴は、校舎の四階にある、資料室で見つかったという。そこから飛び降りたのだと結論付けられた。

 彼の死体を最初に見つけたのが、僕とアレンだった。

 どうしてそんな時刻まで校舎に残っていたのか、という警察からの質問に対して、僕は「研究レポートを、図書室に忘れてきたから」と震えながら答えた。その隣で、アレンがとても冷静に説明を加えた。「僕たち、生物の授業をとってる九年生は、みんなペアを組んで学期の終わりに研究発表会をします。その経過をレポートにして、定期的に提出しなくてはならないんです。その期限が、次の日の朝だったのに、僕たちは図書室にそのレポートを忘れてきたものだから、文法の…フェリエ先生に許可を取りました」

 僕たちは解放された。ちょうど、当のフェリエ先生――オーガスト・フェリエが、そのカフェオレ色の手で、僕たちの肩を叩いたからだった。

 実際、僕たちはその夜に校舎に入る前、彼とすれ違って図書室に入れてほしいと頼んだのだった――内密に。

「申し訳ない。私が彼らに校則違反をさせました」

 祖父がアルジェリア出身だというこの英文法の教師は、アフリカ風の肌に、ラテン系の端正な顔立ちを持った稀有な外見の、三十代の男だった。彼の授業は難解だけど刺激的で――何より、思春期の男子生徒に対して嫉妬心と憧れを抱かせる、女に好かれる容貌と立ち居振る舞いを身につけていたので、みな彼のことを慕っていた。彼はその、少し色の薄い手のひらで僕らの肩を叩き、無為な事情聴取を切り上げさせた。

 僕たちの寮である、ウルフ・ハウスに戻る足は、地についている感覚がしないのに、ひどく重く感じた。関節がうまくはまっていないかのように、足首がぐにゃりとして、僕はひっと喉をひきつらせた。エドガー・ソーバーンの足首を思い出したからだった。

 ウルフ・ハウスの紋章は、ニオイアラセイトウに縁どられた狼だ。古い金属板に彫琢されたそのアーチの下で、アレンが立ち止まった。

「シリル」

 僕は彼の背を見つめたまま黙っていた。唇を引き結んでいても、アレンには僕の言いたいことが伝わる。だからこそ僕と彼は友人関係でいられる、良くも悪くも。

「お前は見ただろう」

 僕は黙ったままでいた。それが答えだった。

 図書室の、いちばん奥の窓。

 光は銀色で、切り取られた夜が床に描く窓の形は、踏み荒らされた水晶の破片のようだった。その窓の向こう、あの夜。

 僕は見たのだ。

「あれは殺人だ」

 アレンの唇の形は、つめたい弧を描いていた。




「グラース」

 かすれた声に、僕は画帳から顔をあげた。

 白い秋の日、バルコニーのようにはりだした踊り場で、小枝の褐色の影が、エドガー・ソーバーンの頬に、棘のついた虫の脚のように伸びていた。

 苗字を呼ばれることが少ないから、僕は少し面喰らいながら返事をした。「何?」

 彼はちらっと僕の方を見た。クロッキーの最中で、僕は彼の横顔を描いていたから、彼はその特徴的な――まるで挑むような――真っすぐな目つきを僕に向けることはしなかった。瞳から、青い火花が散ったようだった。

「…いや。まだ終わらないのかと」

 少し気まずそうに視線をそらして、彼はまた遠くを見た。端正な鼻梁から唇までの輪郭を描きたい、と頼んだのは僕だけれど、そのおかげで、彼は窓の外をあてもなく見つめ続けなくてはならない。

「もう少し」

「…早くしてくれ。右眼が眩しい、グラース」

「ねえ、グラースって呼ぶのはやめてくれないか」

 彼の眉が動いた。「どうして」

「みんなシリルって呼ぶから」

 彼はちょっと黙って、瞬きを二、三繰り返した。

「苗字ではあんまり呼ばないかな。それって英国風なわけ?」

 彼のうなじをかたどる線を引きながら訊くと、その白い首筋がわずかに紅潮した。ごめん、からかったんじゃないよ、と言ったが、返事はなかった。

 その生まれ持った欧州的な雰囲気がいつまでもほどけないくせ、英国風、とか、英国式、とかいう表現を彼は好かないらしかった。

 エドガー・ソーバーンが編入した翌日、フェリエ先生の授業でシェイクスピアを朗読したとき、その完璧な英国式アクセントを笑った生徒が複数いた。気取ってるポッシュ、と呟いたのはバスケットボールチームのエースの同級生で、ハンサムだけれど軽薄な奴だった。

 フェリエ先生は、ちらりとそいつのほうを見たけれど、努めて無視した。そして次に、アレン・チャンを指名した。

 アレンは立ち上がると、そのままいつもの、きれいな英国風の読み方で一文読んだあと、突然、強調した中国語訛り―彼の両親のような―で、次の文を読んだ。周囲がざわつき、フェリエ先生がアレンの顔を見た。アレンは涼しい顔で、次の文を、ことさらアメリカ南部州的に発音した。南部の出身らしかったバスケ部のエースの顔が怒りで赤くなった。

「アレン・チャン。もういい、座りなさい」

 フェリエ先生が珍しく――本当に珍しく、途中で朗読をやめさせた。アレンは黙って着席した。その切れ長の目は、剃刀みたいに鋭かった。

 いつも僕がやめろといってもきかない、アレンの癖だ。

 授業が終わるとき、フェリエ先生は僕たちみんなを見渡し、こう言った。「君たちにはどうやら、世界史と異文化に関する認識のアップデートと、いくつかの思索的な課題を与える必要がありそうだ。この学期を通して、君たち九年生を教えてきたが、これほど幼稚だとは想像もしていなかった」言葉を切り、今度はひどくさめた口調で続ける。「…もっとも、思索できる脳があるのなら、そもそもこういった課題を与えなくて済むんだがね」

 フェリエ先生がそんな厳しいことを言うのは初めてだったから、みんな黙りこくって、彼のチョコレート色の横顔を盗み見、あるいは目をそらして教室から出ていった。

 僕はため息をついて、苛烈な友人のほうを見た。アレンは何事もなかったかのような顔で鞄に灰色のノートをしまうところだったが、その前に、長身が立ちはだかった。

 エドガー・ソーバーンが、アレンの前に立っていた。

 彼が何かを言ったのはわかったが、僕の位置からでは聞き取れはしなかった。ただ、挑むようなその瞳が、横顔のなかでも、銅像にはめ込んだ宝石のように鮮烈だった。

 アレンは腕を組んで、その言葉を聞いていたが、聞き終わっても何も言わず、終わった? という確認代わりに薄い唇を片方だけつりあげた。

「…それじゃ、また」

 平気な顔をしてこちらへ歩いてくるのだから、僕はエドガー・ソーバーンの視線を受けることになり、少したじろいだ。

「シリル。どうした」

「冗談じゃない、僕まであんな目を向けられるなんて。何を言われたんだよ、アレン」

 僕の肩を小突くと、アレンは耳元で笑った。「別に。あれはあいつの癖だろうさ、なんじゃないか」

冗談じゃない、あんなのが英国風だというのなら、僕は永劫シェイクスピアから遠ざかりたくなる。と、口にして返したかは覚えていない。

 ……僕にとっては、彼はそういう人間だった。六フィートは優にある長身、絹を張ったように色の薄い肌、つくりもののように青い目は、アレンの切れ長の黒い瞳のように、触れ方を誤ってはいけないものだったし、そんな「危険物」は、僕はアレンだけで手いっぱいだった。

 クロッキーの授業は、その後も何度かあった。

 そもそも、どうして僕が彼を――彼が僕を描くことになったのか、教師がたまたま列を挟んで隣に座っていた僕たちを組ませたからに過ぎない。そうでなければ、きっと僕はアレンと組んでいただろうし、――エドガー・ソーバーンは、誰とも組まなかっただろう。アレンが誰と組まされたかは覚えていない。…誰とも組まなかったかもしれない。

 あのときも、アレンはひとりだった。

 およそ三枚目(何枚か描いて、出来がいいのを出せというのが課題だった)のクロッキーがあと少しで完成という日――外が雨だったのをよく覚えている。つめたい冬の雨、音のないカーテンのような霧雨が、窓の外を曇らせていた。

 その霧雨を、いつもよりも柔らかな目元で、エドガー・ソーバーンが見つめていた。柔らか、というより、普段が頑なすぎたのかもしれない。あるいはそれは、霧雨の都といわれるロンドンの風景を懐かしんでいたのかもしれない。

 その表情を最初から見せてくれていれば、もう少し出来のいいクロッキーが描けたのに、と思いつつも、僕は仕上げに入っていた。

 雨でも包みきれない、固い足音。

 階段を、下からあがってきた。なんとなく手が止まる。聞き覚えのある音だ。

 階下の踊り場の暗がりから、生え際の形がわかりそうな短い黒髪の姿があらわれた。視界の端でエドガーの手が震えた。

「……アレン」

 沈黙が続くのが怖くて名前を呼んだ。

 アレンの目が、僕をとらえた。雨でも、モノクロームでも、お構いなしの剃刀の鋭さ──その目が素早く動き、僕の向かいに立つエドガー・ソーバーンを見る。

「──シリル、来いよ」

 完全に彼を無視して、アレンは僕を手招いた。エドガー・ソーバーンの眉が動いた。

「そんなの描いててもつまんねえだろ」

 片方の目を月のように細め、黒く光のない瞳で冷笑する。アレンが時折する表情だった。

「アレン・チャン。僕を馬鹿にするのも大概にしろ」

 よく通る声の貴族的なアクセントが、大理石の彫刻を落としたように階段に鳴り響いた。

 エドガー・ソーバーンが、背筋をまっすぐに伸ばして、かつ、と階段を下り始めた。かつ、かつ、と、怒っていてもどこか浩然とした足取りで、アレンの前まで行って足を止めた。しばし、二人の視線が真っ向からかちあった。

「──なんだよ、坊ちゃん。黄色人種イエローが余計なことをするのが厭なようだったから、アンタには話しかけないように俺は気を遣ったんだがな」

「君の人種は関係ない。それに、英文法の授業の件は、君自身のコンプレックスの表出に過ぎない。僕はあのような侮辱に対し、もちろん全く動揺しないとはいわない──だけれどあれは僕が自分自身で受け止めるものだ。誰かに助けだとか同情は求めない。君は、あれを僕のためにした行為だと云うのか?」

「はいはい、施しは受けないってね。別に俺はアンタのためとか思ってないし、感謝しろとは云わねえよ。そのとおり、アンタが揶揄われたのを見て勝手に俺がイラっとした、単なるコンプレックスってやつだ──だが、そうやってなんでもかんでも跳ねのける態度はさすがにどうかと思うぜ」

 僕はたまらず、割って入った。育ちの良い、というか、喧嘩慣れしてないエドガーがアレンに敵うとは──舌戦でも、それ以外でも──思えなかったし、アレンは何よりこういうことに関して特別、頭が切れる。

「二人とも、やめてくれよ。アレン、こんなことしてる暇ないだろ。──そうだ、科学フェア。あれに出す研究のテーマ、考えなくちゃ」

 強引だったかもしれないし、エドガーのことは何も配慮できなかった。とにかく、アレンがエドガー・ソーバーンという人間に対して害意を持って行動することないよう、興味を逸らさなくてはと思った。もし彼がそうしようと思ったならば、きっと、とても恐ろしいことになりそうだったから。

 ……僕のこういった勘は、よく当たるのだ。



 エドガーと、最期に交わした会話は思い出せないけど、憶えているかぎり最後の会話は、彼が死ぬ一週間くらい前だった。

 すれ違えば挨拶と世間話くらいはしていたけれど、そのときはめずらしく、廊下で呼び止められた。

「グラース。……シリル、」

 エドガーは少し云いにくそうにしていたが、「前に…名前で呼んでほしいって云っていたから」と続けた。

「ありがとう、シリルのほうが馴染みがあるからね」

「…彼は元気か」

 アレンのことだと気づくのには少し時間がかかった。その沈黙のせいで、エドガーは僕から視線を外し、いつもしっかり正された姿勢が、少しだけ居心地悪そうに肩が傾いでいた。慌てて「アレンが体調を崩してるところなんて見たことないよ──いや、喧嘩で怪我をしてるのはときどき見るけれど」

「ああ、そう──その、つまり──」彷徨っていた青い眼が、僕の方を向き、少しためらってから「以前、彼ともめたことについて、悪かったと思って」と呟いた。

「なるほど。どうしてそう思ったの?」

「フェリエ先生と話していて──その、なんていうか、僕は“青かった”んだと思う。人には人それぞれの考え方があるから、間違いではないけど正しくもないと、諭されたんだ。君の前で彼に突っかかってしまって、悪かった」

「僕は構わないよ。僕はアレンと友達だけど、ああいう、挑発的というか他人に対して冷笑的な部分は、アレンのよくないところだと思うしね」

 それに、僕たちは同級生なのだから、お互いが“青い”季節だろう、と返した。アレンも、それに僕も未熟だから、間違うこともあるし──変わっていくものだ。

 僕はそう信じていた。アレンのあの棘々しい態度も、きっと青さゆえなのだとフェリエ先生なら云うだろう、と。

 エドガーは、転校してきたときより幾分やわらかくなった表情でこう云った。

「彼とまた話せるようなら、そのときに以前のことについて謝ろうと思うし、もっと話してみたいと思うんだ」

 その時に見た青い眼の色を、今も忘れることができない。




 図書室には、霧雨の気配が満ちている。留め金が壊れた「狼の窓」の隙間から、沈んだ空気が入ってきては、重たい静けさで浸していくのだった。

 窓の前で、アレンは苦々しい表情でこぼした。

「発表原稿、俺が書き直すから。お前には任せてられねえ」

 科学サイエンスフェアのために用意した発表原稿の、僕の文章を、彼はくしゃくしゃに折りたたんだ。

「おい、シリル。いい加減にしろよ。お前と違って、俺はこれに人生賭けてんだ。まさか、同級生が死んだからって引きずられて感傷的センチメンタルになってんのか?」

「ただ死んだってだけじゃなくて、僕たちは

 アレンは右の眉をあげて「ああ。それで?」と云い放った。

「お前、死体を見たことがなかったのか? そいつは幸運だな」

「そういう話じゃない。アレン、不謹慎だ──」

 僕が我を忘れかけ、少し声が大きくなったのを抑え込むように「うるさいぜ、坊やベイブ」とアレンは低く囁いた。脇腹を隠し持ったナイフで刺されたような感じがして、言葉を継げなかった。

「そんなにあの事件が気になるってんなら、俺が謎を解いてやるよ」

「謎なんてない。そういうことじゃないんだ、アレン──」

「そうか? まだ隠されていることがあるから、こんなに話が長引いてるんだろ? ──俺が警察にタレ込んだっていいんだぜ」

「警察? なんの話……まさか、自殺じゃないって警察に言うつもりなの」

「そうさ。言ったろ。あれは殺人だって」

 唾を飲み込んだ。舌が上顎に張り付きそうだった。

「そして殺人犯の候補ならいる」

「──だ、誰──」

「オーガスト・フェリエだよ」

 息が止まった。あの夜、校舎の入り口ですれ違った美しい黒の輪郭を思い出した。

「――まさか、本当に誰かにフェリエ先生が犯人だと云うのか」

 アレンは落ち着き払ってこう答えた。問題を公にする気はない、自分たちは近々サイエンス・フェアに参加するのだから、と。僕は正直、サイエンス・フェアどころの気分ではなかった。そんな顔色を読まれ、鼻で笑われる。

「まあいい。フェア当日、お前が使い物にならなくても、俺がいれば優勝するさ。そうでなくちゃこの学校に入れない」

 タイを緩めながらアレンは唇の端をゆがめて笑った。

 アレンは奨学生だった。この学校は白人の比較的裕福な家庭の生徒が多くて、黒人や黄色人種は全体の十パーセントもいなかった中、奨学金まで勝ち得ているのは異例だといえた。

「全員、見返してやるのさ。みんな、俺がクリーニング屋のチャイナ・メンの息子だからって――俺を猿だと思ってる」

 その底のない憎悪の声は、黒い炎のようだった。

 僕は以前にもこの声を聴いたことがある。何度も。アイスクリーム・ショップで、白人の店員が僕にしか返事をしなかったとき。通学路ですれ違いざまに、「中国人チンク」と侮蔑を投げつけられたとき。

これがアレンの原動力、怒りと憎しみ。

 僕には持つことができない、未知の嵐だ。




 フェリエ先生はずっと授業に来ない。休職しているという噂と、エドガー・ソーバーンの件で事情聴取を受けているという噂が交差して、あの日から少しずつ空気がねじれてしまっている教室中を飛び交っていた。

 まさか、本当にアレンが余計なことを云ったのか、と訝しんでちらりと彼の方へ視線をやったら、読まれていたように目が合った。アレンは薄く、笑っていた。

 教室の移動時間、廊下の曲がり角で、不意にアレンが僕の肩を掴み、囁いた。

「エドガー・ソーバーンの靴が見つかった部屋、どこだか知ってるか?」

「……四階の、資料室だろ」

「ああそうさ。あすこはフェリエの“秘密基地”だからな。そりゃあ、疑われても仕方ない」

 にたり、と薄い唇が三日月のかたちになる。アレンのそういう表情は、悪意のある猫に似ていた。秘密基地、という言い回しには厭な含みを感じたが、実際、彼はいつもそこにいた。学生から相談を受けるときも、コーヒーを淹れて雑談に興じるときも、必ずその部屋だった。建築上の都合でか、天井が低くて傾いていて、どれだけ掃除しても埃の気配が拭いきれない、そんな場所であった。しかし、学生たちは時おり、好んで彼のその秘密の三角の部屋を訪れていたのだった。

「あの坊ちゃんはフェリエの“お気に入り”だったからな。あそこで不思議じゃない」

 そう云って低く喉の奥で笑ったアレンの表情が、あまりに悪魔的で、僕は耐えられずに目を逸らした。 

「シリル、お前はエドガー・ソーバーンの横顔が大好きだったみたいだからな。残念だったか?」

 一瞬、目の前が真っ赤になった。

 気がついたときには、教科書もノートも床に落ちていて、僕の手はアレンの襟を掴んでいた。信じられないくらい手は震えているのに、込めた力が抜けなくて、アレンの冷ややかな眼を見ても体の自由が効かなかった。

「……離せよ、野蛮だな」

 低く平坦に呟き、アレンは僕の手の甲に爪を立てた。思わず指が開きかけると、脚を強く蹴られ、よろめく。

「邪魔。話したいんなら、暇になる夜にしてくれよ」

 吐き捨てるように云うと、彼は僕に背を向けて、別の教室へ歩いていってしまった。まるきり、いつも通りの様子でしかないその後ろ姿には、霧雨よりも背筋が薄ら寒くなる影がつきまとっているように見えた。─…



 狼の紋章の下で、僕は立っている。

 月が上る頃になって、やっと校舎から──シベリアスモモの木の影から、アレンの細身の姿が現れた。

 ポケットに手を入れて、だるそうに歩いてくるその革靴の先が、月光に照らされて一瞬、金に光った。

 それを見て、全身が強張った。地面の上で、月あかりの銀にふちどられた、足首、制服、プラチナ・ブロンド。月を見るたび、フラッシュバックするあの光景は、一生涯薄れないだろうと、吐き気をこらえながら感じた。

 ──あの夜のことを、今も夢にみる。

 今も。

 あの夜、六月の白い月の夜。

 取り返しのつかないことが起きた夜。

 僕たちは、毎日のように理科室や図書室に遅くまで残って、研究をまとめていた。学校のルールでは、校舎の施錠に先立って、図書室などの特別教室が閉まる。僕たちはその時刻までいつも残り、原稿と、レポートを作っていたのだった。

 そろそろ、鍵を閉めにくる先生が誰かしらやってくる頃だ、と僕が促し、アレンと図書室から出たとき、もう月は上っていた。白くて、大きくて……奇妙なくらい、輝いていた。

 寄宿舎ウルフ・ハウスの手前で、突然立ち止まったアレンが「…レポート、図書室に置いてきたかもしれねえ」と、足先に目を落として呟いたのだった。

 アレンがそんなミスをするなんて珍しい、と驚いたけど、僕は自分の抱えていた模造紙の束に気を取られていたし、アレンは何冊も資料を持っていた。忘れてきても仕方ない、と思ったけれど、先生にレポートを提出するのは明日の朝一番だった。それに、経過を発表するのも。

「取りに戻る。まだ開いてるかもしれない」

 もう暗闇が迫っていた時刻に、アレンがそう云ったときの表情を思い出せない。いつも通りだったのか、それとも、なにか違ったのか。

 もう閉まっていると思いつつ、踵を返して中庭のほうへ歩いていくと、図書室がある校舎のほうからやってきたフェリエ先生とすれ違った。咄嗟に「あの、図書室ってもう閉まっていますか」と声をかけたのは僕のほうだった。

 「悪童たち、今日は終わりだよ。寮へ戻りな」と笑って云う先生に、事情を説明した。

「私は職員の部屋に戻るんだけれど」彼は顎を擦って、眉を寄せて笑った。「あとで渡しにおいで」

 ありがとうございます、と、差し出された鍵をアレンが受け取ると、彼は「十五分もあれば取ってこられるだろう」と期限をつけた。

 僕たちが校舎の中へ入って、三階の図書室前まで行くと、先ほどまでは何人か見かけた他の生徒たちも皆帰ってしまったようで、誰もいなかった。アレンが、右手の鍵を図書室の扉に差し込んだが──

「あれ。開かない」

「え? まさか」

 アレンは、鍵を左手に持ち替えると「図書室の鍵じゃねーのかな」と、もう一度鍵穴に差し込んだ。

「それなら、またフェリエ先生に頼みに行かないと」

「面倒くせえな。あいつ、今どこにいるんだ?」

 さっき入り口ですれ違ったのだ、恐らくはこの校舎の外だろう。

 そう僕が伝えるまでもなく、アレンはくるりと指先で鍵を回して、視線を廊下のほうへ向けた。

「俺は、隣の教室から窓を使って入る。どうせ“狼の窓”が開いてるからな」

「やめろよ、そんな危ない真似」

「ああ? じゃ、お前はわざわざ職員がまだ残っていそうなところを虱潰しに探して“フェリエ先生はいらっしゃいますか、図書室の鍵を貸していただきたいのですが”って馬鹿丁寧に訊いて回ろうってのか?」

「そうやって畳み掛けるのは君の悪いところだ、アレン。僕はなにも馬鹿正直になれって言いたいんじゃなくて、もう少し安全な方法を考えようって──」

「落ちやしねえよ。お前はせいぜい走り回んな。疲れたら戻ってこいよ、待っててやるから」

 ため息しか出なかった。やると云いだしたアレンはこうなると引き下がらない。

「僕、フェリエ先生が中庭にまだいないか見てくる」

「あっそ。いないと思うけどな」

 アレンは手を開いて、子どもに対するようにひらひら振った。僕は早足で、今登ってきた階段の方向へ戻った。

 戻ろうとしたのだ。



 図書室の奥、四つの窓。いちばん端の「狼の窓」。

 あそこの留め金が壊れていることを知っているのは、僕とアレンだけだ。

「アレン、僕は見たんだよ」

 喉がしまり、声が肉を裂くように絞り出された。

「君が殺したんだ。君だよ、アレン」




 階段を駆け下りる途中、不意に足が止まった。それは本能に近く、なにか具体的に知覚したからではなかったけれど──立ち止まってから、改めてその違和感がはっきりと凝集して形になった。

 上階で、足音がした気がしたのだ。僕の足音に重なって。

 アレンが窓を使うのをやめて移動したのか、それとも別の人間が校舎内に残っていたのか。それを考える前に、ふっと足元に視線を落とすと、つま先まで忍び寄る夜の思わぬ濃密さに脚がすくみ、階段の半ばで立ち尽くしてしまった。

 階下はいつのまにか消灯されてしまっていて、灯りのないところへ一人で降りていくのが、情けない話だけれど──そのとき、恐ろしくなったのだ。

 僕は月光が降りそそぐ隙間を縫うように、影を伝って図書室へ戻った。

 扉は薄く開いていた。

 あれはやはり、図書室の鍵だったのだ。

 僕は動揺した。

 入るのを、ほんの数秒、躊躇った。──人の声が、聴こえたから。

 わずかに開いた扉の向こうに、誰がいるのか。アレンと、そして彼と言葉を交わすような人がここに?

 意を決して取手を握りしめた瞬間、──部屋のなかから、「近づくなッ」と、悲鳴に近い声が響いた。

 エドガー・ソーバーンの声だった。

 突然のことに驚き、強い力が手首に込もった。幸か不幸か音は鳴らず──いや、本当は少しくらい蝶番が軋んだりしていたのかもしれない。でも、それよりもずっと、恐ろしくて、大きな音が、すべてをかき消した。

「さあ、選びな、エドガー・ソーバーン──テメェはとっくの昔に、神に背いてんだ」

 その時の光景は、青と黒、そして限りなく白に近い月光の銀色で描かれた、悪魔のような

 アレンはその手に、カッターナイフを握っていた。刃を長く長く、牙のように出して、腕をまっすぐに突き出していた。その刃はちょうど人の首くらいの高さで──

「近寄るな、アレン・チャン──、」

 アレンに追い詰められ、「狼の窓」を背にしていたエドガーが、バランスを崩して、そのガラスに手をついた。

 扉と同じように、あっけなく、その窓は開いた。両開きの、壊れた古い窓。

 その向こうには、真四角の夜。

 一瞬にして、真っ青な中空に投げ出された体と、白金の髪と青い瞳が、その一瞬、月の色に染まった。

 悲鳴が聴こえた、と思ったのは、幻聴だったのか、今もよくわからない。

 ──やわらかいものが、地面に叩きつけられる音がした。

 僕は逃げた。

 その場から逃げたのではない。

 がたがた震える足と、暴れ回る鼓動と息をそのままに、僕はその場にしゃがみ込んだ。それから、それから──廊下を今、小走りに来たように足音を立てて、倒れ込むように扉を開いて、掠れた声をなんとか張り上げた。

「──い、今、変な音がした──よね──」

 アレンは、開いた狼の窓の縁に両手を置いて、真下を覗き込んでいた。彼はこちらを向くことなく、普段より幾分かゆっくりとした口調で、低く云った。

「──ああ。落ちたな。見に行かなくちゃあ。

 まだ生きてたら大変だ」



 あの夜を思い起こさせる白い月光を背負って、アレンの姿が黒く塗りつぶされて見えた。

 赤い口が、傷口のように開いていた。

 アレンは笑っていた。

「なんだ。思ったより馬鹿じゃないんだな」

 僕は、本当に糸が切れたように脱力して膝をついた。したたかに打った膝から骨を伝って、頭のてっぺんまでがじんと痺れた。

「ど──どうして」

 アレンは事もなげに言った。

「あいつ、英文法の成績よかったから」

 息ができなかった。理解もできなかった。

「え──英文法?」

「上がったんだよ、編入してきたときと比べて。――マジで、最初はクソみたいな詩しか書けなかったくせに、どんどん…なっていくんだ。普通の人間の気が、だんだんと狂っていく過程の日記を見るみたいだった」

 詩作の授業は、フェリエ先生が好んでよくする内容だった。

「フェリエが贔屓してるだけだったら、よかったかもしれない。でも、あれは――あれは」

 月に縁どられたアレンの横顔が、なによりも恐ろしかった。

「そ──、」

 そんな理由で、と、叫びそうになった声は途切れてしまった。

「文法の成績が理由ってことなのか? アレン、フェリエ先生は、君にだってきちんと目をかけてくれていたじゃないか。作文のコンクールにも推薦してたし、彼だって生まれで苦労したことがあったって話していた──」

「だから、関係ないんだよ」

 プレゼンテーションでジョークを飛ばすように、アレンは軽く両手を広げて肩を竦める。かろやかな仕草にそぐわないその瞳だけが、刃物のようにこちらに狙いをつけていた。──あの夜のカッターナイフのように。

「俺より優秀な奴と、そいつを育てようとする奴は潰しておかないとな。

 自殺か、同性愛ソドミーか。背負う罪の名前くらいは選ばせてやるってんだから、優しいだろ? ああ、もっとも──」

 後者を選んだら、フェリエも巻き添えになるんだがな。

 口を押さえた。アレンの意地の悪い口調に、鳩尾が痛んで、吐きそうになった。

「あのさあ。なんであの夜、エドガー・ソーバーンがあそこにいたと思う? 窓から突き落とすために、用意周到な俺があらかじめ呼び出しておいた──ってわけじゃないんだぜ、残念だが。俺の呼び出しなんて、聞くか分からねえしな。

 お前も見ただろう、シリル。

 あの時刻までエドガー・ソーバーンがあそこにいた理由は、オーガスト・フェリエだよ。あいつはのところにいた。行き違いでもあったのか知らないが、可哀想にな」

「そんなことなんでわかるんだ。君は──まさか、彼らのことを知っていて、あの日わざと?」

「そこまで俺も千里眼じゃない。そもそも、奴らの行動を正確に把握してるんなら、お前なんて連れていかずにもっと計画的に始末してみせるさ。さすがに、靴の小細工はひやひやしたぜ──なあ、お前、気づかなかったろ。あのとき俺が履いてたのがだったって。

 お前が一階に戻っている間に、俺は廊下でエドガーと会った。なんて云ってたっけな? 俺たちと似たような言い訳だったな。“今週中に提出の英文法の課題の質問がしたくて、フェリエ先生を探してる”──って。

 俺は云ったよ。“フェリエ先生なら、今日は図書室の鍵を閉める係のはずだ”って」

 完璧な英国風のアクセントの再現に、ぞわりと鳥肌が立つ。アレンは、飽きたように目線をちらりと、頭上の「狼の窓」の方へ向けた。

「一度も嘘は云ってない。もっと俺の話を聞きたいか? ドラマみたいにさ。──ああいうフィクションってのはおかしいよな、まだ捕まってもいねえ犯人がベラベラ自分のやったことを喋るんだ、いくらでも言い逃れできるってタイミングでさ。ああいう犯人は、自分のやったことを自慢したいってーのは、よく聞く話だけど。

 シリル、俺は違うぜ。こいつは自慢でも告解でもない。お前は。俺もそれを知った。だから俺はお前に話してるんだ、──そしてってことをな」

 彼の云うとおりだった。

 これも賭けなのだ、とわかってはいた。アレンのこの脅迫は、よく聞けば彼に有利な内容では決してない。僕が脅迫に屈せず、誰かにこのことを話す──あるいは、恐怖のあまり誰かに助けを求める可能性だって、充分考えられるはずだった。

 しかし、アレンは、僕が誰かにこのことを話したとして、自分が罪に問われない自信があるのではないか?

 がアレンの罠だったとして、僕はきっと、──彼のしたことを告発できない。

 アレンは、脚を大きく踏み出した。僕の隣を通り過ぎて、狼の紋章の下に立つ。ざわ、と夜風に泡立つシベリアスモモの葉叢が、怪物の牙のような陰影を、振り返ったアレンの頰に映していた。

「もとはと云えば、フェリエがエドガー・ソーバーンを誑かさなきゃこうはならなかったかもしれないんだから、まあ、不正っちゃ不正だよな。ひとを詩人にする方法としてはなるほど効果的だろう──これはあいつのだ」

「アレン」僕は叫んでいた――ひどい金切声で。「君は最悪だ」

「あ? よく云うぜ」

 彼がいつもする、片方の眉をつりあげた皮肉的な眼差し。その瞳の、黒い嵐。

「俺はな、金色が嫌いなんだ。太陽や月と似てるだけのくせして、夜や土を見下してやがる。踏みつけにしてやりたくなる。俺が這いつくばってる地べたに、引きずり落としてその死体を嘲笑ってやりたくなる。

 なあ、生まれながらに全部もってるくせに、さらに特別扱いなんて、腹が立つだろ。才能があったとして、この世は競争社会なんだ。金色だとか、青い眼だとか、なんの意味があるってんだ。なんで、俺が死ぬほど努力して手に入れたものを──死ぬほど努力しても手に入らない髪とか眼とか肌の色を何の苦労もなく生まれ持った奴が手にするんだ? しかも、一人の人間の気まぐれな寵愛とやらで?

 邪魔なものはどかして、俺は俺の価値を証明する。なあ。シリル。

 実のところ、エドガー・ソーバーンに俺は指ひとつ触れてない。俺はあいつの罪を突きつけただけ。俺は奴に嘘のひとつもついたことがないんだ。

 

 僕は膝をついた。彼の代わりに、彼のこの言葉を聴いてもなお、彼に罪を償えと強く云えなかった自分の罪に、懺悔のために十字を切った。

 あまりにも理不尽な怒り。

 底無しの嵐のような餓えに満ちた、月すら呑む狼。

 これがアレンの本質なのだ、と、震えながら僕は彼の、月光に青く燃える黒髪を、刃物のような瞳を茫然と見上げていた。

 アレンは、狼の毛皮のようにざわめく木々の影を背負い、僕の顔を覗き込んできた。

「シリル。俺は明日のサイエンス・フェアで必ず賞を取る。そうしたら、この学校の最優秀生徒は間違いなく俺だ。英文法だって、俺が一番成績がいい。

 次の学期からは奨学金で、もっといい高校へ入る。こんな黴臭い十九世紀の衣裳櫃みたいな学校とはおさらばだ」

 なにも云わない僕の耳元で低く、この上なく愉しそうに囁いた。

「じゃあな、シリル。俺よりもずうっと馬鹿なお前は、実はけっこう嫌いじゃあなかったぜ」




 ──これでいいかい。

 アレンは言葉どおり、僕と出るはずだった──僕は体調不良を理由に欠席したんだ──サイエンス・フェアで優勝して、もっと上位の大会への出場権と奨学金を得た。それからのことは、あなたのほうが詳しそうだ。十年生からの編入は目立っただろうし──

 フェリエ先生は、少ししたら復帰してきた。アレンが云ったような、エドガーとの関係も表沙汰にはならなかったし、本当にあったのかすら、少なくとも僕たちには分からなかった。なんらかの罪に問われることもなかった。

 でも、僕たちが十年生にあがる──つまり、アレンが学校を辞めたタイミングで、彼も学校を辞めた。

 これで、この話はおしまいだよ。

 エドガー・ソーバーンの死は自殺として処理されて、ほとんど誰も知らない噂のひとつくらいになってしまった。図書室の奥の、「狼の窓」のように。

 …あなたが、アレンとどんな関係なのか知らないけど。僕はこれ以上、沈黙するのは耐えられないんだ。

 あれは殺人だ。

 アレンは、殺人犯だ。


 僕はあれきり、月を見られない。

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