ひつきのみや(日月)

恋す、という語には、いまだ所有せざるものに思いこがれるようなニュアンスもあり、愛すというと、もっと落ちついて、静かで、澄んでいて、すでに所有したものを、いつくしむような感じもある。

 ──坂口安吾「恋愛論」




夢実ゆみ、おいで」

 あきらが、じょうろの先にできる虹を見ていた姪を呼ぶと、二つ結びの髪の毛を揺らして駆けてきた。姉の晴果はるかの長女で、今年七歳になる。暉も出資したランドセルの色は、淡い紫にビーズでリボンをかたどった模様入りだった。

 暉は、この姪っ子のことを愛している。彼女が育つのは楽しみだし、なるたけ不幸な目にあってほしくはない。彼女は遊んでいるとき、叔父のことなど忘れてしまったようにいろんなことに夢中になる。暉はその背中を愛している。自分をまったく顧みない、無防備で無邪気なその背を、自分が守ってやろうと思う。

 駆け寄ってきた夢実は、勢いのまま暉のお腹に抱きついてきた。鳩尾くらいにぐりぐりと押しつけられる頭を見下ろすと、淡い紫とピンクのリボンで、驚くくらい細くて柔らかい髪を結んでいる。よく見ると、根本に髪の束を一周巻いて、黒いゴムを隠しているようだ。「これ、お母さんにやってもらったの」訊ねると、夢実は嬉しそうに「うん。あのねー、レイちゃんと同じなの」と、前歯が抜けた笑顔で言った。

 レイちゃんが、友達なのか、憧れているアイドルか何かなのかはわからないが、暉もにっこり笑って頷く。「そっか。かわいいね」

 日陰行こっか、と促すと、素直に姪はついてきた。

 リフォームする前は縁側だった場所は、今も窓を開け放てば一段高くなった床に腰掛けられる。

 わんわんと、蝉の声が反響して、音で作られたうろのなかにすっぽりと包み込まれたようだった。

「あたしねえ。幼稚園のとき、リオくんとずっといっしょにいるっていったの」

「ん、リオくん? あー、前から仲良しだったよね」

「うん。リオくんピアノじょうずなの」

 夢実はぶらぶらと、サンダルを履いた足を揺らしながら俯いている。

「なんか、小学校入ったらね。リオくん、ナナちゃんと仲良くて」

「あらら。浮気じゃん」

「あたしがずっといっしょっていったじゃん、ていったんだけど、そしたらね、リオくん、おぼえてないって」

「うわー、そいつはとんだ男だね」

「すきなの、あたしだけだったのかな。

 あたし、リオくんのこと悲しいのか、怒ってるのかわかんないや」

 好きなのに、ひどいことしちゃいそう。

 くっきりとした影の輪郭が、透明な帷で、白くかがやく夏から暉と夢実を隔てているから、囁き声でも会話ができる。

「──わかるよ」

 暉は姪の頭を撫でた。

「あきらくんも、ひどいことしちゃうの?」

 幼子に真っすぐに見つめられて、その澄んだ黒が、真っ黒く澱んだ胸のうちにぽとん、とまた黒い波を生んだ。




阿字観あじかんだね」

 洞窟の彫刻を見上げて、月彦つきひこはそう言った。

「アジカンねえ」暉も鸚鵡返しにしながら、同じように壁面に刻まれた仏像や梵字の群れを眺める。昔、修学旅行で見た三十三間堂か、五百羅漢像みたいだ、と思った。

「暉、わかるかい、阿字観」

「わかるよ、ASIAN KUNG-FU GENERATIONだろ」

「なんだいそれ。映画?」

「おまえー、アジカンは邦ロックの基礎教養だろ」

 帰りに車でかけてやる、と息巻いてから「で、なに? 密教関連のやつだっけ」と話を戻す。

「そうそう、瞑想法なんだけどね。まあ、ここにはそれをするための台座があるんだよ。それで……」

 狭くるしい瑜伽洞ゆがどうのなかで、長身の月彦は暉に輪をかけて大変そうだったが、それでも楽しそうに眼鏡の奥の目を輝かせて、壁面に彫られた神獣や蓮の花を指さして話している。

 ひやりとした洞には、蝉の声も届かない。

 まるで追体験のように、このあとのことが波間の光の反射のように、頭に浮かぶ。

 きっと、自分は帰りの車中でASIAN KUNG-FU GENERATIONをかけて、月彦に邦ロックとは何かをひとくさり語る。月彦は歌詞に反応して、何かしら国語教師らしい意見を語るに違いない。それに自分が何か返して、月彦も、と続けていくうちに、車はマンションに着く。どちらの家か、なんてどちらでもいい。どちらであっても二人は当然のように部屋に入って、買ってきたビールでも開けて、車中の続きを語る。議論になるかもしれないし、談笑になるかもしれない。あるいは、最近DVDレンタルショップで借りてきて面白かった映画のことを思い出して、その映画を観るかもしれない。それでも結局、観終わったあと、自分たちは飽きずに話して、話して、黙る。満ち足りて黙る。

 黙って己れは、この男のことをどうやって殺そうか考えるのだろう。

 数週間前からだ。

 一か月も前から、自分はこの男が欲しくて仕方がない。

 殺してしまおうと思うほどに。

 きっかけは些細なことだった。

 夏の曲がり角で、月彦が初めて口にしたあの言葉のせいだった。

「──ゆみちゃんがね」

 姪のことではない。

 ゆみこ、という女の名前の、漢字を聞いたはずだが思い出せない。白地に溢した血痕のように、瞬く間に滲んで意識を一色に塗り潰してしまう。月彦が呼ぶ名前、薄い唇の刻んだ名前、彼の苗字が弓弦ゆみづるであることさえその瞬間呪いのようだった。

 そのとき初めて、自分は彼が人を呼ぶその温度に耐えられないと知ったのだ。

 女の影がきざしたのはひと月も前、柘榴の花が落ちるころだった。

 二人は隣町の喫茶店にいた。少し空調を涼しくしたくなる季節で、月彦は福永武彦かなにかを読んでいて、自分はフッサールの訳書を読んでいた。月彦から借りた(彼の部屋に上がりこんだ際に、勝手に取ってきたともいえる)もので、日に焼けた背表紙や、裏表紙の時代を感じる価格設定に「古本?」と訊ねた。

「うん。ほし書房の親父さんが最近遺品整理で買い取ったらしくってね、三冊五千円だったんだ」

「ふうん、高いのが安いのかいまいちわかんねえな」

「安いよ、一冊ずつ探して買ったら、合計でゼロがひとつ違うんじゃないかな」

「そりゃあ大変だ」

 星書房は、学生時代から月彦が通っている古本屋で、暉もたびたび訪ねていた。天井まで密に並ぶ書棚と床に積まれた本の塔、紐で括られた異国語の雑誌など、昔ながらの古本屋で、店主はすっかり二人の顔なじみだった。

「──そういえば、今度、親父さんの娘さんも交えて、食事をご一緒することになったんだけどね」

 暉は顔をあげた。なにを言われたのか、一瞬理解できなかった。

「娘って」

「ほら、星さん娘がいて。ほら、少し前に大学受験だからって、暉も参考書を譲ったろう」今、神奈川の大学に通ってるって、と穏やかな声色で話す月彦の言葉が、まるで入ってこない。

「その娘が、なんで月彦と飯食うんだよ?」

「夏休みだから、こっちに戻ってきてるそうだけど。その…僕が漱石を研究してたと話したら、彼女もそのあたりを専攻しているらしくて」

 何もかも、聞こえてはいるのに理解できない。蝉時雨のなかで、ぎりぎりで手の届かない距離から囁かれているように。

「──いきなりすぎやしないか。親父さんが同席とはいえ、ろくに知らない女性と食事ってのは、さ」

 月彦に向けられる眼を、自分が知らないことが信じられない。彼は長い睫毛を伏せて、鷹揚に首を傾け、コーヒーを飲んだ。

「──ときどき、帰省中に書店で店番をしていたから。話したことはあるのだけどね」

 知らない。

 頭の上に硬いものを落とされたようにぐわんぐわんと目眩く。知らなかった。あの黴臭い、潜水艦のなかのような古本屋の隙間に、女の影があったなんて。

 若い女が、未婚の男と食事なんてどんな神経をしているんだとか、父親が同席するとはそういう関係なのかと、そういった意図での席なのではないかと、次々思い浮かび問い詰める内容を口にすることはできなかった。

 自分はいつものように微笑んだのだろう、記憶にはきちんと演じられたかの確証はないけれど。

「──まあ、お前は漱石語りたくて教師になったようなものだろ。いいじゃねえの、熱心に聞いてくれそうな生徒がいてさ」

「うん。彼女のほうからの申し出なんだけれど──卒論の相談とかもさせてほしいって言うものだから、僕でよければ、と」

「……随分と、仲がいいんだな」

「別に、店の外で話したことがあるわけでもないんだけど──人懐っこいんだ、」

 そうして、はにかむような笑みで、月彦は女の名を呼んだ。

 そうか。

 お前はその女を、などと呼んでみせるのか。

 たとえ妹のような娘なのだと言われたとして、それでも尚更耐えがたかった。この、存外情の深い男の懐に入り込みそうなやわらかな生き物の気配、自分ははなれない存在の気配が、陽炎のように世界を覆っていく。

 今も、見えるのは、木洩れ日を背負って憎らしいほど前と変わらない月彦の背中だけだ。

 この背に噛みつきたい。

 なんにも知らないような白い頸に歯を立てて、殺してやりたい。

 蝉時雨のような殺意。

 その背に雪崩れていく、透明な恋の死骸が今日もまた増えていく。

 知らず、ある誘いが口をついて出ていた。彼は断ったりしない、という確信と、断ってくれればいいのに、と同じくらい強く思いながら。

「──今度、山に行かないか」





 私はあの人を愛している。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまえに、私はあの人を殺してあげる。

 ──太宰治『駈込み訴え』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る