第26話
目が覚めると、身体が酷くだるかった。
「ん……」
頭が痛くて、ぞくぞくするような寒気がある。
何とか身体を起こそうとしたけれど、起き上がれそうになかった。
(私、どうしたんだっけ?)
いつのまにかベッドに戻っている。ぼんやりと天井を見上げていると、エーリヒの声がした。
「クロエ、目が覚めたか?」
ひやりと冷たい手が頬に触れる。
それが心地良くて、目を閉じて擦り寄った。
「どうしてあんなところで寝ていた? クロエはあまり身体が丈夫ではないんだから、無理をしては駄目だ」
そう言われて、寝室から毛布を持ってきて、エーリヒの傍で眠ったことを思い出す。あのまま寝てしまったので風邪を引いたらしい。
(ああ、そうだった。クロエは深窓の令嬢だった……)
今までほとんど屋敷から出たこともなく、大人しく静かに暮らしていたのだ。前世を思い出して気持ちはすっかり一般市民だったが、身体はか弱い令嬢のままだったらしい。
思い出してみれば、いつも寒いと思う前に暖炉には火が点されていた。魔法書や魔石作りに熱中していると、これ以上は駄目だと寝室に連行されたことが何度もある。
大切に守られていたのだと、今さら気が付いた。
そっとエーリヒを見上げると、彼はよほど心配したのか、厳しい顔でクロエを見下ろしている。
「だってエーリヒがいなかったから」
掠れた声でそう言うと、頬に触れていた彼の手がぴくりと動いた。
目が覚めたときにひとりで、寂しかった。
抱きしめてくれた温もりが恋しくなった。
いつもは少し強引に抱きしめるくせに、どうして一度拒絶したくらいで、距離を置こうとするのか。
自分が原因だとわかっているのに、そんなことを思ってしまう。
「傍にいてくれなかったから、寒くて目が覚めたの」
身体が弱っているからか、深く考えることなく本音をそのまま口にしていた。
(ああ、これはクロエの気持ちだわ)
愛情に飢えていた寂しがりの令嬢が、抱きしめてくれる腕を、温もりを求めている。
深く考えずとも、自分の中にちゃんとクロエはいたのだ。
「いつもエーリヒが傍にいてくれたから、温かくてよく眠れたのに」
離れようとしたエーリヒの手を両手で握りしめて懇願する。
「お願い。ひとりにしないで」
昨日は拒絶したくせにこんなことを言うなんて、我ながら面倒だと思う。
けれどクロエの中には、今までのクロエと橘美沙が混同している。心の揺れを、自分ではどうすることもできずにいた。
「クロエが望むなら、俺はずっと傍にいるよ」
エーリヒは表情を和らげると、クロエの髪を優しく撫でてくれた。
優しい言葉に、眼差しに安心して目を閉じる。
目が覚めてもきっと、エーリヒは傍にいてくれるだろう。
そのまま眠り続け、再び目を覚ましたときには、すっかり頭痛が消えていた。
窓の外から見る空は暁色で、夕方近くまで眠ってしまったことを知る。
ゆっくりと身体を起こそうとして、背後からエーリヒに抱きしめられていたことに気が付いた。
(温かいと思ったら……)
クロエの身体は毛布に包まれていて、さらにこうして包み込むように抱きしめられていたのだから、寒さなど感じる暇はなかったようだ。
約束を、きちんと守ってくれた。
思わず笑みを浮かべながら、まだ眠っているエーリヒの腕からそっと抜け出す。毛布に包まっていたので、結構汗をかいてしまったようだ。
(お風呂に行こうかな?)
この国では、浴室があるのは貴族の邸宅くらいだ。
町には共同浴場があって、町の人たちはそこに行くようだ。この辺りにも、少し離れた場所に共同浴場がある。
けれど元日本人としては、毎日のお風呂は必須で、できるならひとりでゆっくり入りたい。
だから物置だった部屋を、クロエの魔法で浴室にしてある。
(我ながらチートよね)
部屋の壁と床を防水加工して大きな浴槽を設置し、排水溝まで作ったのだ。そのときは魔力を使いすぎて倒れそうになって、エーリヒにはそこまでするのか、と少し呆れられたものだ。
着替えを用意してから浴槽に水を溜め、魔法で適温にした。
「うん、気持ちいい……」
髪と身体を洗ってからゆっくりと浴槽に浸かる。
すっかり体調も良くなったようだ。
髪を魔法で乾かしてから部屋に戻ると、スープの良い匂いがした。
そういえば昨日の夜から何も食べていない。
お腹がすいていることを思い出して、ふらりとキッチンに向かう。
するとクロエがお風呂に入っている間に起きて、買い物に行ってきたらしいエーリヒの姿があった。
机の上にはサンドイッチと、野菜スープが置いてある。
声を掛けようとしたクロエは、彼の衣服の右腕が鋭利な刃物で切られたように裂かれていることに気が付き、慌てて駆け寄った。
「エーリヒ、それ、どうしたの?」
急いで確認するが、衣服だけで肌には傷ひとつない。
ほっとして胸を撫で下ろしていると、エーリヒは困惑したようにクロエを見る。
そして、こうなった状況を説明してくれた。
「町で、剣を振り回して暴れている男がいた」
どうやら虐げられていた移民が我慢の限界を越え、大通りで無差別に剣を振り回していたらしい。居合わせたエーリヒは小さな子どもを庇って、咄嗟に手を出してしまったと言う。
剣をまともに受けてしまったが、切れたのは服だけだった。
「よかった……。でも、どうして?」
本当なら、大怪我をしていたところだ。
ほっと胸を撫で下ろすが、どうやって剣を防いだのだろう。
「考えられる理由はひとつ。この腕はクロエに魔法をかけてもらった」
「あっ……」
その言葉で、魔法ギルドに行ったときのことを思い出す。
エーリヒは、ギルド職員に、魔法で攻撃をされた。
ギルド職員は、エーリヒが移民のクロエを魔石作りのために利用していると勘違いしたのだ。
そのとき治癒魔法をかけながら、たしかにクロエは強く願った。
治りますように。
そして、もうエーリヒが傷つきませんように、と。
「まさか、そのせいで?」
「……それしか考えられない」
エーリヒはキッチンからナイフを取り出すと、無造作に腕に突き刺そうとした。
「ま、待って!」
いくら何でも無謀すぎる。
慌てて止めようとしたが、ナイフはエーリヒの肌を傷付けることはできずに弾かれてしまった。
「……」
「………」
ふたりは顔を見合わせて黙り込む。
まさかクロエも、自分の力がこれほど強力だとは思わなかった。
「右腕、だけ?」
「あのとき魔法で治してもらったのは右腕だけだから、おそらくは」
「……試さないでね」
ナイフを持ち直そうとしたエーリヒを止めて、とりあえず落ち着こうとふたりで椅子に座った。
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