第8話 クロエの父、メルティガル侯爵の誤算
メルティガル侯爵家の当主アレクサンダは、娘の身を案じる妻の泣き声に苛立って、机を殴りつけた。
鈍い音が響き渡り、妻のリディは怯えたような瞳で夫を見上げている。それでも長年の経験で、これ以上夫を怒らせてはいけないと悟ったのか、静かに部屋を出て行った。
こんなときに泣くことしかできない女など、このメルティガル侯爵家に必要はない。
(役立たずの母親は、やはり役立たずか)
娘のことを思い出すと、また怒りがこみあげてくる。
数日前に王城で開かれたのは、若い貴族だけが参加する夜会だった。
だから参加していた貴族の数も、そう多くはない。
それなのに翌日には、メルティガル侯爵家の娘が、第二王子に婚約を解消されたという噂が広がっていた。
このメルティガル侯爵家は王立騎士団の団長を歴任し、この国の軍事力を一手に担っている。歴代の当主は、有事の際には命を懸けてこの国を守ってきた。
今は国家間の戦争がなくなって久しいが、それでも国内で反乱があれば、直ちに鎮圧してみせると自負している。
そのメルティガル侯爵家の娘が、たかが愛妾が産んだ第二王子に婚約を解消されたのだ。
恥さらしめ、と唸るように言い捨てて、アレクサンダは机の上に置かれていた書類の山をなぎ倒した。
そもそもこの婚約は、王との契約だった。
アレクサンダには、子どもが三人いる。
正妻が産んだ長男の十九歳のマクシミリアンと、十七歳になった娘のクロエ。
そして、北方にあるジーナシス王国出身の女が産んだ、サリバという十五歳になる息子がひとり。
アレクサンダは、このサリバに侯爵家を継がせたいと思っていた。
理由は、母親の血筋だ。
サリバの母親は魔力を持っていて、簡単な治癒魔法を使うことができる。さらに、その祖先には魔女もいたらしい。
大陸の最北端にあるジーナシス王国は、もっとも魔女が多い国である。
現在も、数人の魔女がいるという噂だった。
アレクサンダは、魔女の末裔である女に子どもを産ませて、その血脈を侯爵家に取り入れようと考えていた。
息子のサリバは、母親の血筋を受け継いで、僅かに魔力を持っている。
この息子と、この国の唯一の魔女である王女カサンドラが結婚すれば、その子どもが女であった場合、魔女となる可能性が非常に高い。
国王は、第二王子のキリフを侯爵家で引き取ってくれるのであれば、カサンドラを降嫁させても良いと約束してくれたのだ。
王族が、ふたり揃ってひとつの侯爵家と婚姻を結ぶのは異例のことだ。
だが、国王も魔女の誕生には期待を寄せていた。
王女のカサンドラはわがままで手に負えないが、魔女が複数いれば、ジーナシス王国のように互いに制御し合うことができる。
それに、まだ子どものうちにしっかりと力の使い方を学ばせれば、国の役に立つ魔女になるのではないかと考えているのだろう。
キリフの婚約者も、誰でも良いわけではなかった。
臣下になるとはいえ、キリファが王族の血を引いているのは事実なのだから、あまり身分の低い者では周囲が納得しない。
この国の軍事を担うメルティガル侯爵家が、臣下となるキリフの身内となることに不安を唱える者もいたらしい。
だが、キリフはあくまでもクロエの夫になるだけであり、メルティガル侯爵家は継ぐのはサリバである。
むしろ、のちに王位を巡る火種とならないように、しっかりとキリフを監視することができる立場のほうが好ましいと、国王は考えたようだ。
さらにその見返りとして、魔女であるカサンドラを降嫁させる。
魔女の降嫁は、メルティガル侯爵家の悲願だ。
そのために、何としてもキリフとクロエの婚姻を成立させなくてはならない。
それなのに役立たずの娘は、よりによって夜会という公式の場で婚約解消を言い渡され、その場から逃げ出したのだ。
王女の降嫁を望む者は多い。
さらに近隣諸国でも、魔女であり王女でもあるカサンドラに注目している。
まだサリバとの婚約が正式に発表されていないうちに、キリフとの婚約解消の噂が広まってしまったのは痛恨だった。
娘のクロエには、魔女の降嫁の鍵となるキリフを強く繋ぎ止めておけと強く言ったはずだ。
だがクロエは、それを果たせずに行方を眩ませている。
このまま見つからなかったら、本当に婚約が解消されてしまうかもしれない。
クロエだけではなく、サリバと王女の婚約もだ。
「早くクロエを探せ! 多少、手荒な真似をしても構わん。必ず連れ戻せ!」
メルティガル侯爵家の騎士らにそう命じると、苛立ったまま、窓から外を睨んだ。
ふと、窓ガラスに映った自分の姿に違和感を覚えて、じっくりと眺める。随分と年を取ったように見えたのは、すべてが思うようにいかないせいか。
まさか、髪の毛が薄くなったからだとは思わなかった。
娘のクロエが、王女よりも強い力を持った魔女だなんて、彼はまったく知らなかったのだ。
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