第2話
態度を改めなければならないのは、どちらか。
思わずそう言いそうになるのを、何とか堪える。
ここでクロエが反論すれば、ますます興奮して喚きたてるに違いない。それはとても面倒だし、周囲の人たちにも迷惑だ。
(まぁ、興味本位で眺めている人と、他人の不幸が大好きな人たちばかりみたいだけど)
女性の扱いから考えても、ここはあまり良い国ではなさそうだ。
おそらく父はキリフに、従順で、何でも言うことを聞くおとなしい娘だと言っているのだろう。
この国では、いまだに女は男の言うこと聞くべきだと思う者は多い。
婚約者であるキリフも、そういう男性だった。
それでも今は、王妃を中心に女性の社会進出が推奨されている。女性を侍女としてだけではなく、文官として雇用する案も出ているくらいだ。
それなのに、側妃の子とはいえ、よりによって第二王子であるキリフが、父と同じような残念な頭をしていたとは。
だが、せっかく向こうから婚約破棄を申し出てくれたのだ。ここは全力で乗っかるべきだろう。
「はい、承知しました」
そう言って、立ち上がる。
今まで絶望の表情を浮かべて嘆いていたクロエが、急に満面の笑みで立ち上がったのだ。
当然のように周囲は騒めいた。
「何だと?」
向こうの案を承諾しただけなのに、なぜかキリフは激高した。
「私に逆らうつもりか!」
逆らうも何も、婚約を破棄すると言われ、それを承諾しただけなのに、どうしてそんな言葉が出てくるのか。
クロエは首を傾げた。
彼の思考が理解できない。
「私は殿下のお言葉に従うだけです。殿下が婚約を解消するとおっしゃるのであれば、それを受け入れます」
それだけ告げると、踵を返してその場を立ち去る。
(さてと。これから忙しいわ。お父様に見つかる前に、屋敷を出て行かなくては)
見つかってしまえば、激怒した父にどんな目に合わせられるかわからない。キリフに許しを請うように、命じられる可能性もある。
(そんなのは嫌。私はこれから自由に生きるのよ)
前世の記憶が蘇る前のクロエは、あまりにも従順すぎた。今のクロエは、自分を虐げる人間に黙って従うべきではないと思う。
「ん?」
ふと何かに気が付いて、クロエは会場を見渡した。
どこからか魔法の気配がする。
誰かがこちらを監視しているのかもしれない。
些細なものだが、今のクロエには目障りだった。
「消えて」
クロエが呟いただけで、その魔法は霧散する。
(うん、これでいいわ)
監視の目が完全になくなったことを確認して、再び走り出した。
魔法を使える者には、三種類の人間がいる。
魔導師と呼ばれているのは、魔力を持って生まれた者たちで、彼らは自らの魔力で魔法を使う。
魔力はないけれど、魔法を学び、魔導師が作った魔石を媒介として魔法を使うのが、魔術師と呼ばれる者たちだ。
魔力を持っている者はとても少なく、魔法を使える者のほとんどが、この魔術師だった。
そして最後が、魔女である。
女性だけが生まれ持った資質で、魔導師とは桁違いの魔力を持ち、呪文も媒介も必要ない。
それは、ただ願っただけで、すべてを叶えてしまうほどの強い力だ。
クロエは知らなかったが、クロエはその「魔女」だったのだ。
だから普通の魔法など、邪魔だと思うだけで吹き飛んでいく。
後ろで婚約者だったキリフが、まだ叫んでいる。
望み通りに婚約を解消したというのに、何が不満なのだろう。
(うるさいなぁ。いろいろと考えなきゃいけないんだから、静かにしてほしいのに)
そう思った途端、周囲が静かになった。
これで考えごとに集中できる。
(うん、これでいいわ。まず屋敷に戻って旅支度をしましょう)
クロエはそのままメルティガル侯爵家の馬車に乗って、屋敷まで急いだ。
出迎えてくれた執事や侍女が驚くほどの速度で自分の部屋に戻り、手早く着替えをする。
もちろん、父の手先である執事や侍女が入ってこられないように、扉は魔法で施錠済みだ。
夜会用のドレスを脱ぎ捨てて、クローゼットを開いた。手頃な鞄を取り出して、旅支度を始める。
「うーん、動きにくそうなドレスしかないわね」
父の命令なのか地味なドレスばかりだが、それでもさすがに貴族令嬢だ。普通に町を歩けるようなものではない。
「仕方ない。これでいいか」
その中でも一番質素なドレスに着替えると、クローゼットにあった宝石をすべて袋に入れる。さすがに無一文ではすぐに野垂れ死にだ。
クロエに与えられたものなど微々たるものだが、課金すれば当面の生活費にはなるだろう。
そして、寝室の窓から外に出た。
(お父様、お兄様、さようなら。もう二度とお会いしませんように)
クロエの人格しかなかった頃はおそろしくて仕方がなかった父と兄だが、今では不当な扱いに対する怒りしかない。
もちろん、婚約者だったキリフに対しても同じように。
それぞれがそれなりにイケメンで、自分に自信がありそうなところも嫌いだ。
(みんな、禿げてしまえばいいのよ。一生、薄毛に悩めばいいわ)
その様子を想像すると、少しだけ心が晴れた。
自分が魔女であること。
願っただけでそれが叶えられてしまうことを、目覚めたばかりのクロエは、まだ知らなかった。
唯一の心残りは母のことだ。
(お母様、黙っていなくなってごめんなさい)
母も連れて出ようかと思ったが、母もまた、女は男に従うべきだと考えている人間だ。
幼い頃からそう言われ続けてしまえば、そんな考えになっても仕方がないのかもしれない。
クロエだって、前世の記憶が蘇らなければ、母のような女になっていた。
生まれたときから鳥籠で飼われていた鳥は、外では暮らせない。
母だっていくらクロエが説得しても、父に逆らってはダメだとしか言わないだろう。
母のしあわせを祈りつつ、ここで別れるしかないだろう。
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