第3話

 屋敷から抜け出してしばらく走ったところで、クロエは一度立ち止まった。

 ここまで逃げれば、すぐに見つかることはないだろう。

 まず父も婚約者だったキリフも、クロエが屋敷から逃げ出すなんて思わないに違いない。

 だから少し落ち着いて、これからどうするかしっかりと考えて行動しなければと思う。

 ある程度は魔法で何とかなるだろうが、まだ魔法が使えることを自覚したばかり。自分に何ができるのかも、把握していない。

 無理は禁物だ。

(まずは服装と、資金ね。このままでは目立つわ)

 町に行って小さな宝石をいくつか売り払い、服と旅支度を整えなければならない。

(ああ、でも女ひとりじゃ、足もとを見られて買い叩かれそう。不審に思われて通報されたら面倒だし……)

 一番地味なものとはいえ、ドレスを着て町を歩くのは目立ちすぎる。

 せめてローブでもあればよかったのだが、外出などほとんどしないクロエのクローゼットには室内着しかなかった。

 周囲を見渡しながら目立たない道を歩こうと、誰もいない裏通りに足を踏み入れる。

 前世の知識で考えてみると、こういう大きな町には、大抵どんなものでも買い取ってくれる闇市場があるものだ。

 でも、女ひとりで行けるようなところではなさそうだ。

 いくら王妃が改革を行おうとしても、長年の習慣は容易には変わらない。

 しかも近年は非公式の移民も多く、治安が悪化していると、侍女たちが噂をしていた。

(いずれこの国を出るとしても、当分の間は相棒が必要ね。女性を卑下していなくて、ある程度腕が立つ。そんな男の人がどこかに落ちていないかしら……)

 そんなことを考えながら歩くクロエに、背後から声を掛けた者がいた。

「どこに行くのですか、クロエお嬢様」

「……えっ」

 びくりと身体を震わせて振り返ると、そこにはひとりの男性が立っていた。

 美しい銀髪に、サファイアのような透明な青色の瞳。

 すらりとした長身に、白い騎士服を身に纏っている。

「……エーリヒ」

 彼は昔、騎士団長である父の配下で、見習い騎士として屋敷にいたことがある。

 冷たく見えるほどの美貌と見事な剣の腕で王女殿下に気に入られ、今は近衛騎士に出世している。

 彼はやや年下のクロエを、お嬢様と呼んでいた。

「お嬢様が魔法を使えたなんて、驚きました。今までよく隠していましたね」

「お父様に言われて、私を連れ戻しにきたの?」

 いくら魔法が使えても、誰にも教わったことのない素人の魔法だ。

 あの父が称賛するほどの剣の使い手であるエーリヒに、敵うとは思えない。

(でも、あの屋敷に戻るのは絶対に嫌。私は自由に生きたいの)

 覚悟を決めて身構えるクロエに、エーリヒはあっさりと首を振る。

「違いますよ。俺はもう近衛騎士ですから、団長の命令を聞く理由はありません」

「え?」

 あっさりとそう言う彼に、クロエは疑いの目を向ける。

「じゃあ、どうして私を追ってきたの?」

「お嬢様がキリフ王子殿下に婚約を解消されて、急いで逃げ出すところを目撃しまして。便乗させていただこうかな、と思って後を付けました」

「び、便乗?」

「はい。俺も王女殿下から逃げ出したいと思っていましたので。ずっと監視が厳しくて逃げ出せなかったのですが、お嬢様の魔法のお陰で助かりました」

 氷の騎士と称されるほどの冷たい美貌が、にこりと人懐っこい笑みを浮かべる。あの監視魔法はクロエを見張っていたものではなく、彼に掛けられていたようだ。

「あ、この服装は目立ちますね。着替えますのでお待ちください」

 そう言うと彼は、クロエの目の前で着替えをしだした。あまりのことに呆然として、思わず凝視してしまう。

「そこは頬を赤らめて、悲鳴を上げるところだと思うのですが」

「……そんな気力もなかったわ」

 エーリヒは旅の剣士のような服装をすると、大きな布袋から、魔導師が着るようなローブを取り出した。

「お嬢様もこれに着替えてください。さすがにドレスは目立ちますので」

 用意がよすぎる彼を、思わず不審そうな目で見てしまう。

 だが、目立てばそれだけ見つかる危険性が高まる。仕方なく差し出されたローブを受け取った。

「お嬢様も見たんだから、俺も着替えを見ていいですか?」

「いいわけないでしょう!」

 思わずクロエではあり得ない口調で怒鳴ると、エーリヒは驚いた素振りも見せずに、残念そうに後ろを向いた。

「ちゃんと見張っていますから、大丈夫です」

「……絶対に振り向かないでね」

 誰も見ていないとはいえ、まさか外で着替えをすることになるとは思わなかった。

(でも好都合じゃない? エーリヒなら女性を見下すこともないし、腕も立つわ。向こうが私に便乗したって言うなら、王都を出るまで、傍にいてもらおうかな?)

 まさか、こんな極上品が落ちているとは思わなかった。

 しかも着替えまで用意してくれたなんて。

 クロエはさっさとドレスからローブに着替えると、後ろを向いたままのエーリヒに声を掛けた。

「ありがとう。もういいわ」

 彼は振り返り、ひとりでさっさと着替えた様子に少し驚いたようだ。

「これ、どうやって着るの、とか言われるのを期待していたんですが」

「何を言っているの。エーリヒ、ちょっと性格変わっていない?」

 氷の騎士の名にふさわしい、もっとクールで影のある感じだったような気がする。

「そういうお嬢様こそ、婚約を解消されたときとは比べものになりませんよ。あれは芝居ですか?」

「まぁ、そんな感じかな?」

 まさか前世の記憶が蘇りました、なんて言えない。

 あいまいに誤魔化すと、彼は大袈裟に驚いて、舞台女優になれるんじゃないですかと笑った。

「さて、これからどうするつもりですか?」

「闇市場で、宝石を売ろうと思っていたの」

「奇遇ですね。俺もそうです。王女殿下から頂いたものですが、まったく好みではないので」

「……」

 エーリヒはよほど、王女が嫌いだったらしい。

「とても可愛らしい方だったと思うけれど」

「……俺にはとても、そうとは思えませんね。あのキリフ殿下の妹ですから。俺のことなんか、自分の言うことを何でも聞いてくれるお人形としか思っていませんよ」

 彼もどうやら相当苦労をしていたらしい。

 クロエはようやく警戒を解いて、彼と向き直る。

「もしよかったら、闇市場に一緒に行ってくれないかしら。さすがにひとりでは不安だったの」

 クロエの申し出に、エーリヒはあっさりと頷いた。

「俺でよければ喜んで。勝手に便乗しましたが、お嬢様の魔法には助けられましたから」

 彼はそう言って、手を差し伸べてきた。

 クロエは少し躊躇ってから、その手を握る。

 エーリヒは嬉しそうにクロエの手を引いて歩き出した。

「換金したら、どうします?」

「冒険者になって、王都を離れようと思っていたの。私は魔法が使えるから」

「なるほど。では、剣士の相棒なんてどうですか? これでも腕に自信はあります。お嬢様を守ることはできますよ」

「……そうね」

 エーリヒの申し出に、クロエはしばし考え込む。

 せめて王都を出る間だけでも、相棒が欲しいと思っていたところだ。

 エーリヒなら剣の腕も確かだし、何よりも幼い頃からよく知っている相手である。彼が王女に見初められ、近衛騎士として王城に移動してしまったとき、「クロエ」はとても悲しんだ。

 それに彼ならば、クロエに何かを強要することはないだろう。

「ええ、いいわ。でもお嬢様はやめて。これからは相棒なんだから、クロエと呼んでほしいの。敬語もなしよ」

 エーリヒはそんなクロエを見つめると、見惚れるほど綺麗な笑みを浮かべた。

「わかった。クロエ、ふたりで行こうか」

 婚約を破棄したので、これからは好きに生きようと思う。

 相棒となった、彼と一緒に。

 これからの未来を夢見て、クロエは微笑んだ。

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