婚約破棄されたので、好きにすることにした。

櫻井みこと

逃亡編

第1話

 胸が痛かった。

 苦しくて、切なくて。このまま死んでしまいたいと思うくらいだった。

 涙が頬を伝って零れ落ちていく。

 手足が震えている。

 とうとう足の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。

(何これ……。どうして、こんなことに?)

 絶望が心を埋め尽くしているのに、何を悲しんでいるのか、まったくわからない。

 それでも震える手足に力を入れて、何とか体勢を整えた。

(落ち着いて、ゆっくりと考えてみよう)

 深呼吸をして、それから周囲を見渡してみる。

 美しく着飾った人々が、こちらを遠巻きに見つめていた。

 彼らの反応はさまざまで、ある人は忌まわしそうに、ある人は同情するようにこちらを見つめている。

 そして目の前に、ひとりの男性が立っていた。

 煌めく金色の髪をした、なかなか整った顔立ちの青年だ。夜会にでも参加しているような礼服を着ている。

 見た目だけなら、極上。

 でも彼は、とても冷たい目をしてこちらを見ている。

(私は誰? この状況は、どういうことなの?)

 必死に自分の名前を思い出そうとした。

 すると脳裏に浮かんだのは、なぜかふたつの名前だった。

 ひとつは、橘美紗。

 二十八歳で、地方の公務員をしていた。

 趣味がたくさんあって、休日はいつも外出しているような、活動的な人間だった。

 もうひとつは、クロエ・メルティガル。

 メルティガル侯爵家の娘で、このアダナーニ王国の第二王子、キリフの婚約者である。

 クロエの年齢は十七歳。

 気弱でおとなしく、父や婚約者のいいなりだったようだ。

(ああ、そうだった……)

 名前を思い出すと、少しずつこの状況が理解できるようになった。

 「今」の自分の名前は、クロエ・メルティガルだ。

 色素の薄い金色の髪に、水色の瞳。白い肌。

 全体的に色彩が薄く、ぼんやりとした印象でおとなしい娘だったので、周囲からは地味な令嬢と蔑まれていた。

 父であるメルティガル侯爵は騎士団長で、これがまた絵に描いたような男尊女卑の男だ。

 大切なのは、息子たちだけ。

 娘である自分はもちろん、妻である母でさえ、父にとってはただの道具に過ぎない。

 目の前に立って、こちらに凍りつくような視線を送っているこの青年――。第二王子キリフとの結婚を命じたのも、その父だ。

 婚約者になることはできたが、実際に結婚するまでは安心できない。どんな手段を使っても、王子の心を射止めろ。

 父にそう命じられたが、今まで父と兄以外の異性と話したことのないクロエには、どうしたらいいのかわからなかった。

 ただ王子に付きまとい、何とか自分の存在を王子に認めてもらおうとした。

 それは逆効果でしかなかったと、クロエではないもうひとりの自分が呆れている。

 記憶を巡らせてよく考えてみると、橘美紗というのは、クロエの前世のようだ。

 日本という国でごく普通の生活をしていた美紗は、原因はまったく思い出せなかったが、死んでしまったらしい。

 そして、このクロエという少女に転生した。

(異世界転生って、本当にあるのね?)

 座り込んだまま、建物にも視線を巡らせる。

 ヨーロッパ風の、美しく豪奢な王城。

 周囲にいる人たちも皆、華やかなドレスを着ている。

 どうやら美紗は、ファンタジー漫画のような世界に、侯爵家の令嬢クロエとして生まれたらしい。

 そんなクロエだったが、何だかとてつもないショックなことがあって、それが原因で前世を思い出してしまったようだ。

(えーと、何があったのかな)

 美紗としての意識がはっきりとした途端、死にたくなるような切なさや悲しさは薄れていた。

 冷静に、今までのクロエとしての人生を思い出してみる。

 王城で開催された夜会。

 クロエは婚約者のキリフではなく、兄のエスコートで会場を訪れていた。

 キリフはクロエを迎えに来ないばかりか、装飾品やドレスも贈ってくれなかったのだ。時間ギリギリまで待ったが彼からの連絡はなく、父にきつく叱咤されながら、慌てて会場に駆けつけたのだ。

 そこでクロエが見たのは、美しい男爵令嬢をエスコートする、キリフの姿。

 彼はクロエには向けたことのない優しい笑顔で、彼女の手を取っていた。

 それを見た瞬間、ショックで頭に血が上り、気が付けば彼女に詰め寄っていた。

「キリフ様は私の婚約者です。取らないでください!」

 父から叱咤される恐怖と、キリフから捨てられる恐怖。そのときのクロエの胸にあったのは、そのふたつだけだった。

 キリフは冷たい顔で彼の腕に縋ったクロエの手を、振り払った。

 ぱしりと手を打たれ、絶望で視界が歪む。

「私はお前などのものではない。思い上がるな」

 冷たい声。

 凍りつくような視線。

 クロエは震えて座り込み、そのショックで前世の記憶を思い出した。

(なるほど。そんな状況かぁ)

 記憶を取り戻したばかりの今の状態だと、橘美沙として生きた記憶の方が強く、クロエの人生はどこか他人事のように感じる。

 クロエとしての記憶も、少しあやふやなくらいだ。

 それに目の前のキリフの表情を見れば、どれだけ彼がクロエを嫌っているのかわかる。そんな女性に付きまとわれ、大切に思っている恋人を責められて、さぞ不快だったろう。

(でも、そんなに嫌ならさっさと婚約を解消すればいいじゃない。婚約したまま相手を無視して、さらに連絡もせずにエスコートを拒んで、公衆の面前でその手を払いのけるなんて)

 たしかにクロエも悪かった。

 どうしたらいいのかわからなかったとはいえ、ただつきまとうだけなんて、迷惑でしかなかっただろう。

 でも、クロエだけが悪いとは思わない。

 彼は政治的な繋がりを持つクロエとの婚約を維持したまま、自分は美しい令嬢との恋愛を楽しんでいたのだ。

 クロエの目の前で、恋人を庇うように回された手。その手で彼は、クロエを激しく打ち払った。

 自分は王子だから、浮気をしても許されるとでも思ったのだろうか。

(さて、どうしよう?)

 冷たい目で見降ろすキリフを見上げながら、クロエは思う。

 公衆の面前でこんな失態を犯した娘を、婚約者であるキリフに取り入るどころか激怒させたクロエを、父は許さないだろう。

 婚約者に手を振り払われたとき、覚えのある痛みだと思った。

 おそらく父は、娘に手を上げている。

 クロエはそんな父が恐ろしくて、ただ言われるままキリフに付きまとったのだ。

(こうしてみると、クロエだって彼に恋心なんて抱いていないわね。ただ、父親が怖いから命令に従っていただけだわ)

 むしろこんな婚約は、どちらにとっても不幸になるだけだ。

 きっとこのまま結婚しても、彼は浮気をする。

 クロエは、お飾りの妻でしかないだろう。

 もし結婚しなかったとしても、あんな家族と一緒にいてしあわせになれるとは思えない。

 せっかく生まれ変わったのだから、もっと人生を楽しみたい。

 それに、クロエはどうやら魔法が使えるようだ。

 クロエの記憶としては、何となく自分の中に宿る魔力の存在に気付いていながらも、その力が怖くて、必死に隠していたようだ。

 だからクロエが魔法を使えることは、婚約者であるキリフはもちろん、父も知らないだろう。

 この国では魔法が使える者はほんの一部しかいない。

 もし周囲が、クロエが魔法を使えることが知っていれば、その評価はもっと違うものになっていただろう。

 だがこの魔法があれば、貴族ではなくなっても生きていける。

(平民として、冒険者になるのも楽しそうね)

 家を出よう。

 そして、好きに生きよう。

 そう決意したところで、キリフは苛立ちを込めて言った。

「お前がそんな女だとは思わなかった。態度を改めないのならば、婚約を解消するしかないな」

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