第37話

(ああ、結局差し入れは渡せなかった)

 クロエのアイテムボックスには、子どもたちに渡そうと思って作ったクッキーと、衣料品や保存食などが入っている。

 あの教会で保護されている子どもたちに罪はないと思うが、あんな話を聞いてしまえば、もうスラムを訪れようとは思えなかった。

「たしか、クロエのアイテムボックスに入っているものは、劣化しないんだよな?」

「え? うん、そうよ」

 ふいにエーリヒにそう聞かれて、こくりと頷く。

 クロエは魔女で、願ったことを叶える力を持つ。

 だから、ゲームのようなアイテムボックスが欲しいと願ったことで、それが手に入った。アイテムボックスに入っているものは劣化せず、何年経ってもそのままの状態を保っている。

「だったら、いつかあの子どもたちに渡せる日が来る。だから大丈夫だ」

 エーリヒは昨日、クロエが子どもたちに食べてほしくて、何種類もクッキーを作っていたことを知っている。

 だから、そう言って慰めてくれたのだろう。

「……そうね」

 だから笑顔でそう答えた。

 けれど自分だけならまだしも、あの女性がエーリヒも狙っていると知ったからには、迂闊に近寄るつもりはなかった。

 あの養女の話も、きっぱりと断らなくてはならない。

(面会も、どうにしかしないと……)

 会うことさえできれば、何とかなる。

 彼女はそう言っていた。

 だから、面会も拒むつもりだ。

 貴族からの申し出を、移民であるクロエが断るのは容易ではないだろうが、たとえギルドを除籍になったとしても、それだけは避けなくてはならない。

(まさかこんなことになるなんて)

 予想外の事態が続いている。

 冒険者になれば自由になれると思っていた。

 だが実際は、貴族社会とそう変わらない。

 移民は差別され、かつて差別されていた人間も、逆の立場になれば簡単に人を見下す。

 あのギルド員のサージェだけではない。

 他の魔法ギルドの女性も、クロエが魔導師だと知る前は見下していたのだから。

(この国の在り方が変えなくては、どんな立場になっても何も変わらないのかもしれない……)

 スラムの教会で子ども達を見たときも、そう思った。

 けれどあのときと違い、今度は貴族の女性が関わっている。

 しかも彼女は、エーリヒの素性を詳しく知っているようだ。

 深く踏み込むには、危険すぎる。

「クロエ」

 ふと名前を呼ばれて顔を上げると、いつの間か家に着いていた。

「あ……」

「家の中に入ろう」

 そう促されて、素直に従う。

 馴染んだ家に戻ってくると、ほっとした。

 ソファーに深く座り込んだクロエの肩を、隣に座ったエーリヒが抱き寄せる。

「あの貴族の女性の話、エーリヒには聞こえた?」

 甘えるように身を寄せながら訪ねると、彼は頷いた。

「ああ、少しだけ。クロエを養女として迎えたいと言った貴族と、関わりがあるような口調だった」

「……それだけじゃないわ。彼女は、エーリヒのことを王女のお気に入りと言っていたの」

 そこまでは、彼の耳に届いていなかったようだ。

 王女の名を聞いた途端、身体を強張らせるエーリヒに、クロエは静かに寄り添った。

 クロエも元婚約者を思い出させる若い男性に苦手意識を持っているが、前世の記憶が蘇ってからは、トラウマと呼ぶほどではなくなっている。

 けれどエーリヒは、若い女性全般を嫌悪しているし、王女の名前を書くだけで表情を曇らせる。

 エーリヒを落ち着かせるように、クロエはしばらく彼の傍に寄り添っていた。

「クロエは、これからどうしたい?」

 やがてエーリヒが口を開いた。

 そう聞かれて、思案する。

「そうね……」

 今まで、想定外のことばかり起こっている。

 元婚約者や父は、クロエのことなどきっと探そうともしない。そう思って、さっさと王都を脱出するつもりだった。

 けれどクロエが思っていたよりもずっと、王都の人の出入りは厳重に管理されていた。

 何か思惑がありそうだが、父が自分を探していたことにも、驚いた。

 だから別人になろうとして、移民のクロエとして暮らすことにした。

 魔法を実践してみたくて魔法ギルドに登録したのに、変な絡み方をしてくるギルド員のサージェのせいで、ギルドに必要以上に近寄る気になれず、ただ魔石を作って納品しているだけだ。

 魔法の練習は、結局できないまま。

 しかも、今度はその魔石のせいで、貴族の女性に目を付けられてしまった。

「こうして考えてみると、なかなか前途多難だよね」

 エーリヒと一緒だったからあまり悲壮感はなかったが、よくよく考えてみれば順調とは言い難い状況だ。

「これから……。どうしたらいいのかな」

 クロエは考えを巡らせる。

 あの貴族の女性は、魔石が作れる移民の女性を探している様子だった。

 かなり力を抑えたつもりだが、質の良い魔石を大量に広めすぎたのかもしれない。

 今さらかもしれないが、これ以上は危険だ。

「魔石は当分、作らないようにしようと思うの。えっと、急に作れなくなることって、ある?」

 そう尋ねると、エーリヒはクロエの肩を抱いたまま答えてくれた。

「そうだな。魔力の使い過ぎで一時的に使えなくなることはあるが、休めば回復する。あとは、無理をしすぎて身体を壊して、魔力が減ってしまう場合か。その場合は、戻らないことが多いようだ」

「……それでいくわ」

 思えば、かなりの数の魔石を、求められるまま納品してしまった。

 でもそれは、エーリヒと結婚したいために、かなり無理をして作っていたことにしようと思っている。

 そして目標を達成できそうなタイミングで、無理をしすぎてもう魔石が作れないと告げる。

「そうすれば、向こうはもう、魔石が作れない移民の女には興味がないと思うの。もしそれでも強引に面会させようとするなら、ギルドを辞めてもいい」

 それくらいの気持ちだと言うと、エーリヒはさすがに驚いたようだ。

「冒険者になりたかったのに、いいのか?」

「うん。もういいの。この国では、冒険者ギルドでさえ、自由ではないと気が付いたから」

 クロエは、迷いなく頷いた。

 前世の記憶から、冒険者というのは自由なイメージがあったけれど、この国ではそんな自由は得られない。

 それどころか、今のままでは危険の方が大きいだろう。

「わかった。それがクロエの望みなら。だが、依頼を受けてしまった分はどうする?」

「そうね……」

 クロエは視線を動かして、部屋の片隅に置かれている魔石を見つめた。

 今日、新しい依頼を受けたばかりだ。

「それは、最後に頑張って作ったことにして……。ううん、違約金を支払って断ったほうがいいかもしれない」

 それも、今すぐに違約金を支払って断るよりも、少しずつ納品し、納期に間に合わなくなってから仕方なく支払う方が、信憑性が増すのではないか。

 そう言うと、エーリヒも同意してくれた。

「わかった。少しずつ納品しながら、クロエの体調が悪くて、もしかしたら間に合わないかもしれないと言っておくことにする」

 今まで魔石を売った分で蓄えはできているし、最初に宝石を売ったお金もまだある。

 ここは、家に引きこもった方がいい。

「体調を崩して寝込んでいることにすれば、無理に面会をしろとは言われないと思う。それでも言われたら、ギルド脱退しかないわね」

 結婚は遠ざかってしまうが、今はエーリヒの身の安全の方が大切だった。

「……そうだな。クロエの身の安全が第一だ。魔石は明日から、少しずつ納品していく。新規の仕事は断るよ」

「うん、お願いね」

 クロエはしばらく外出もせず、家でおとなしくしていることになる。

 本当はエーリヒにもギルドに行ってほしくないが、さすがにふたりが一緒に休むと不自然だ。

 エーリヒは今まで通りギルドに通い、依頼を受けることになった。

「気を付けてね。もし危ないことがあったら、すぐに戻ってきて」

 この家にさえ戻ってきてくれたら、クロエがエーリヒを守れる。

「ああ、わかった。そうするよ」

 エーリヒがすぐに頷いてくれたことに、深く安堵する。

 約束してくれたように、エーリヒはクロエの心配を軽く考えたりせずに、ちゃんと考えてくれる。

 それがとても嬉しい。

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