第36話
予定ではギルドを訪ねたあとに、スラムの教会を訪ねる予定だった。
流行り病も落ち着いてきたので、一度、子どもたちの様子を見に行きたいと思ったのだ。
エーリヒは、危険だからとクロエがスラムに行くことにあまり良い顔はしなかったが、それでも最後にはクロエの意志を優先させてくれた。
「どうする?」
けれどギルドでの出来事のせいで感情が昂ぶり、落ち着かない様子のクロエに、エーリヒは優しくそう尋ねる。
「……行くわ。差し入れも持ってきたし、渡さないで帰るのは嫌だもの」
「わかった。じゃあ、行こうか」
手を差し伸べられて、しっかりと握る。
隣を歩くエーリヒは何だか楽しそうで、クロエもつられて笑顔になった。
(そうね。嫌な人のことなんて、忘れるのが一番だよね)
せっかくエーリヒと町を歩いているのだから、楽しまなければ損だ。
そう思って顔を上げると、穏やかな微笑みを浮かべたエーリヒを見てしまい、思わず息を止める。
(な、なんて破壊力……)
エーリヒは、クロエとふたりきりのときはもちろん笑ってくれるが、他人がいる場所では、無表情か、不機嫌な顔をしていることが多い。
それが整った容貌をますます人形めいたものに見せていて、近寄り難い印象があった。
でも今は違う。
淡く微笑み、しあわせそうに目を細めた様子は、途轍もない破壊力である。すれ違った女性が、頬を染めて振り返る。
クロエは思わずエーリヒの腕を掴み、ぐいっと引っ張った。
そんな笑顔は、王女や彼の異母姉はもちろん、その辺を歩く人にだって見せたくない。
「どうした?」
そんなエーリヒは周囲の視線などまったく気が付いていないようで、不思議そうに首を傾げる。それがまた絵になるから、質が悪い。
「何だかエーリヒが嬉しそうだなって」
「うん。俺も、こんなに浮かれるとは思わなかった」
そう言うと、腕に掴まっていたクロエを抱き寄せる。
「クロエが俺のことを心配してくれて、すごく嬉しかったから」
エーリヒの、幸せそうな顔に何だか切なくなる。
心配は、ときには疎ましく思われることもある。人によっては余計なお世話だと感じ、怒りを覚える者もいるだろう。
それなのにエーリヒは、クロエの心配が嬉しくて仕方なくて、こんなに輝かしい顔で笑っている。
「大事な人を心配するのは、当然だから」
思わずそう言ってしまい、はっとする。
エーリヒは、昔から自分のことを気遣い、心配してくれたのはクロエだけだったと語っていた。
だから今の言葉は、他の誰もエーリヒを大切に思っていなかったと言ってしまったようなものではないか。
「ご、ごめんなさい。ただ、私は」
謝罪の言葉を口にするクロエが、どうして慌てているのかわかったらしく、エーリヒは笑った。
「そんなこと、気にしなくていいよ。俺にはクロエがいてくれたら、それでいいんだから」
「……そうね。考えてみたら、私にもエーリヒだけだわ」
家族にも婚約者にも捨てられ、エーリヒと一緒に逃げてきたのだ。クロエに残されているのも、彼だけだ。
それを告げると、エーリヒはますます嬉しそうに、クロエの手を取って歩き出す。
まるで恋人同士のデートのようだが、目的地はスラムにある教会だ。
そこに住み着いたトリッドという冒険者が、親のいない子ども達の面倒を見ている。緊急依頼で教会の存在を知ったクロエは、それからずっとその子達のことが気になっていた。
だから一度、差し入れを持って会いに行こうと思っていたのだ。
スラムの人間の中には、クロエの姿を見るとにやついた顔で近寄る男もいた。
けれどエーリヒの鋭い視線にたじろぎ、声を掛ける前に逃げていく者が多い。
スラムという生存競争の激しい世界で生きている彼らは、敵わない相手だとすぐにわかったのだろう。
そうやってエーリヒがしっかりと守ってくれたお陰で、トラブルもなく教会に辿り着くことができた。
(でも以前は、こんなこともなかったのよね。あれは、やっぱり流行り病のせいだったのかな?)
恐ろしい病が流行していたのだから、彼らも他者を脅す余裕もなかったのかもしれない。
そう思いながら、教会に辿り着く。
以前の訪問では流行り病に冒されて寝込んでいた子ども達が、今は頑丈な柵に囲まれた安全な庭で、走り回って遊んでいる。
あの柵は、侵入者から子ども達を守るために、元冒険者の男が作ったのだろう。
その子ども達の笑顔に、ついクロエの頬も緩む。
さっそく教会に向かおうとしたが、エーリヒに止められた。
「エーリヒ?」
「クロエ、隠れて。先客がいるようだ」
「え?」
先客がいても、別にかまわないのではないか。
そう言おうとしたクロエは、エーリヒが指す先にいた人物を見て、咄嗟に建物の影に身を隠した。
後ろを向いているので顔まではっきりとわからないが、複数の護衛を連れた若い女性のようだ。
輝くばかりの金色の髪といい、白い肌といい、間違いなく貴族の令嬢だろう。彼女は元冒険者だったという男と、親しげに話をしていた。
「ありがとう。あなたの情報のお陰で、彼女を見つけることができたわ」
顔は見えないが、声ははっきりと聞こえる。
美しく、透き通るような声だ。
「いえ、お役に立てて何よりです。お探しの魔石を作れる移民の女性が、予定通りに依頼を受けてここに来てくれて幸運でした」
(え……)
魔石を作れる移民の女性。
それが間違いなく自分のことだとわかって、クロエはびくりと身体を震わせた。
ふたりは、そのクロエがここにいることも知らずに会話を続けている。
「養女にしたいって申し出てもらったけれど、きっと無理でしょうね。でも、いいわ。一度でも会えたら、きっと何とかなるから」
まさか彼が、クロエのことをこの貴族の女性に報告していたとは思わなかった。
そしてあの養女の話には、この女性が関わっているらしい
(何が目的なの?)
注意深く彼女の後ろ姿を見つめていたクロエの耳に、恐ろしい言葉が聞こえてきた。
「あの我儘王女のお気に入りの騎士も一緒に見つかるなんて、運が良かったわ。あの人のために、ふたりとも手に入れてみせる」
気が付けばクロエは、エーリヒの手を引いて走り出していた。
エーリヒは何度か足を止めようとしたが、それでも嫌がるように首を横に振り、手を強く引っ張ると、付いてきてくれた。
スラムを駆け抜け、いつもの街並みに戻ると、ようやくクロエも足を止める。
まさかトリッドが、自分達のことを報告していたとは思わなかった。
養女の話を聞かされたとき、そのまま面会の約束をしていなくてよかったと、胸を撫でおろす。
あの人の話を聞かないギルド員も、たまには役に立つようだ。
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