第33話
日中なのに薄暗いのは、日当たりが悪いからだろう。
高い城壁は、平等に降り注ぐはずの太陽の光さえ遮っている。
湿った路地に、人が座り込んでいるのが見えた。暗い目をした彼らは、ほとんど移民のようだが、中にはこの国の者もいるようだ。
そんな中、エーリヒは目立つ容貌を隠そうともせず、堂々と歩いていた。
治療薬を奪って売り捌こうとしていた者達も、生きるために略奪行為をしている。適わない相手には、最初から立ち向かおうとしないのだろう。
銀髪の元騎士は、優美な外見に似合わずなかなか腕が立つと、噂になっているようだ。
だから危険な目に合うこともなく、無事に目的地に到着することができた。
(でも……)
スラムで生きる人たちの姿は、クロエの心に暗い影を落とした。
エーリヒに守られて辿り着いた教会は、廃屋のような朽ちた建物だった。
けれど修繕の跡が至る所に見受けられ、洗濯物が干してあったりして、生活感がある。
治療薬を持って訪ねると、中から大柄の男が顔を出した。
「ああ、薬を届けてくれたのか。ありがたい」
男はそう言って、薬を受け取り、受領のサインをしてくれた。
これで依頼は完了である。
思っていたよりも簡単に依頼を果たすことができて、ほっとする。
この教会で子ども達の面倒を見ているという男は、黒髪に褐色の肌をしているので、移民なのだろう。
事前にエーリヒがある程度、依頼主について調べてくれていた。
それによると、彼は教会に住んでいるが神父ではなく、もともとは冒険者だったようだ。
移民だというだけで、同じ仕事をしてもまともな報酬が貰えず、そのせいで生活に困ってスラムに住むようになったらしい。
そこで劣悪な環境で暮らす子ども達のことが気になって、廃屋になっていた教会を修繕し、そこに子ども達を集めて面倒を見ていた。
もともと腕の立つ男だったので、子どもを狙った犯罪から守ることもできているようだ。
「俺がここを離れると、子ども達が危険なもんでね。だが、治療薬をわざわざスラムにまで届けに来てくれる奴なんかいないと思っていた。報酬もほんの僅かだったのに悪かったな」
「緊急依頼だったから、報酬目当てではない。気にするな」
エーリヒの答えに、男は意外そうな顔をした。
「へえ、緊急依頼にしてもらえたのか。ギルドの人間は、スラムの人間なんていくら死んでも、まったく気にしないと思っていたよ」
そう言う男の顔には、嫌悪が滲んでいる。スラムに流れ着いた経緯を考えると、それも無理はないのかもしれない。
クロエも初めて魔法ギルドに足を踏み入れたとき、蔑むような目で見られたことを思い出す。
「あのギルド員は移民だったから、その辺りは気にかけているのではないか?」
「いや、それはない」
即座にエーリヒの言葉を否定して、男は顔をしかめた。
「サージェのことだろう? あいつは自分が苦しんでいたのに、立場が変わると平気で他を差別するような男だ」
「たしかに、そんな感じだわ」
クロエが同意して深く頷くと、エーリヒはふたりの答えに困ったように笑っていた。
トリッドと名乗ったその男は、クロエの姿を見て、自分と同じだと親近感を抱いてくれたようだ。
「緊急依頼を受けるってことは、あんたらも訳ありなんだろう? 今回のことで借りができた。何か困ったことがあったら言ってくれ」
「ありがとう」
スラムに女性連れで長居するのは危険だからと言われて、ふたりは治療薬を渡したあと、すぐに教会を出ることにした。
「子どもがたくさんいたみたいね」
振り返り、そう呟いたクロエに、エーリヒも頷く。
姿は見ていないが、大勢の気配がこちらを伺っていたし、洗濯物も子どものものばかりだった。
「そうだな。彼に救われた子どもは多いだろう」
「……手伝いをした方がよかったのかしら」
思わず立ち止まってしまったのは、子ども達のために、もっと何かできたのではないかと思ったからだ。
クロエは病気にならない体質なのだから、病気になった子どもの世話も可能だった。
「いや、スラムの子ども達は外部の人間を信用しない。きっと警戒して、姿も見せてくれないだろう」
けれどエーリヒにそう言われてしまえば、諦めて帰るしかなかった。
それにクロエは平気でも、エーリヒが病気になってしまったら大変だ。
すぐにギルドに戻り、依頼の達成を報告することにした。
「よく無事に帰ってきたな。これで緊急依頼も達成したし、国籍獲得も間近だろう」
馴染みのギルド員はそう言ってくれた。
「でも、緊急依頼なのに、随分簡単に終わってしまったわ」
「簡単ではないよ。スラムに足を踏み入れて、無事に戻ってくれたんだから」
スラムは恐ろしい場所だと、ギルド員は繰り返し語る。
居合わせた冒険者も、スラムに行ってきたと知ると、驚いたような視線を向けてきた。
危険など何もなかった。
むしろ子どもと、その子どもたちを守る男に会っただけだ。
運が良かったのかもしれない。
家に戻ったクロエは、気分を変えたくて、お気に入りの紅茶を淹れる。
エーリヒにも差し出してから、ソファーに座ってぽつりと呟く。
「何か、変な感じだわ」
そう呟くと、エーリヒも同意して頷いた。
「一度、依頼でスラムに行ったことがある。そのときは、もっと殺伐としていた」
考えられるとしたら、姿を隠さなかったことかもしれないと、エーリヒは語る。
「俺は見た目だけなら、貴族に見えるからね。この国には、貴族に逆らう者はいない」
スラム街に住み、他人を襲うことに慣れたような者でも、貴族には近寄らない。
報復が恐ろしいからだ。
貴族を怒らせたら、スラムなど簡単に焼き払われる。
「無関係な人たちがどれほどたくさん住んでいようが、この国の人間ではない移民やスラムに住んでいるような者は、どう扱っても構わない。この国の貴族は皆、そう思っているだろう」
「そんな……」
父親に支配されていたとはいえ、クロエもまた、この国の貴族だったのだ。
(私も、そんなふうに思っていたのかな……)
前世の記憶が蘇る前のことを思い出そうとしてみても、記憶はひどく曖昧だった。
「クロエ、大丈夫か?」
ふと、頬に温かい手が触れた。
クロエが落ち込んだ様子を見せたからか、エーリヒは心配してくれたようだ。
「色々と教えてくれてありがとう。クロエは世間知らずで何も知らないから、とても助かっているわ。ただ……」
クロエは、エーリヒを見上げる。
「スラムに暮らしている人達を見てあらためて、この国はあまり良い国じゃないなぁと思っていたの」
「うん。そうだね」
エーリヒは静かに相槌を打ってくれる。
「たしかに、クロエの言う通りだ」
それに励まされて、クロエは言葉を続けた。
「だから、早くこの国を出て自由に暮らしたいって思っていた。でも、この国にはスラムの子ども達のように、逃げ出せない人もたくさんいる。私だけ自由に暮らすことに、何だか罪悪感を持ってしまって」
まして、クロエはあの子ども達を救うだけの力があるのだ。
魔女という力を隠していても、魔力を持つ魔導師として、弱い立場の人達を守るために戦うことはできる。
それなのに、救えるはずの人達を捨てて自分だけ幸福になってもいいのかと考えてしまうのだ。
それを訴えると、エーリヒはクロエの頬をそっと撫でた。
「本当にクロエは優しいね。その優しさは素晴らしいものだと思うよ」
「すべての人達を救いたいなんて、傲慢な考えだってわかっているの。でも、どうしても考えてしまって」
「クロエにこの国を変えるだけの力があるのもたしかだ。でもあんな人達でも、傷つけたらクロエが苦しむのではないかと思うと心配だ」
この国を変えようとしたとき、戦わなくてはならないのは、元婚約者や父。そして国王陛下を始めとした、国の重鎮達だ。
クロエが苦しむかもしれないから、心配だと言われてしまえば、まだそこまでの覚悟が決まっていないクロエは悩んでしまう。
それに彼らと戦うということは、エーリヒと王女が再び出会ってしまう確率も高くなるということだ。
「この国を出るまでには、もう少し時間が掛かる。一緒に、ゆっくりと考えていこう」
「……うん」
ただ反対するのではなく、一緒に考えていこうと言ってくれたエーリヒの言葉を重く捉えて、クロエは静かに頷いた。
これは、自分だけの問題ではない。
もしクロエが戦うと決めたら、エーリヒは必ずクロエと一緒に戦ってくれる。でも、それは平穏な人生を諦めるということだ。
(もう私だけの問題、私だけの人生ではないわ。思いつきで行動せずに、しっかりと考えないと)
エーリヒの肩に寄りかかり、クロエはそう考えながらゆっくりと目を閉じた。
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