第31話

「エーリヒに、話さなくてはいけないことがあるの」

 ふたりの家に戻ったあと、クロエはそう切り出した。

 勢いとはいえ、結婚の話まで出したのだから、さすがに話さないわけにはいかなかいだろう。

 結婚の話をしてからずっと上機嫌なエーリヒは、クロエの改まった声に不思議そうに首を傾げる。

「俺に?」

「うん。私の愛はふたり分だって言ったでしょう?」

 不安を押し隠し、わざと明るくそう言うと、エーリヒは頷いた。

「それだけ愛してくれているのかなと思っていたけど、違う意味があった?」

「ええと……」

 いざ話すとなると緊張する。

 拒絶されたらと思うと、少し怖かった。

 そんなクロエの手を、エーリヒは優しく握りしめる。

「なんでも聞くよ。クロエのことなら、どんなことでも知りたい」

「……すごく、変な話で。信じられないかもしれない」

「クロエの言葉なら信じるよ」

 そんな優しい言葉にも、まだ決心がつかなかった。

 エーリヒに嫌われてしまうかもしれない。

 それがこんなにも怖い。

「もしかしたら、私のことが嫌いになってしまうかもしれないわ」

「それだけはない」

「私が、クロエじゃなくても?」

 思い切ってそう言うと、エーリヒは少し驚いた様子を見せたものの、クロエを気遣うように優しく言った。

「もしかして、クロエに昔の記憶がないことか?」

「え……」

「俺はずっと前からクロエを見ていたんだ。昔と少し違うと、わかっていた」

 まさかエーリヒが、そのことに気が付いていたなんて思わなかった。

 クロエは動揺して、視線を彷徨わせる。

「座って話そうか」

 エーリヒはそんなクロエの手を引いて応接間まで行くと、ソファーに座らせて自分も隣に座った。

「クロエが記憶をなくしたのは、キリフに婚約破棄をされたときで間違いない?」

「……うん。そうね」

 たしかに彼の言うように、前世の記憶が蘇ったのはあの瞬間だ。

 こくりと頷くと、それを見たエーリヒの瞳に、昏い色が宿る。

「クロエが絶望した顔で座り込んでいるところを見たとき、あの男を殺そうと思った。そうすればクロエは、あの男から解放される。王女に囚われていた俺がクロエのためにできるのは、もうそれしかないと思っていた」

 そのときの怒りを思い出したのか、エーリヒの顔が険しくなる。

「そんな……」

 エーリヒは、クロエが婚約破棄された場面を見ていた。

 その話は再会したときに彼から聞いていたが、まさかクロエのためにキリフを殺そうと決意していたなんて思わなかった。

「でもクロエは自分で逃げ出していた。だからあの男を殺すよりも、追いかけてクロエを守ることを選んだ」

 それを聞いて、あのとき逃げ出すことを選んでよかったと、心からそう思う。

 もしクロエが動けずにそのまま晒し者になっていたら、エーリヒは迷わずキリフを手にかけていたに違いない。

 あれでも第二王子だ。

 しかもエーリヒは王女が嫁ぐための障害になると思われていたようだから、下手したらその場で切り捨てられていた。

 そして以前のクロエなら、きっとそんな状況に耐えられずに、間違いなくエーリヒの後を追っていた。

 もしかしたらそれは、クロエが前世を思い出さなかったら、訪れていた未来だったかもしれない。

「……本当に、逃げてよかった」

「そうだね。まさかふたりで、こんなふうに一緒に暮らせるなんて、思ってもみなかった」

 幸せそうに、エーリヒは笑う。

 今まで自由などなかった彼が、こうしてクロエの隣で笑ってくれることが嬉しかった。

「一緒に暮らすようになって、クロエは昔と少し違っているように見えた。だから婚約破棄のショックで記憶を失い、代わりに魔力に目覚めたのではないかと思っていた。クロエの話したいことは、これだった?」

 そう尋ねられ、覚悟を決めて頷く。

「うん。大体はそう。ただ、もう少し話したいことがあって」

 クロエのために命まで賭けようとしてくれた彼に、これ以上黙っていることはできない。

「実はあのとき、私は前世の記憶を思い出したの」

「前世?」

 その答えは想像もしていなかったようで、エーリヒは驚いたように聞き返した。

「そう。私の前世は、こことは違う世界で生きていた人間だったの。その世界では女性も自立してひとりで働いているし、結婚しない人も普通にいたわ。そのときの価値観が混じってしまって、以前のクロエとは違う感じになってしまったのかもしれない」

「違う世界……。もしかしてクロエが作ってくれた料理って、その世界のものだったりする?」

「そう。私の故郷の味だったの。思い出したら懐かしくなって……。だから今の私は、エーリヒが愛してくれたクロエとは、少し違うかもしれない」

 拒絶されるかもしれない恐怖を乗り越えて、ようやく打ち明ける。

「こんな話、信じてくれる?」

「クロエ」

 エーリヒは、そんなクロエの名を優しく呼んだ。

「もちろん信じるよ。それに、心配しなくてもどちらもクロエだ。その本質は変わらない」

「……本当に?」

「ああ。ずっとクロエを見てきたと言っただろう? もし本当に別人になってしまったら、俺にはわかる」

 ずっと不安だった。

 本当の自分はどちらなのか。

 ただ『橘美紗』がクロエに憑依しているだけなのか。

 いつかクロエが目覚めたら、自分は消えてしまうのではないかとまで、考えた。

 でもエーリヒがそう言ってくれるなら、それは真実だと信じられる。

 今の自分はクロエだと、胸を張って言うことができた。

「うん」

 涙を浮かべて頷いたクロエを、エーリヒは腕の中に抱き寄せた。

「ふたり分ってことは、今のクロエも俺を愛してくれていると思ってもいい?」

 真剣な顔でそう尋ねられて、頷いた。

「もちろんよ。むしろ昔のクロエは憧れの気持ちの方が強かったから、私の方があなたを愛しているわ」

 昔の自分に負けるわけにはいかないと、きっぱりとそう告げる。

「俺も、昔は恩人のお嬢様って思いが強かったが、今は俺のクロエだと思っているよ」

 エーリヒもそう言ってくれた。

 すべてを打ち明けて、もう隠し事は何もない。

 まだ昔の自分の記憶は鮮やかに残っているけれど、この世界でクロエとして、エーリヒと生きていく。

 そう決意した日だった。

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