第25話
不思議そうに首を傾げるクロエに、エーリヒは過去を懐かしむように告げる。
「昔から優しかった。よく俺のことを気にかけてくれたから」
「エーリヒのことを?」
クロエの過去は、あやふやにしか覚えていない。
そんなことがあっただろうかと、首を傾げる。
「ああ。俺がまだ見習い騎士だった頃の話だ。異母姉が結婚するからって騎士団に放り込まれたけど、昔は結構軟弱だったからよく死にかけていた。似たような境遇の者ばかりだったから、訓練と称して憂さ晴らしに殴られることも多かった。侯爵家のお嬢様が……。クロエが助けてくれなかったら、本当に死んでいたかもしれない」
過去を思い出すように目を細めて、エーリヒは語る。
「怖くて震えていたのに、俺の手当をしてくれて。これ以上殴られないように、傍にいてくれた」
王女から逃げ出すために、クロエの逃亡に便乗した。
そう言った彼の言葉は嘘ではないのだろう。
だが他人から見れば凄惨な過去を、まるで大切な思い出のように話す様子から考えると、それ以上の想いが込められているのは明白だった。
エーリヒはクロエだからこそ逃亡の旅に同行し、世間知らずなクロエが騙されないように、つらい目に合わないようにと守ってくれたのだ。
昔、助けてもらったというメルティガル侯爵令嬢のクロエのために。
もしかしたら、好意を持ってくれているのかもしれない。
あれほど女性を嫌悪しているエーリヒが、クロエにだけは、自然に笑顔を見せてくれる。
ふざけるように、そしてこれは演技だと言いながらクロエを抱きしめる腕が、いつだって拒絶を恐れて緊張していることに気が付いていた。
クロエだって相手がエーリヒでなければ、同じ家に住むことはもちろん、一緒に旅をすることだって考えられなかっただろう。
まして、同じベッドで寝たりしない。
(でも……)
好意を持っている相手が同じ気持ちであるとわかっても、素直に喜べない。
エーリヒがクロエに好意を持って大切にしてくれるのは、見習い騎士だった頃の彼を助けたからだ。
だが、その記憶が今のクロエにはなかった。
前世を思い出してから、『橘美沙』としての記憶が強くなっている。
もちろんクロエも自分だという認識はあるが、過去のことはほとんど覚えていなかった。
エーリヒが大切に思い、守ろうとしているのは今のクロエではない。
前世の記憶がなかった頃の、気弱で優しい『クロエ』。
(どうしよう……。私は……)
記憶がはっきりとしていないせいで、彼が言っているのは間違いなく自分のことなのに、エーリヒを騙しているような感覚に陥ってしまう。
「クロエ?」
「……嫌っ」
そんなことを考えていたせいで、差し出された手を思わず振り払ってしまった。エーリヒの顔が強張るのを見て、罪悪感が沸き起こる。
「ごめんなさい。昔のことを考えたら、お父様やキリフ殿下のことまで思い出してしまって」
「……そうか。クロエにとってはつらい過去だ。それなのに思い出させるようなことを言ってすまなかった」
エーリヒが謝る必要なんてなかった。
クロエはもう、父のこともキリフのことも恐ろしいとは思っていない。
彼らの考えが偏った歪なものだと理解しているし、逃げる力だってある。
だから自分にとって大切な思い出が、相手にとってはつらい過去の話だと気が付いて、寂しさを隠して謝罪する必要なんてまったくないのに。
「それで、これからどうする?」
さりげなくクロエから離れて、エーリヒは今までの話などなかったように、明るく言う。
「これからって?」
「クロエは魔石が作れるから、それだけでギルドでの評価は上がっていく。納品は俺がするから、無理にギルドに行く必要もない」
怖がっていると思って気遣ってくれる言葉を、否定することもできなくて、頷くしかなかった。
「うん。当分はそうするわ。お願いしてもいい?」
以前のクロエなら、きっとそうする。
そう思って、エーリヒに任せることにした。
「もちろんだ。そのためにクロエの魔力をギルドで登録をしたんだから」
「ありがとう。エーリヒはどうするの?」
「俺は依頼を受けて果たさないとランクを上げることはできないから、それなりに頑張るよ」
王都は城壁に守られていて、規模はかなり大きい。
王都から出なくても果たせる依頼は多いようだ。
地下道には魔物も出るという。
王都の出入りが厳しく制限されているのは、もともとこの国にも奴隷がいたことが理由だった。奴隷の王都からの脱走を防ぐために、故意に魔物を放ったらしい。
(奴隷……)
クロエの記憶を辿ってみると、この世界で奴隷制度というものが禁止されたのが、今から百年程前。
最後まで奴隷の制度が残っていたのが、この国である。
地下道にいる魔物が駆逐されることなく、そのまま放置されているのは、犯罪者などの逃亡を防ぐためらしい。その数が増えて危険な状態になると、ギルドに討伐を依頼するようだ。
エーリヒは、そういう依頼も受けていくと言う。
「私にもできるようなものはあった?」
そう尋ねると彼は少し考えたあと、薬草採取なら、と答える。
「薬草って、王都内でも採取できるの?」
「東側に広い公園がある。そこに生えているらしいよ」
探す範囲が広いわりに報酬があまり良くないので、引き受ける者は少ないようだ。でも天気の良い日にお弁当を持って行けば、それなりに楽しそうである。そう伝えると、エーリヒも同意するように頷いた。
「そうだな。今度ふたりで受けてみようか」
夕食の後片付けをしたあとは、それぞれ思い思いに過ごす。
用があるから先に寝ているように言われて、クロエはおとなしく寝室に向かった。
彼が来るまで待つつもりで魔法の本を広げていたはずが、いつのまにか眠ってしまったようだ。
ふと寒さを感じて目を覚ますと、もう深夜のようだ。
「エーリヒ?」
隣に眠っているはずの彼の姿がない。
(もしかして……)
ショールを巻き付けて応接間に向かうと、予想した通り、エーリヒはソファーで寝ていた。クロエが怖がる素振りを見せたので、気遣ってくれたのだろう。
「……ごめんなさい」
眠っているエーリヒに、小さく呟く。
あのときは罪悪感から振り払ってしまっただけで、彼のことを怖いと思ったことは一度もない。
それは以前のクロエも同じである。
それなのに少し拒絶してしまっただけで、こんなにも気遣ってくれている。
(あのベッド、気に入っているって言っていたのに)
クロエは寝室に戻ると毛布だけを持ってきて、ソファーの下に座った。
そのまま床に転がって目を閉じる。
自分だけベッドに眠るつもりはなかった。
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