第29話
たしかに彼の言うように、もしエーリヒが王女に執着されていなかったら、もっと早くふたりで逃げ出せたかもしれない。
でもクロエは魔女の力に目覚めていなかった。
キリフとも婚約したままで、王族の婚約者を連れ去ったエーリヒは、誘拐犯として追われることになっていた。
ふたりで力を尽くせば逃げられたかもしれないが、過酷な旅になるのは間違いない。
だから。
「私は今でよかったと思うわ。だって以前の私なら、もしエーリヒが傷ついても何もできなかったわ。そんなのは嫌よ」
どんなに傷ついても、エーリヒはクロエのために戦うだろう。それを黙って見ているだけなんて、耐えられない。彼を助けようとして、自分から父の元に戻っていたかもしれない。
「これからもずっとふたりで幸せに生きるためには、今が一番良かったの」
そう告げると、エーリヒは感極まったようにクロエを抱きしめた。
「ああ、もちろんだ。ふたりで幸せになろう」
「……ま、待って。ここ、町の中……」
エーリヒの銀髪も、見惚れるほどの美貌も、ただでさえ町で目立ちすぎるのに、そんな彼に道の真ん中でしっかりと抱きしめられている。
周囲の視線が集まっているのを感じて、思わず頬が染まる。
「ねえ、エーリヒ……」
何とか腕から逃れようとすると、逃がさないとでも言うように、ますます強く抱きしめられる。
力強い抱擁は、少し苦しいくらいだ。
「……エーリヒ?」
人前ではなるべくやめてほしい。
何せこちらは、シャイで内気な元日本人である。
そう言おうとしたクロエは、エーリヒが切なそうな、悲しみを押し殺しているかのような顔をしていることに気が付いて、言葉を失う。
「クロエ。愛している」
耳元でそう囁かれて、目を見開いた。
これも演技なのかと、聞くことができないほど真摯な声。
驚きのあまり声も出せずにいると、エーリヒはふと力を抜いて、クロエを手放した。
「……なんてね」
寂しげな笑顔を浮かべて離れようとする彼を、今度はクロエから力一杯抱きしめる。
「クロエ?」
「私もエーリヒのことが好きよ」
ここできちんと自分の気持ちを伝えないと、エーリヒはもう二度と愛を伝えてくれないだろう。それがわかったから、クロエも素直にそう告げる。
ここで恥ずかしいなんて言っていられない。
思い出すのは、幼い頃の記憶。
まず「クロエ」が、騎士見習いだったエーリヒに恋をした。
たしかに一目見たら忘れられないほど綺麗な少年だったけれど、惹かれたのは外見ではない。父にも兄にも逆らえずに気弱だったクロエは、訓練と称してどんなに殴られても、けっして折れない彼の強い心に惹かれたのだ。
そして「橘美沙」として、一緒に暮らすようになったエーリヒに恋をした。
彼はクロエとして生きていたときに負った心の傷を少しずつ癒してくれた。
自分に自信のなかったクロエを綺麗だと、あんな奴らには勿体ないと言ってくれた。
やりたいことは何でもやろうと、今までの人生を取り戻す手伝いをしてくれた。
それに加えてあんなに大切に、かけがえのない宝物のように扱われてしまったら、恋をしないはずがない。
クロエには婚約者がいて、エーリヒは魔女に囚われていたから、ずっと伝えられなかった。
「好きだったのよ。もう、ずっと前から」
その言葉を聞いたエーリヒは息を呑み、それから彼の顔も見慣れてきたクロエでさえ見惚れるほど綺麗な顔で、嬉しそうに笑った。
それを見て、クロエの胸にも言いようのない幸福感が満ちる。
「クロエ、本当に?」
「ええ。演技だなんて言わないわ」
そう言うと、今までさんざん演技だ、そういう設定だと言ってきたことを思い出したのか、少し気まずそうに視線を逸らす。
言葉にして伝えたら気持ちがさらに大きくなったようで、そんな姿すら愛おしく思える。
「私の愛は二人分だから」
「二人?」
不思議そうなエーリヒに、こくり頷く。
「家に戻ったら話すわ」
今のクロエはエーリヒが愛した存在とは少し違ってしまったけれど、それでも彼には自分のすべてを知ってほしい。
ふと、揶揄するような声が聞こえてきて我に返った。
人通りの多い道の真ん中で抱き合っていたことを思い出して、慌ててエーリヒから離れる。
代わりに手を差し伸べられて、迷うことなく握りしめる。
「ねえ、エーリヒ。私達ってこれからどうするの?」
「これから?」
「うん。設定として恋人同士だったけど、これからはどうしたらいいのかなって」
一応、互いに想いを告げたのだから、設定ではなく本物の恋人同士になれるのではないか。そんな期待を込めた言葉だった。
「それはもちろん、夫婦で」
「はっ?」
けれどエーリヒの答えは、クロエの想像よりもさらに上だった。
「夫婦? 結婚していないよ?」
「ああ、そうか。まだできないのか。じゃあ、ギルドで出世して永住権を得たら、すぐに結婚する予定の婚約者かな」
そう言って、嬉しそうに笑う。
「婚約者」
その言葉でふと、元婚約者の顔が浮かんでしまった。
クロエの人格などまったく認めてくれない、高圧的な言葉と視線。
ただ怯えて従っているだけの日々を思い出してしまう。
「クロエ」
ふと優しく名前を呼ばれて、我に返る。
「クロエの婚約者は、もう俺だから」
絶対に守るという強い意志と、過去を気遣う優しい色をその瞳に宿して、エーリヒがきっぱりと宣言する。
「……うん」
繋いだ手に力を込めて、クロエも心の中で誓う。
(あの王女には、絶対に渡さないわ)
きっとこのままでは終わらない。王女はまだ、エーリヒに執着している。
いつか彼女と対決する日が来るかもしれない。
クロエは自らの中に封じた力を確認するように、目を閉じた。
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