第41話

 疲れているはずなのに、まったく眠れなかった。

 快適なはずのベッドは、何だか広すぎて寝心地が悪い。

 クロエは毛布を握りしめて、明日のことを考える。

(起きたらすぐにギルドに行って、迎えにきた人と会う。それから、その貴族の女性と会って……)

 手紙には、王女には渡さないと書いてあった。

 それから考えても、エーリヒのことをよく知っているのだろう。

 目的が何なのかわらないが、もし彼女がエーリヒと会わせてくれないようなら、強行突破も考えている。

(エーリヒと一緒なら、逃亡生活でもかまわない。この国を捨てて、誰も追ってこられないくらい遠くに逃げれば……)

 これから先もふたりで生きるためなら、何もかも捨ててもかまわない。

 そんなことを考えながら、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。

 前世の記憶を思い出してから、ひとりで夜を過ごしたのは初めてだ。

 当たり前のように傍にいてくれたエーリヒの存在の大きさを、あらためて思い知る。

 ひとりでは、朝食の準備をする気にもなれなかった。

 ギルドに向かうまでの時間、ただベッドの上に座って、ぼんやりと過ごす。

(この家には、もう戻れないかもしれない)

 相手がどう出るかわからないが、敵対しても共存を選んでも、もう平穏な生活は望めないだろう。

(ああ、そうだわ)

 クロエは思い立ち、衣服などの荷物はもちろん、調理器具や購入した家具まで、すべてアイテムボックスに収める。

「うん、これでいいわ」

 どこで生きることになったとしても、これでこの家のものはすべて持っていける。

 最後に、少し惜しい気持ちはあったが、お風呂を作った部屋を元通りにする。

 もしこの家に戻ってこられたら、また作ればいい。

 そうしているうちに手紙に書かれていた時間が近付いたので、クロエは身支度を整え、何もなくなった家を出た。


 ギルドの外壁は、まだ崩れたままだった。

 依頼の掲示や斡旋などは、隣にある魔法ギルドのほうで行っているようだ。事情を知らなかった冒険者たちが、驚くように半壊したギルドの建物を見つめている。

 そんな人たちをかき分けるようにして、クロエはギルドに入っていく。

 内部は、だいぶ綺麗になっている様子だった。クロエが来たことに気付いたギルド員が、奥にある部屋に案内してくれる。

 今日は、ロジェの姿はないようだ。

 個室に案内され、部屋で待っていた案内人は、クロエも知っている男だった。

「あなたは……」

 それはスラムの教会で子どもたちを保護していた、トリッドという大柄な男だった。

 黒い髪に褐色の肌をしている彼は移民である。

 けれどクロエは、スラムにいる彼のところに、あの貴族の女性が訪れた場面に遭遇している。

 だから、それほど驚きはなかった。

 貴族の女性と繋がっているのなら、ギルドに依頼などしなくとも、回復薬くらい手に入ったと思われる。

(あのスラムに行く特別依頼そのものが、私たちを観察するために用意されたものだった?)

 思い出してみれば、たしかに違和感はあった。

 エーリヒも、以前はもっと殺伐としていたと言っていた。

 彼も断れなかったのかもしれないが、それでも騙されたような気持ちになってしまう。

「エーリヒのところに案内してください」

 だからクロエは、彼が何か言うよりも先にそれだけを言い、あとは沈黙した。

「わかった。裏に馬車を待たせている」

 そんなクロエの様子に、トリッドも余計なことは口にせず、立ち上がった。

 ふたりはギルドの裏口から出て、馬車に乗り込む。

(立派な馬車……。)

 クロエの生家、メルティガル侯爵家のものよりも、立派な馬車だ。

 さりげなく視線を巡らせてみたが、紋章はなかった。

 父は騎士団長で、武官の家柄だとはいえ、メルティガル侯爵家よりも大貴族というと、エーリヒの父であるアウラー公爵家。そしてもうひとつの公爵家、マードレット公爵家くらいだ。

(……むしろ、父の命を受けているだろう騎士団が引き下がったのだから、メルティガル侯爵家よりも格上だった可能性が高い、ということね)

 だが、アウラー公爵家ではないだろう。

 エーリヒの話では、騎士団に入れられたあと、アウラー公爵家と連絡を取ったことはないらしい。

 そして、もうひとつのマードレット公爵家には、クロエと同じ年頃の令嬢がいる。

 彼女は、この国の王太子の婚約者だったはずだ。

 それほど高貴な女性ならば、騎士団も従わざるを得ないだろう。

 問題は、その女性がクロエとエーリヒに何をさせるつもりなのか、ということだ。

 彼女の目的がわからない以上、用心したほうがいい。

 無言のまま馬車は走り、やがて王城近くにある、広大な屋敷に辿り着いた。

 入口には執事らしき男性と、複数のメイドが馬車の到着を待っていた。

 エーリヒに会えるまではおとなしくしていようと、クロエは素直に馬車を降り、彼らに案内されるまま屋敷の中に入る。

 トリッドも、このまま同行するようだ。

(やっぱり、マードレット公爵家なのね)

 さりげなく周囲を見渡し、門前や止まっていた馬車の紋章を見て確信する。

 エーリヒとクロエにトリッドを通して接触しようとしていたのは、王太子の婚約者で、マードレット公爵家の令嬢、アリーシャだ。

 案内されたのは客間の一室で、そこにはクロエと同じ年頃の女性が待っていた。

 彼女が、そのアリーシャだろう。

 流れるようなカーブを描く金色の髪。白い肌。そして、青い瞳。

 しかも繊細で美しい人形のように整った容姿に、身に着けているドレスも最高級のものだ。

 貴族が絶対的存在であるこの国でも、王族に次いで身分の高い女性である。

(このひとが、この国の次期王妃になるのね……)

 王太子の異母弟であるキリフと婚約していたクロエだったが、彼女や王太子と話したことはない。ただ夜会などに参加したとき、遠目で見たことがあるだけだ。

 アダナーニ国王には子供が四人いるが、その中でも交流があるのは、同じ正妃の子である王太子と、まだ十歳の第三王子の間だけ。

 キリフは異母兄と異母弟、そして魔女である異母妹と交流がなく、その婚約者だったクロエも、正式に挨拶さえしたことがない。

 だから向こうも、たとえ髪色が元の色に戻ったとしても、クロエのことがわからないのではないかと思う。

 ここまでクロエを案内してきた執事はここで退出し、さらにアリーシャは部屋にいたメイドを下がらせた。

 これで、この部屋にいるのは、アリーシャとトリッド。そしてクロエだけ。

 エーリヒの姿はなかった。

「……突然呼び出してしまって、ごめんなさい」

 三人だけになると、アリーシャはそう謝罪した。

 移民としては、貴族に謝罪されたら受け入れなくてはならないだろう。

 クロエは、静かに目を伏せた。

「あの……。エーリヒは、どこですか?」

「もちろん、すぐに会わせるわ。ただその前に少し、私の話を聞いてほしいの」

「……」

 アリーシャの意図を探るように、クロエは彼女を見つめた。

 もしエーリヒに会わせてくれないようなら強行突破も考えていたが、彼女はわざわざ使用人を部屋から出して、話がしたいと言った。トリッドが残っているのは、彼も少なからずクロエたちと関わったからだろう。

 最初に謝罪したことからも、クロエを移民だと侮り、無理に言うことを聞かせようとしているわけではなさそうだ。

「わかりました」

 まず、彼女の話を聞いてみよう。

 そう思ったクロエが頷くと、アリーシャはほっとしたように表情を綻ばせる。

「ありがとう。私は、アリーシャよ」

 そう名乗り、昨日の出来事を詳しく話してくれた。

「私がギルドに向かっていたのは、あなたに面会を申し込んだことに対しての、返事を聞きたかったからよ」

 だがギルドに辿り着くと、外壁が崩れ落ち、中には複数の騎士がいた。

「揉めている様子だったから、冒険者同士が争っていて、騎士団が介入したのかと思ったのよ」

 けれど実際には、騎士たちが複数でエーリヒを取り囲み、かなり殺伐とした雰囲気だったようだ。

「あなたがどこまで知っているかわからないけれど、エーリヒはこの国の王女殿下……。魔女であるカサンドラ様のお気に入りだったわ」

 そう告げたあと、アリーシャは伺うようにクロエを見た。

 魔女カサンドラのことは、この国に住む者なら誰でも知っている。

 その恐ろしさも知れ渡っているだろう。だからクロエが、その名を聞いて怖気づくのではないかと心配したようだ。

「はい。エーリヒから聞いています」

 だからクロエがきっぱりとそう言うと、驚いたように目を見開いた。

「そうだったの……。それでもエーリヒと一緒にいるのね」

「はい」

 強い意志を込めて、こくりと頷く。

 それだけは、何があっても揺るがない。

 そんな決意が伝わったのか、アリーシャは詳しい事情を語ってくれた。

「カサンドラ様に気に入られてしまったせいで、エーリヒは狙われている。エーリヒを排除しようとしている者たち。そして、エーリヒを使って王女を自由に操りたい者たちにね」

 そしてエーリヒを排除しようとしているのが、あの騎士たちに深く関わりのある人物だと告げた。

「それは……」

 騎士を自由に使えるのは、クロエの父であるメルティガル侯爵だ。

 嫌な予感がして、クロエはアリーシャを見つめた。

「そう。騎士団長のメルティガル侯爵よ」

 その視線を受けて、アリーシャはそう告げた。

「極秘情報だけれど、カサンドラ様は、メルティガル侯爵家の次男に嫁ぐ予定だったの。どうやらその次男には魔力があるみたいで、魔女の素質が受け継がれることを期待したのね」

 会ったことのない異母弟と、魔女である王女の婚姻。

 エーリヒは以前、クロエの婚約に関して、国王と父の間で何か契約があったようだと言っていた。

 それは、このことだったのか。

「メルティガル侯爵は、自分の息子とカサンドラ様の婚姻には、エーリヒが邪魔だと思っていた。騎士たちは、彼を見つけ次第、殺してしまえと命令されていたようなの」

「!」

「カサンドラ様は、エーリヒをとても気に入っていた。だから、結婚の話も受け入れないのではないかと危惧していたようね」

 父と国王の契約について考えていたクロエは、父がエーリヒを殺そうとしていたと聞いて、言葉を失う。

(そんな……)

 騎士たちに連行されたら、エーリヒは殺されてしまう。

 アリーシャはそれを危惧して、彼を自分の手元に引き取ったのだ。

 エーリヒは強いが、騎士団は攻撃魔法を使った者がいるという通報を受けて、国に所属する魔導師も連れていたらしい。

 もし騎士たちや国家に所属している魔導師と戦っていたら、エーリヒでも無傷ではすまなかっただろう。

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