第46話

「彼には、婚約者がいた」

 それが、かつてのクロエのことだと知るのは、エーリヒだけだ。

 クロエは険しい顔をしたエーリヒを宥めるように、繋いでいた手に力を込める。

「そうだったのですね。でも婚約者がいるのに、どうして私に?」

 何も知らない顔をしてそう尋ねると、アリーシャは少しだけ、言葉を選ぶように視線を彷徨わせる。

「キリフ殿下の婚約者はメルティガル侯爵家のご令嬢で、あなたと同じクロエという名前だったそうよ。そしてメルティガル侯爵は、この国の騎士団長」

「騎士団長……」

 少しどきりとしたが、クロエの魔法はきちんと効果を示したようで、アリーシャも同じ名前だということ以外、何も言おうとしなかった。

 この国では、軍部の司令官を形式的に騎士団長と呼んでいるので、クロエの父が剣を手に戦うわけではない。もし戦争が起きたとしても表には出ず、安全な後方で指揮をするだけだ。

 それでもメルティガル侯爵家は代々その騎士団長を担っており、この国では比較的名家の部類に入る。

「キリフ殿下は、王位継承にはあまり関わりのない方で、成人前には臣籍降下が決まっていた。そこで、メルティガル侯爵家のクロエ嬢と婚約していたのだけれど……。その辺りの事情は、話したわね」

「はい」

 クロエは頷いた。

 父の目的は、カサンドラ王女殿下と、会ったこともない異母弟との結婚である。そのためにはクロエとキリフとの結婚が条件だったらしい。

 異母弟の母親は北方出身の魔導師で、異母弟にもわずかに魔力があったようだ。

 国王陛下は、魔女であるカサンドラと魔力持ちの異母弟と結婚させれば、また魔女が生まれるかもしれないと期待した。

「その婚約を、キリフ殿下は勝手に破棄しようとした。それを聞いた国王陛下はお怒りになったそうよ」

 たしかに、ふたりの婚約は王命だった。

 もしクロエが逃亡せずにおとなしく屋敷に戻っていたとしたら、おそらくキリフとの婚約は継続されたままだったと思われる。

「……キリフ殿下も、かなり残念な方で」

 ここが自分の屋敷で、聞いているのがクロエとエーリヒだけだからか。

 アリーシャは、率直にそう口にした。

「本気で婚約破棄するつもりはなくて、ただ婚約者に苛立ったからそう告げただけだと。でも、メルティガル侯爵家の方のクロエ嬢は、とてもおとなしくて気弱な方のようでね」

 同じ名前でも、ずいぶんと違う。

 そう言われたような気がして、クロエは曖昧に笑う。

 たしかに今のクロエと昔のクロエは、見た目はもちろん、中身もまったく違う人のように見えるだろう。

「キリフ殿下にそう言われたのが相当ショックだったようで、そのまま行方不明になってしまった。メルティガル侯爵家でも必死に探している。でも、こんなに時間が経過してしまっては、もう……」

 もし王都から出ようとすれば、門を守る騎士たちから王城やメルティガル侯爵家に連絡があるはずだ。

 けれど、目撃情報すらないと、アリーシャは痛ましそうに言った。

 生粋の令嬢が、たったひとりで生き延びられているはずがない。そう思っているのだろう。

 自分の話を、まったく知らない人の話として聞くのは不思議な気分だった。

 けれど余計な口は挟まずに、静かに彼女の話を聞く。

「そのことで、キリフ殿下の立場はかなり悪くなっている。自分勝手な言動で、ひとりの令嬢を失踪するまで追い詰めたのだから、自業自得だけれどね」

 そして、ここまで事が大きくなってしまうとは思わなかったキリフの恋人は、さっさと地方に逃げ帰ったそうだ。

 貴族ならば、この王都の出入りは自由である。

 自分たちがこんなに苦労をしているのに、あっさり王都から出たことだけは、羨ましい。

 そしてクロエ不在のまま、ふたりの婚約はキリフの不義を理由に、メルティガル侯爵家の方から解消された。

(よかった……)

 キリフとの婚約が正式に解消になったと聞き、クロエはひそかに安堵する。

 もう二度とメルティガル侯爵家に戻るつもりはないとはいえ、あんな人と婚約したままなのは不本意だ。

 焦ったキリフは、新しい婿入り先を必死に探している。

 彼は王子とはいえ、王位継承権からは遠く、婿入りして臣下になることは決定している。

 けれど王命であるはずの婚約を軽視し、浮気をしていたという彼の悪評は、すでに地方貴族に至るまで知れ渡ってしまった。

 当然、次の相手など見つからない。

 さらにメルティガル侯爵によって、クロエに対する慰謝料まで請求されてしまい、かなり切羽詰まっている。

(私がいないのに、慰謝料を請求するなんて。よほどメルティガル侯爵家を侮られたのが、悔しかったのね)

 父の怒りがクロエのためではないことは、今までの扱いから考えてもよくわかる。

「いくら王子殿下とはいえ、そんな状態でクロエに求婚してきたのか」

 エーリヒが嫌悪を隠そうともせずにそう言うと、アリーシャも同意するように頷いた。

「ええ。義理とはいえ、もう私の妹なのよ。キリフ殿下などに渡すはずがないし、そもそも婚約者がいると発表しているのに、それでも求婚してくるような人たちは論外だと、お父様が手紙をすべて突き返していたわ」

 手紙すら取り次がないと、きっぱりとした対応してくれたようだ。

 それによって周囲にも、クロエが利用するために引き入れた移民の女性ではなく、家族として迎え入れた養女なのだということが伝わるだろう。

 アリーシャも、自分の妹だと言ってくれた。

 クロエの作る魔石が必要だからこそ、そう言ってくれたのかもしれないが、それでも誠意を示してくれた以上、クロエも期待に応えたいと思う。

「クロエのことはそれでいいとして、問題はエーリヒよね」

「……そうですね」

 深刻そうなアリーシャの言葉に、クロエも深く頷いた。

 クロエは移民出身でも、マードレット公爵の養女という身分が守ってくれる。けれどエーリヒは、貴族の庶子でしかなく、近衛騎士という身分も捨ててしまった。

 今のエーリヒは、マードレット公爵家の令嬢となったクロエの婚約者でしかない。

「やっぱり、どこかの貴族の養子に入った方が……」

 エーリヒが貴族を嫌っていることは知っていても、アリーシャもそう言わざるを得ないようだ。

 彼を引き渡すように言ってきたのが、同じ公爵家であるアウラー公爵家と、王女のカサンドラである。貴族の中でも権力を持つ相手だということを考えると、それも仕方がないのかもしれない。

「心配ない。自分のことは、自分で何とかする」

 そんなアリーシャの言葉を遮るように、エーリヒは素っ気なくそう言った。

 いくら彼女でも、女性である以上、そんな態度になってしまうのだろう。

「どうやって?」

 間に入るようにクロエがそう問いかけると、途端にエーリヒの表情が柔らかくなる。

「今まで通り、冒険者としての活動を続ける。そして、貴族の令嬢を娶っても周囲が納得するくらい、名を上げてみせる」

 たしかに、高名な冒険者は貴族と同等の権利を持つという。

 けれどその栄誉を手にできるのは、数多くの冒険者の中でも一握りだ。それでもエーリヒは、自分の力で自由を手にしたいのだろう。

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