第21話

「うおおおお! わからん!」


 義雄の野太い悲鳴が、放課後の教室に響いた。


 普段なら、外では運動部の掛け声が重なり合い、校内には文化部の真剣な空気と、縛られない時間を謳歌する帰宅部の談笑が学校独自の世界を作っていた。


 しかし、中間考査が来週に迫った今、部活動は一時休止になっていた。

 校内に残る生徒も試験勉強に集中し、シャープペンが紙を削り、ページをめくる微かな紙の音が流れていた。


「うるせぇ! お前が馬鹿なのは今に始まったことじゃねぇんだよ!」


 そんな静かな時間をぶっ壊したのは、久しぶりの勉強に頭が追いつかない義雄と、ツッコミを入れた信一だった。

 そばでは、その様子を笑う忠と苦笑いを浮かべるあゆむ。そして、呆れた顔の千代の姿があった。


「んだとこらぁ! そんなことお前に言われなくてもわかってるんだよ!」

「あっはっは! 認めちゃうんだ」


 忠が手を叩いて笑った。


「だ、大丈夫だよ。僕たちが教えるから」


 あゆむが義雄をなだめた。


「す、すまねぇ」

「ほーら、落ち着いたなら続きするよ。ただでさえ時間がないんだから」


 この集まりは、信一たちのためにあゆむが企画した勉強会だった。


 二日ほど勉強を教えた結果、信一と忠はなんとかなりそうだと思えた。

 しかし、義雄はなかなか厳しい状況で、一日目に千代から「どうやってこの高校受かったの?」と、辛口なコメントをいただく有様だった。


「早乙女、ここの問題なんだが」

「えっと、それはね……」

「千代姫、この英文の訳がわかりません」

「新島くんって、ホントにチャラいね。この訳は……」

「すまん、ふたりとも。このページから全部わからん」

「「待って待って」」


 人に勉強を教えることは意外に難しく、あゆむは初めての苦労を経験していた。


 しかし、信一たちや千代と過ごせるこの時間が、とても楽しくうれしかった。


 あゆむは時折、あの夜のことが夢だったんじゃないかと思うことがあった。しかし、目の前にいる友人と幼馴染。そして、窓に映るゴリラが、現実であったことを物語っていた。


「とにかく、次の試験で赤点取ると本当に進級できないかもしれないんだからね! 死ぬ気で頑張ってよ?」

「「「押忍!」」」


 千代と三人との関係は、友人というよりも姉御と舎弟のような関係になっていた。


 その様子がおかしくて、あゆむは度々笑いそうになり、その度に不自然な咳で誤魔化した。


「じゃあ、今日はこの辺にしようか」


 外の明るさが弱まった頃、五人は帰路に着いた。


「ふー、この調子だと義雄以外はなんとかなりそうだね」

「う、うるせぇ!」

「なんとかするんだよ。そうじゃねぇと、二人に悪い」


 忠が茶化し、義雄が怒鳴り、信一が収めた。


「そんなに気にしないでよ。大したことしてないんだから。僕が好きでやってることだし」

「ほんと人が良いんだから、あゆむは。ま、全力を尽くしてくれるなら、わたしも結果にいろいろ言うつもりはないよ。でも、努力はしてよね?」

「もちろんだ!」


 威勢よく答えた義雄は、自分の顔を叩いて気合を入れ直した。


「うわぁ、暑苦しい」

「あははは。じゃあ、みんな。また明日ね」

「じゃあね。あゆむきゅん、千代姫!」

「今日もサンキューな。二人とも」

「ちゃんと復習しなさいよ?」

「おう! テストが終わったら、行きつけのラーメンおごるぜ!」


 信一ら三人とあゆむと千代は、校門を出て二つ目の十字路で左右に別れた。


「三人とも大丈夫かなぁ」

「ま、やれるだけのことはしましょ。それより、自分は大丈夫なの? あゆむ」

「う、うん。なんとか」

「なに? その微妙な反応は。これであゆむの成績が悪かったら、あの三人も罪悪感感じちゃうよ? ……ねぇ。もしよかったら、これからウチで」

「あゆむくぅん!」


 千代の言葉を遮るように、前方から高い猫なで声の女子生徒が駆け寄ってきた。


「今帰りなのぉ? おつかれさまぁ~」

「やぁ、支倉はせくらさん」

「やだぁ、ミミって呼んでよぉ」


 支倉ミミというこの生徒は一年C組の生徒で、水谷事件のあとから、あゆむと話すようになった生徒の一人だ。


 猫のアニマで、金髪に染められた髪の中から白い耳が顔を出している。

 同じく白い尻尾を振りながら、あゆむの腹部ほどの高さから、とろりとした目で顔を見上げた。


「ねぇねぇ、これから時間あるぅ? ちょっと困ったことがあってぇ、あゆむくんのこと探してたんだぁ。おねがぁい、たすけてぇ?」


 ミミはあゆむの返事を待たず、手を引っ張り始めた。


「ちょ、ちょっと待って! あゆむは勉強しなくちゃいけないんだから!」

「ミミ、野山さんには聞いてないもぉん。あゆむくんはぁ、いつもミミたちのことたすけてくれるぅ、男らしくてぇ、頼もしくてぇ、強くてぇ、かっこいいヒーローなんだからぁ。邪魔しないでくれるぅ?」


 ミミは変わらず作られたような高い声で言ったが、千代に向けられた視線はあゆむに対するものと違い、明らかな敵意がこめられていた。

 

「は? いつも? なに言って」

「ごめん、千代ちゃん」


 あゆむは困り顔を千代に向けた。しかし、千代にはあゆむが、まんざらでもないように見えた。


「支倉さんたち、変な連中に付きまとわれてるんだ。ときどき、僕がボディーガードみたいなことしてるんだよ。千代ちゃんのときみたいに、なにかあってからじゃ遅いでしょ? 大丈夫、勉強は帰ってからちゃんとするし、無茶もしないから」

「で、でも、あゆむ」

「困ってる人は放っておけないよ」

「あゆむくん、ありがとぉ。さ! いこいこぉ」


 ネイルでデコられた猫の手で、ミミはあゆむの腕を抱き寄せ、歩き始めた。


「じゃあ、ごめん。また明日ね、千代ちゃん。帰り道、気をつけてね」

「う、うん……」


 遠ざかる幼馴染を、千代は寂しさと戸惑いの目で見つめた。


 その目に映るのは、どこか誇らしげなゴリラの背中と、一瞬自分に向けられた見下すように勝ち誇った泥棒猫の顔だった。

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