第37話
生徒会副会長として、風花は今までどんな相手も冷静に対処し、その仕事に私怨を持ちこんだことなどなかった。
しかし、今回は違う。
男を嫌う風花にも、当然恋心は芽生える。
そしてもちろん、一目惚れもする。
それがたまたま、同級生を助けるために身を挺して飛び込んだ一年生だった。
羨ましいほどまっすぐで、笑顔の眩しい少女。
初めて抱いた熱い気持ちに、風花はどうしていいかわからず、ただ見守ることしかできなかった。
そんなとき現れた、巨大な獣の恋敵。
目の保養としか思っていなかった少年が、自分の嫌う雄の姿に成り果て、麗しの存在に近づいた。
それだけでも耐え難かったのに、今度は少女の身が危険にさらされたと聞いた。
事件の顛末を聞いたとき、風花は普段では考えられないほど取り乱し冷静さを失った。生徒会長がなだめなければすぐにでも飛び出し、事件に関わったあゆむたちや、拘置中の水谷らさえも襲っていたかもしれない。
そのときから、ずっと心に抱いている感情。
私なら、絶対に彼女を守るのに。
私なら、絶対に彼女を悲しませるようなことはしないのに。
どうしてとなりで笑っているのが、私じゃないんだ!
「なんで……なんであなたのような人が……」
「せ、先輩?」
風花は歯を食いしばり、顔に乗せた右足をぐりぐりと動かした。
「うぐ……」
「さあ、このままやられるつもりですか? そんなことで、この程度の力で、あの子を守れると思っているんですか!」
こんな姿で弱ければ、それこそ千代のとなりにいる資格はない。
風花は今のあゆむの体たらくに、さらに怒りを強めた。
「そ、そういうことじゃ、ないですけど」
あゆむが消えそうな声で言った。
「せ、先輩と、戦う理由が、僕には、ないです」
「なにを言っているんですか? 抵抗しないと、あなたがやられるんですよ? 理由なんて、自己防衛で十分じゃないですか」
軽蔑の視線を向けられながら、あゆむは笑顔を作った。
「そうは言っても、戦わずに済むなら、そのほうが、いいじゃないですか。それに、ほら、僕が無害なゴリラだって証明できるでしょ?」
「……そうですか」
呟いた風花は、呆れたように息を吐いた。
「じゃあ、勝手に倒されてください。そのあと、私は野山さんのところへ行きますから」
風花の言葉に、あゆむは驚き目を見開いた。
「な、なんで千代ちゃんが! 千代ちゃんはなにもしてないのに!」
咄嗟に起き上がろうとした顔面を、風花が蹴りつけて制した。
「あなたが悪漢どもと戦い、交友関係が乱れた原因に、野山千代さんの存在があることは、周知の事実です。あなたのせいで、彼女にも秩序を乱す可能性があると見なされたんですよ」
「そ、そんな……」
痛みと絶望で、あゆむの顔が歪んでいく。
「もう他の者が確保に向かっているでしょうが、大丈夫ですよ。私が責任を持って対応します。だから……」
風花の足が、天を衝くようにピンと伸ばされた。
「自分の無力を嘆いて、寝ていなさい」
振り下ろされた鎌のように、鋭く容赦のないかかと落としが、ゴリラの額に落とされた。
脳を揺らす衝撃が走り、あゆむの目の前がかすんでいく。
だが、薄れゆく意識の中で全身を駆け巡るなにかがあった。
それは闇に飲まれる意識の代わりに、体を支配する感情の炎。
どこか懐かしい感覚。
あゆむは、それがいつだったか思い出すことはできなかった。
だがそれは、水谷一味と対峙したときと同じものに他ならなかった。
「うぐっ!」
危険因子のゴリラにとどめを刺し、荒れた音楽室をあとにしようとした風花だったが、右足に締め付ける痛みで短い悲鳴を上げた。
慌てて見ると、黒い毛に覆われた手が自分の足を掴んでいる。
完全に沈黙したはずのゴリラが牙を剝きだし、怒りに顔を染め、渾身の力で握りしめていた。
「は、離しなさい!」
突然の豹変と想定外の痛みに驚きながら、風花はあゆむの手を蹴飛ばそうとした。
しかし、蹴撃が当たる前に世界が反転した。
あゆむが足を掴んだまま立ちあがり、風花の体が宙づりになったのだ。
「オオオオオオ!」
あゆむは、怒りに任せて風花を投げ飛ばした。
叩きつけられた風花の体は、ガラスを割り、扉を倒し、廊下に放り出された。
「ぐっ……はっ……」
全身に鈍痛を感じながらも、風花は即座に起き上がる。
そして相手を見上げたが、今度は彼女が身震いをする番だった。
「オオオオオオ!」
胸を叩きながら雄叫びを上げる獣の姿。
本能が逃げろと叫ぶ、凶暴な力の権化。
風花の心に、超えてはいけない一線を超えた後悔がよぎった。
「はあ!」
それでも、今のあゆむを放置するわけにはいかない。
正気を失った凶暴なゴリラは、生徒会にとっても脅威になると確信していた。
風花は飛び上がり、鼻血が流れる顔に膝蹴りを繰り出した。
「きゃあ!」
先ほどまでのあゆむであれば、確実に攻撃は当たっていただろう。
しかし、暴走したゴリラには手負いの攻撃など通用しない。
飛び上がった体を強烈な平手が襲い、車に撥ねられたように吹っ飛ばされた。
「うっ……くっ」
廊下を転がった風花は痛みに顔を歪ませた。
「こ、ここまでとは」
ヒビの入ったレンズ越しに、怒りに染まった獣がゆっくりと近づいて来るのが見えた。
全身のダメージと相手の圧倒的な力。
今の自分に勝てる見込みがないことを、風花は直感で理解した。
しかし、彼女は立ち上がる。
激痛に耐えながら、圧倒的強者と向かい合った。
傷だらけの少女をそこまでの戦士にしたのは、自分が始めてしまったことへの責任感と、副会長としてのプライド。
そして恋敵への、ひとりの女としての意地だった。
「私は生徒会執行部副会長、南風花! 学校の秩序と平和のために、今ここであなたを倒しまひゃあ!」
覚悟で武装した彼女の背中を、怪しくいやらしく撫でる指が襲った。
「こらこら、もうボロボロじゃない。ダメよ、あんたは下がりなさい」
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