第4話
だが、実際に町を歩くとやはり人の目が気になってしまう。
ひそひそとなにかを囁かれ、物珍しそうに隠し撮りを行う者もいた。
(うう……やっぱり恥ずかしい。で、でも、僕にもやっときたアニマなんだ。もう弱い僕じゃない、今はゴリラじゃないか。自信を持て、早乙女あゆむ。胸を張れ!)
視線を気にして顔を伏せ、肩身狭く歩いていたあゆむだったが、己を奮い立たせた。
立派な胸板を張り、前を向くと、通い慣れた通学路が広がっていた。
しかし、目に映る景色はまったく違うものに思えた。
いつも見上げていた周りの人たちは自分よりも小さく、街路樹の枝を避けるなんて初めての経験だった。
見渡す世界はどこまでも広く、輝いて見えた。
いつも通りに歩いているはずなのに、過ぎ去る景色が速かった。
その原因が、大きくなった歩幅のせいだと気づいたのは、校門まで五十メートルのところまで来たときだった。
「おい、おまえ! スカートが短いぞ、今ここで直していけ! 貴様、なにをへらへらしている。挨拶はどうした!」
校門の前では、生活指導を担当する体育教師の
松枝は犬のアニマで、顔がブルドッグになっており、生徒からは陰で逆人面犬と揶揄されていた。
しかし、その逆人面犬は顔の迫力もさることながら、鍛えられた体に犬顔負けの声の大きさから、恐れられる存在でもあった。
かくいうあゆむも苦手意識を持っており、日頃から「女々しい」だの「情けない体だ」といった罵声を浴びせられていた。
そんな松枝の姿が見えたことで再び萎縮したあゆむだったが、意を決して校門へ歩を進めた。
「お、おはようございます!」
「ん? なんだ、早乙女か。声が小さいぞ!」
勢いよく振り向いた松枝だったが、一喝したいつもの高さに怯えた顔はなかった。
代わりに目の前を塞ぐ巨躯を見つめ、視線を上げて目を合わせた。
「ひえっ、さ、早乙女? ゴ、ゴリラ?」
思わず腰を抜かした逆人面犬は、今までとのギャップの大きさにパニックを起こしたようで、何度も瞬きをしながら「早乙女? ゴリラ?」を繰り返した。
「早乙女ですよ。おはようございます、先生」
「う、うん。お、おはようございます」
尻餅をついたまま、松枝は挨拶を返した。
「え、えっと。もう行きますね」
周りの生徒も言葉を失ったまま、遠ざかるゴリラを見つめていた。
「ねぇねぇ、知ってる? あゆむくん、今日から学校来るんだって!」
あゆむが籍を置く一年B組では、朝からひとつの話題で盛り上がっていた。
「アニマで休んでたらしいけど、なんの動物かなぁ。猫耳は絶対似合うじゃん? バニーちゃんとかもぉ、かなり萌えるよねぇ~」
「私は犬耳がいいかなぁ。垂れ耳のやつ、絶対かわいいもん!」
「あたしは、ハムスターかな。あの顔でへけっとか首かしげられたら、たまらないわ」
クラスメイトたちは、こぞってあゆむのアニマを予想していた。
優しくて愛らしい、漫画の世界からやって来た男の娘のようなあゆむは、クラスのマスコット的存在だった
「なぁ、おまえはなにがいいと思うよ」
「俺は羊だな」
「なんで?」
「もふもふになれば、触る口実ができるだろう? あわよくば……抱きつけるっ」
「おまえっ! 天才かっ!」
妄想は男女問わず膨らみ、一部では賭けの対象にまでなり、全員があゆむの登場を今か今かと待っていた。
「きゃあ!」
「うおっ!」
騒がしい教室にも聞こえる悲鳴が、廊下で上がった。
自然と皆そちらを注目し、それと同時に入ってきた生徒に視線が集まった。
教室に入ってきたのはゴリラだった。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った。
だれもが身動き一つとれず、黙ったままゴリラの動向を見つめた。
そして、ゴリラが自分の席に着いたとき、爆発したように悲鳴が起こった。
「えええええええええええええ!」
あまりの音量に窓が揺れ、聴覚に優れた動物の生徒は耳鳴りを覚えた。
ゴリラが座ったのは、紛れもなく早乙女あゆむの席であり、クラスメイトの中ではこれからさらに磨きのかかったマスコットが座るべき場所だった。
「ち、ちょっと! そそそ、そこはあゆむくんの席なんですけど! な、なにしてるんですかゴリラさん?」
混乱した一人の女子生徒が、勢いに任せてゴリラに突っかかった。
「えっと、おはよう。僕だよ、早乙女あゆむ。席は間違ってないよね?」
野性味溢れる体から発せられたのは間違いなく、可憐なクラスメイトの声だった。
「いやああああああああああああああ!」
「マジかよ! 早乙女かよ!」
「うそでしょ? あゆむくん? ねぇ、うそでしょ?」
信じたくない事実に、教室が絶望に包まれた。
「あふぅ……」
「
先程、羊の予想を立てていた眼鏡の男子生徒が、あまりのショックで気を失った。
「あはは。そ、そんなに驚かなくても」
思っていた以上のリアクションに、あゆむはどうしていいのかわからなかった。
「驚くよ! え、なんでそんなに丸々ゴリラなの? っていうかなんでゴリラなの?」
「さ、さぁ。僕にもわからないよ。それより、谷口くん大丈夫? 貧血とか?」
谷口少年の胸中を知らないあゆむは、倒れたクラスメイトを見つめた。
「ま、まぁそんなとこだ。保健室に連れていかないとな」
「あ、なら僕が連れていくよ!」
あゆむは手を挙げ、勢いよく立ち上がった。
「え? い、いや、その、今来たばっかだろ? いいよいいよ」
「でも、僕が驚かせたことが原因かもしれないし。大丈夫、今までとは違うから!」
今までのあゆむは体調不良も多く、同級生に保健室へ連れていってもらうことが多かった。
女子に連れ添ってもらうこともあり、その度に罪悪感と悔しさを感じていた。
だが、今は違う。
ゴリラとなったあゆむには、これまでの自分ではできなかったことが、できるようになっていた。
「いくよ、谷口くん」
あゆむは谷口の体を優しく抱き上げた。
所謂、お姫様抱っこだった。
以前なら机を運ぶだけで一苦労だったが、そんな名残りはどこにもなく、友人を抱えてもさほど重さを感じなかった。
「じゃあ、谷口くんを保健室まで連れていってくるね!」
「う、うん」
「い、いってらっしゃい」
戸惑ったままのクラスメイトを尻目に、あゆむはこの体で役に立てたこと、今までやりたくてもやれなかったことの達成に、満面の笑みで教室を出て行った。
「いやああああ、本当にあゆむくんだぁ。あの笑顔、ゴリラなのに面影あるもん」
「ぐすっ、谷口。いつか早乙女をお姫様抱っこしてやりたいって言ってたけど、逆になっちまったなぁ」
再び喧噪を取り戻したB組は、悲嘆と驚愕の声で溢れていた。
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