第9話

 教室に戻ると、あゆむは再び勧誘と質問攻めに遭った。


「ごめんね、ちょっと今日は疲れちゃって」


 しかし、あゆむの心はそれほど踊らず、塩対応で放課後を迎えた。


「はぁ」


 いくつかの運動部に後日の見学を約束し、あゆむは帰路についた。


 あの三人は昼休み以降も教室には現れず、体育館裏も見に行ったが姿は消えていた。


 あの一件が夢だったんじゃないかとも思ったが、しわだらけの五万円と未だに痛む両手が現実である証拠だった。


「あゆむー! いっしょに帰ろうよ!」


 校門を出たところで、背後からハツラツとした声が聞こえた。

 振り向くと、千代が眩しい笑顔で手を振り、あゆむのところまで駆けてきた。


「ち……野山さん。べつにいいけど、どうしたの?」


「実はあゆむにお願いがあるの。買い物に付き合ってほしくて。食材を買い溜めしたいんだけど、わたし一人じゃ重たくってさ。お願い! お礼はちゃんとするから!」


 下げられた頭の上で、毛色の良いうさ耳がピコピコと動いた。


「うん、いいよ。そのくらい、今の僕ならへっちゃらさ」


 あゆむは笑って答えた。

 このまま真っ直ぐ帰るつもりだったが、千代に頼られたうれしさと沈んだ気分を変えたいという思いから承諾した。


 二人が揃って下校するのは、久しぶりのことだった。


 千代の両親は二人とも働いており、幼い弟たちの世話や日常の家事は千代の仕事で、なかなかこのような機会がなかった。だからこそ、あゆむは千代の申し出がうれしかったし、今まで力になれなかった分を取り返したいと思っていた。


 二人は最寄りのスーパーまで談笑し、買い物を済ませた。その間、あゆむは好奇の目に晒されていたが、千代との時間に集中していたので気にならなかった。


「ほんとにありがとう、あゆむ。お米とか重いものが多くてさ。怪我治ったばっかりだし、どうしようかと思ってたんだ」


 重たいものをあゆむが持ったが、量が多く二人とも手が塞がっていた。


「いいよ、このくらい」

「重たくない?」

「うん。自分でもびっくりだよ」


 あゆむは、今の自分が誇らしかった。


 以前なら絶対に持てなかった重量を、余力を残して運べている。指に食いこむビニールの持ち手も、まったく痛くなかった。


「すごいなぁ。でも、わたしはちょっと疲れちゃった。そこの公園で休まない?」


 あゆむは千代の提案に頷き、道向かいにあった公園のベンチに腰掛けた。


「はい、お礼その一!」


 千代は自分が持っていた袋から、缶ジュースを取り出してあゆむに渡した。


「ははは、ありがとう。でも、その一ってことは他にもあるって期待していいのかな?」


 あゆむは、変わらないはずの缶ジュースの大きさを異様に小さく感じつつ、千代に笑いかけた。


「うん、もちろん。じゃあ、さっそくお礼その二……今日なにかあった?」


 あゆむは優しい笑顔と、今日のことを見透かしたような言葉に戸惑った。


「え、あ、な、なんのこと?」

「とぼけたってダメよ。あゆむ、昼休みが終わってから元気ないもん。わたしが学校に来たときはキラキラしてた目が、どよーんって沈んでたぞ」

「うぅっ」


 人差し指で頬を突かれ、隠すのは無理だと悟ったあゆむは、昼休みの出来事を千代に語った。


「……そんなことがあったなんて。大丈夫、あゆむ?」

「うん。生まれて初めて人を殴ったんだけどね。僕にとって、殴るだけの理由があったと思うんだ。でも、なんでかな、殴ったほうも手が痛いって聞いてたけど、なんだか心も痛いんだ」


 力なく笑うあゆむに、千代が微笑んだ。


「それはあゆむが優しいからだよ。見た目が変わっちゃっても、怖い獣じゃない、昔から変わらないあゆむのままだからだよ。アニマが来ると力がついて、野蛮になっちゃう人も多いけど、あゆむは強いね」

「そ、そんなことないよ」


 好きな人に「強い」と言われ、あゆむは思わず照れた。


「わたしは、悪いのはあの三人だと思うよ。っていうか、まだ返してもらってないお金もあるんだし、もっと積極的に取り立ててもいいんじゃない?」


 千代は拳を突き出しながら言った。


「うん、そうなんだけど、ちょっと気になるんだ」

「なにが?」

「いくら僕がゴリラだからって、あの三人に簡単に勝てるわけないはずなんだ。そりゃあ、今回は不意打ちで勝てたかもしれないけど。でも、今思い返すとあのとき、三人は威嚇はしてきたけど本気で戦うつもりはなかったんじゃないかと思うんだ。だって、大野くんたちって、本当に強いんだよ? 中学のときに、高校生十人相手に勝ったとか、入学した日に三年生に勝って一目置かれてるとか。それでいて女の子には手は上げないとか、すごい話はいっぱいあるんだ!」


 缶ジュースをぐいっと飲み干し、あゆむは乾いた喉を潤した。


「く、詳しいね、あゆむ。そんな話、好きだったっけ?」

「好きというか、その、憧れなんだ。べつに喧嘩は好きじゃないけど、格闘技とか強い人に憧れるんだ。自分はなれないと思ってたから、学校で強い人たちのことは一通り調べてて。だからこそ、大野くんたちは怖いけど、すごいって思うんだ」


 今まで血生臭い話とは無縁の人生だったあゆむだが、それ故、強者への憧れが人一倍強かった。


 信一たちのことはもちろん、校内の実力者について、オタク的に調べるという趣味を持っていた。


「ふーん、たしかに、あゆむって昔からヒーローが好きだったもんね。格闘技も、おじさんに習ってなかったっけ?」

「体力作りに教わったけど、全然ダメだったよ。型はきれいって褒められたけど」

「この公園でも、いっしょに遊んだなぁ。悪者をお父さんたちにしてもらって、あゆむがヒーローで、わたしがお姫様」

「懐かしいけど恥ずかしいよぉ」


 照れるあゆむを、千代がからかったように笑った。


「うん、わたしのヒーローが言うんならしょうがない! じゃあ、次会ったときに謝って、気になることを全部聞こう! わたしもいっしょに行ってあげるから」


 千代は立ち上がり、あゆむの前で笑った。


「えぇ! 野山さんも?」

「だって、そうでもしなきゃ、あゆむ自分から話しかけられないでしょ? それに、あの三人は女の子には手を出さないんじゃなかった?」

「うぅ、そうだけど……」

「わたしは自分の心配なんて、全然してないよ? だって、なにかあったらヒーローが助けてくれるでしょ?」


 夕方の金色の光が、千代を美しく神々しく照らした。


 そうでなくても、千代の言葉は、あゆむの中に広がり、抱いていた痛みを温かく癒してくれた。


 やっぱり、この人が好きだ。と、あゆむは心から思った。


 目の前で笑う少女のことが、天使にも女神にも思えた。


「よし! じゃあ決定ね。ところであゆむ、まだ千代ちゃんって呼んでくれないの?」


 いたずらな笑顔に変わった千代は、あゆむにぐっと顔を近づけた。


「え、いや、その、えっと」


 千代の瞳に映る慌てふためくゴリラを見つめながら、あゆむはまだ、千代への呼び方を改めることはできなかった。

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