最終話

新年を迎えたゴリラが目覚めた。


 カーテンを開けると、冬の白い光が部屋に差しこんだ。外は溶けた雪と道行く人で、正月ならではの賑わいを見せている。


「あゆむー、起きてる?」


 階下から、英梨の声が聞こえてきた。


「起きてるよー」


 あゆむは答えると、まどろみの残る目をこすりながら下の階へ降りた。


「おはよう、あゆむ。あけましておめでとう」

「おはよう。あけまして……って、寝る前も言ったじゃん」


 顔を洗い、歯を磨いてリビングに行くと、英梨が雑煮の準備をしながら笑顔を向けた。

 就寝前に年末の特番を見ながら家族でカウントダウンをし、新年の挨拶は一度済ましていた。


「こういうのは、何度言ってもいいのよ」

「そうだぞ、あゆむ。あけましておはよう」

「混ざってるよ、お父さん」


 大晦日まであゆむと腕相撲をし、父親として初めての敗北を肴に飲んでいた父が、ソファーに腰かけていた。


 父である早乙女蒼馬そうまは、パンダのアニマで信一のように全身が変異していた。白と黒の体毛に覆われ、絶滅危惧種の爪とパワーを有している。

 あゆむがとなりに座ると細マッチョのパンダとゴリマッチョのゴリラが並び、信一たちがいれば確実に吹き出す光景が出来上がった。


 出汁の柔らかくも食欲を誘う香りが漂い、あゆむは朝食の雑煮に四個の餅を要求した。

 つけっ放しのテレビを見ると、ニュース番組が新年の長い交通渋滞を伝えていた。


「さて、お母さんのお雑煮食べたら初詣に行くぞ」

「うん」


 あゆむの家の近くには、健康と繁栄の神が祀られた神社があり、近所の住人のほとんどはそこで新年の祈願を行っている。

 毎年人ごみに流されそうになり、幼少の頃から何度も迷子になっていたあゆむは、あまりいい思い出がない。

 しかし、今年は違う。

 このゴリラの体なら、多少の人の波に負けることはない。万が一はぐれても合流は容易だろうと、今年は安心感に満ちていた。


「さぁ、出かけるぞー」


 着替え終わり、英梨の化粧を待ち、準備ができた早乙女一家は家を出た。


 部屋からも眺めることができた人の流れは、ほとんどが早乙女一家と同じ目的の人たちだった。振袖姿の女性や楽しそうに走る子どもたちで、道中はすでににぎやかだ。


 動森高校の手前の道を左に逸れ、なだらかな坂を上りきると、全部で一〇八段ある急こう配の石段が壁のように現れた。


「お父さん、今年はどうするの?」

「ん? うーん、そうだな……」


 神社には、石段の他に迂回する比較的楽な坂道があり、体力に自信のない人たちは後者を選んでいた。

 しかし、段数が煩悩の数ということもあり、縁起担ぎに挑戦する者も多い。

 それ故、階段には人が多く、昨年の蒼馬は上っている最中にカバのアニマのヒップアタックを受け、転げ落ちて怪我をしていた。


「僕は、せっかくだから上ってみるよ」


 あゆむは一度だけこの石段に挑戦してみたが、上りきるのに昼までかかってしまったことがあり、それからは坂道を利用していた。

 しかし、今年は違う。

 ゴリラであれば問題なく上れるだろうという確信があった。


「あ、あゆむが上るんなら……でもなぁ……」


 蒼馬の脳裏に、一年前の恐怖が蘇っていた。


「あ、あゆむ! あけましておめでとう!」


 そのとき、背後から千代の明るい声がかけられた。


「あらぁ、千代ちゃん。あけましておめでとう」

「おじさん、おばさん。あけましておめでとうございます」

「おぉ、きれいになったね。千代ちゃん」

「やだぁ、おじさんったら」


 毎日会っているあゆむだったが、目の前の千代はたしかにきれいだと思った。

 振袖姿の千代はいつもよりきらびやかで、華やかで、美しい。


 桃色の生地に、色とりどりの花が刺繍され、白い帯も金をふんだんに使った豪華な装いをしている。だが、あゆむは着ている人が良いのだ。と思っていた。


「似合うわよ、振袖。やっぱり着ている女の子がかわいいと、また違うわね!」

「おばさんったら、もう」


 英梨の言葉に同意しながら、あゆむは英梨とはやっぱり親子だなと感じた。


「あら、ご両親とおチビちゃんたちは?」

「先に行って、出店巡りしてるんですよ。わたしが着替えてるときに、引っ張られて行きましたから」


 千代は苦笑しながら言った。

 神社の周囲には多くの屋台が出店し、まるで夏祭りのように賑わっていた。


「そうだ! あゆむ、お前は千代ちゃんと行きなさい」


 蒼馬がニヤニヤしながら言った。


「そうね! あとは若い二人で! じゃ、千代ちゃん。あゆむのこと、頼んだわね~」


 英梨も同じような笑みを浮かべ、余計なお節介に喜ぶ夫婦は足早に坂道へ向かった。


「……行っちゃった」

「あの~、あゆむさん? まだですか?」


 苦笑いを浮かべるあゆむの顔を、千代が覗きこんだ。


「え? な、なにが?」

「わたしに言うことない?」


 千代が不機嫌に言った。


「あ、あけましておめでとう……きれいだよ。すごく」

「あ、ありがとう。わ、わかってきたじゃない」


 思いのほか迷いのなかったあゆむの賛辞に、千代は顔を赤くした。


「じゃあ、僕たちも行こうか。坂の方でいい?」

「なに言ってるの? 石段行こうよ。あゆむも、今年は上れるでしょ?」


 当たり前のように言ってのける千代に、あゆむは目を丸くした。


「え? その格好で?」

「うん。毎年上ってるもん」


 あゆむは新年早々に、幼馴染のパワフルさを感じた。


「だれが先に上れるか勝負だこらぁ!」

「負けたやつが、おみくじ代奢りね!」

「こっちはまだ体が痛てぇんだよ!」


 石段の手前で、聞き慣れた声がした。

 見ると、義雄たちが登頂の速さを競おうとしており、信一と愛が呆れた顔をしていた。


「なにしてんの、新年早々」

「あははは。あけましておめでとう、みんな」


 苦笑いを浮かべながら、あゆむたちは元気な一団へ声をかけた。


「おぉ、あゆむ、野山。あけましておめでとう」

「あけおめ! あゆむきゅん、千代姫」

「あけおめだな! よし、あゆむも石段レースに参加しようぜ!」


 やたらとテンションの高い義雄の影から、愛がひょこっと顔を出した。


「早乙女さん。あけましておめでとうございます」


 愛は礼儀正しく頭を下げた。


「かわいい! なにこの娘、大野くんの妹? 嘘でしょ? ねぇ、嘘でしょ?」

「どういう意味だ」


 愛を見た途端、千代は興奮したように飛び跳ねた。


「の、野山さんですね? はじめまして、大野愛でふぎゅっ」

「すごい礼儀正しくていい娘じゃん! 絶対に嘘でしょ!」

「あははは」


 千代に抱きしめられ、困惑した愛の挨拶もそこそこに、一行は石段を上り始めた。


 石段レースは、あゆむと信一。千代と愛の反対を受け、開催されなかった。


「怪我の具合はどうだ? あゆむ」


 上りながら、信一が口を開いた。


「まだちょっと痛むかな。信一は?」

「俺もだ。ま、この石段もリハビリにはちょうどいいな」


 お互いに包帯を巻いたあゆむと信一は、先日の闘いを思い出し、笑った。


「あの、野山さん」

「なに? 愛ちゃん」


 となりに並ぶ千代に、愛が声をかけた。


「その振袖って、自分で着たんですか?」

「そうだよ。小さい頃に着付けを教わってね。よかったら、今度教えてあげようか?」

「いいんですか! お願いします!」


 会ったばかりだというのに、女子二人の距離は思いのほか縮まっていた。


「おい、義雄。ペース下げろって!」

「はやく行こうぜ。腹減ってきてよ」

「お前、餅十個食って来たって言ってなかった?」

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 義雄の発言に、忠は絶句した。


 一段ずつ上るごとに、冷たい空気が肺に広がる。

 心地の良い疲労感が足に伝わり、自然と体が動いた。

 あゆむは石段を上ることで、自分の変化を改めて実感した。


 ゴリラになったことで、自分を取り巻く環境は変わった。

 

 それは決して良いことばかりではなかった。


 けれど、得たものは大きかった。


 大切な人を守れる力と、新しい友情。

 

 どれもかけがえのない宝物だった。

 

 進むにつれて、見たことのない世界が広がる。


 振り返ると、辿ってきた道が誇らしげに伸びている。


 この石段に、あゆむは自分の人生を重ねていた。


 もうすぐ、頂上に着く。


 でもそれは、新たな始まりでもある。

 

 千代たちが、なにを願うか話し始めた。

 

 口にはしないが、あゆむの胸にはすでに願いが決められていた。


 立派なゴリラになれますように、と。

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朝起きたらゴリラになってました。〜不良も倒すし好きな人も助けるしゴリラ最高です!〜 末野ユウ @matsuno-yu

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