第25話

「ふあ~、ねむい」


 リンゴを丸ごと飲みこみそうな大口を開けて、あゆむはあくびをした。


 帰宅後すぐに寝るつもりだったのだが、興奮が抜け切れなかったのか、あまり眠ることができなかった。


「ちょっと大丈夫? 寝不足?」

 となりで歩く千代が、顔を覗きこんだ。

「そうなんだ。カラ……べ、勉強してて」


 いつもなら千代の眼差しから目が離せなくなるあゆむが、目を逸らして言った。


「ふーん、そ、そうなんだ。無理しないでよね?」


 なにをしていたかは知らないが、英梨からの連絡で嘘だと知っている千代は、自分にも隠し事をする幼馴染に悲しさを覚えていた。


 本来なら、二人きりでの登校はうれしくもあり幸せな時間なはずなのだが、この日はどこか気まずい空気に包まれていた。


「あ! あゆむくぅん! おはよぉ!」


 千代にとって、最もお呼びでない人物が現れ、恥ずかしげもなくあゆむに抱きついた。


「んなっ! ちょ、ちょっと、なにしてるの!」

「あはは。おはよう、支倉さん」


 慌て、怒りがこみ上げてきた千代をよそに、あゆむは当たり前のようにミミの抱擁を受け入れ、優しく頭を撫でた。


「え! な、なに? あゆむ……なにしてんの?」


 あゆむの思わぬ行動に、千代は混乱し、怒りは悲しみに塗り替えられた。


「支倉さんって、母子家庭だからお父さんみたいな人に憧れるんだって。ま、まぁ、僕が代わりになれるとは思わないんだけどね。僕もゴリラになる前は、いろんな人に頭撫でられたりしたけど、まさか自分が撫でる側になるとは思わなかったよ」


 あゆむが浮かべる照れ笑いを、千代は直視することができなかった。


 自分でも気づかないうちに涙が溢れ、なにも考えることができなくなった。どうしたらいいのか、自分がどうしたいのか、わからなかった。


「そ、そっか。ごめん、先に行ってるね」


 なんとか口にできた言葉を置いて、千代は学校へと駆けて行った。

 そのあとに、物言わぬ風が落ち葉を舞い上げ、あゆむの体に寂し気に触れた。


「千代ちゃん? ま、待って」

「きっとお腹が痛くなったんだよぉ。女の子にはいろいろあるんだからぁ、ほっといてあげなよぉ。ほらぁ、ミミといっしょに行こうよぉ」


 あとを追おうとしたあゆむを、ミミは小さな体を押しつけ、とろりとした口調で止めた。


「う、うん……そうなのかな」

 あゆむの腕を抱いて歩き始めたミミの顔は、この上ない充足感に満ち溢れていた。

「お、おはよう早乙女」

「おっすー」

「おはよう、あゆむくん、ミミ~」


 ミミに合わせてゆったりとしたペースで歩いていると、上島と飯田、古賀の三人が、途中のコンビニで待っていた。


「おはよう、みんな」

「おはよぉ」

「お、おい。ミミ、くっつき過ぎだろ」


 上島が、苦い顔で言った。


「えーだって寒いしぃ、あゆむくんの腕、太くて立派ですごいんだもぉん」

「……っち」


 明らかに不機嫌になった同級生に、あゆむは慌て、罪悪感を感じた。


「ご、ごめん。ほら、支倉さん。離れて」

「えー、いいじゃん。っていうかぁ、いつになったらぁ、ミミって呼んでくれるのぉ?」


 ミミは離れようとせず、頬を膨らませた。


「いや、その、恥ずかしいからさ」

「……野山さんのことは、名前で呼んでるのに?」


 ミミの目つきが少しだけ険しくなったことに、あゆむは気づかなかった。


「ま、まぁ、千代ちゃんは特別っていうか。幼馴染だし」

「……ふぅん」


 不服そうに目を逸らすと、ミミはあゆむから離れ、古賀のところへ行った。


「っていうかさ、学校ダルくね? このまま遊び行かね?」


 飯田が、あくびをして言った。


「あー、賛成! もう試験範囲も発表にされたし、授業もテスト勉強ばっかじゃん」

 古賀が手を挙げて賛同した。

「お、いいなそれ」

「ミミもいくぅ!」


 次々にサボりが決定していくなか、あゆむだけが慌てていた。


「ダメだよ! 学校サボったりなんて、そんな」

「気にすることねぇって。俺たち友達だろ? 早乙女もいっしょにいて、なんかあったとき守ってくれよ」

「それはサボらなければいいんじゃ」

「大丈夫だって。俺たちが、男の遊びを教えてやるよ」


 あゆむの説得を遮るように、男子二人が誘った。

 特に「男の遊び」というフレーズは、あゆむとって大きな憧れと魅力を持って誘惑した。


「それにぃ……きのうはじかんがなかったけどぉ、ミミ、あゆむくんとぉ、もっとなかよくなれることしたいなぁ」


 猫のようにあゆむの背中を上り、ミミが甘い声で囁いた。


「え、そ、それってどういう……」

「いっしょにきてくれたらぁ、いろいろわかるよぉ。きょうのミミのしたぎぃ、かわいいやつなんだぁ」


 全身が熱くなり、頭がくらくらと揺れた。


 雄としての本能がくすぐるように刺激され、自制心は小さくなっていった。


「じゃ、じゃあ、今日だけ」

「待て!」


 あゆむは声に殴られたような気がした。


 見ると、信一、忠、義雄の三人がこちらを睨んで立っていた。


「み、みんな」

「な、なんだよ大野。いきなり」

「黙ってろ」


 飯田が吠えたが、義雄のひと睨みで大人しくなってしまった。


「なぁ、早乙女。ちょっと俺たちに付き合ってくれないか?」


 信一の口調はいつもと変わらなかったが、その表情は怒りに染められ、矛先はあゆむを含めた全員に向けられていた。


「い、いや、その」


 あゆむは、久しぶりに信一へ恐怖を感じていた。


 今なら、喧嘩をしても一方的にやられることはないとわかっていた。しかし、信一の目を見ただけで足がすくみ、なにも言えなくなってしまった。


「なんだよ。今から学校行くだけだろ? 俺たちといっしょに行こうぜ。そのついでに、話があるだけだからよ。それとも、俺たちよりもそいつらと遊びに行くほうがいいか?」


 すべてを見透かしたような言葉に、あゆむはぞっとした。


「そうよ!」


 肉食獣を前にした草食動物のような一行の中で、ミミだけが甲高い声を上げた。


「あゆむくんは! いまから! ミミたちと遊ぶの! 邪魔しないでもらえる?」


 上島と飯田はぎょっとしてミミを見つめ、古賀はうつむいたまま動かなかった。


「……そうか」


 信一のハイエナの耳が、どこか寂し気に動いた。


「なぁ、早乙女。俺たちはべつに、お前がだれと遊ぼうが知ったこっちゃねぇし、うるさく言うつもりなんてねぇんだよ」

「じゃあ、黙っててよ!」

「ただな、女泣かすのはどうなんだ?」


 ミミの声のほうが鼓膜を刺激するはずなのに、あゆむの耳には信一の言葉が響いていた。


「え? どういう」

「ここに来る途中、千代姫と会ったんだよ。あゆむきゅん、あのときあんなに必死で守った女の子を、泣かせちゃダメじゃない」


 あゆむは混乱していた。


 どうして信一たちがこんなに怒っているのかさえわからないのに、自分が千代を傷つけてしまっていたなんて、信じられなかった。


「こっち来いよ、早乙女!」


 なぜか泣きそうな顔になっている義雄の声が、辺りに響いた。


「なぁ、今だけでいい。俺たちを信じてくれないか? 始まりは条件だったけど、俺たちはお前と友達になったと思ってる。お前のためになることを、やらしてくれねぇか」

「……わかった」

「あゆむくん!」

「ごめんね、支倉さん。また今度ね」


 ミミの声では、あゆむの足を止めることはできなかった。

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