第40話

「すいませんでした……」


 あゆむたちから離れ、伊織と共に階段を下りていた風花が、か細い声で言った。


「あら、なんで謝るの?」


 対して伊織は優しい笑顔をしている。


「今回の件は、私の見通しの甘さで会長のお手を煩わせてしまいました。いらぬ非難も浴びさせてしまいました。すべて計画したのは私なのに」


 風花の胸には罪悪感と、自身の無力さが横たわっていた。

 無意識のうちに、ヒビ割れたレンズの奥から涙がこぼれる。


「なに言ってんの。ボロボロになって、一番頑張ったのはあんたでしょう? 好きな人に嫌われるようなマネまでして。それに、結果を見れば上々よ。胸を張りなさい。風花」


 大きく分厚く、けれどきれいな爪の手が、風花の頭を優しく撫でた。


「はい……ありがとうございます」


 風花は言いようのない安心感から、涙を流しながらもなんとか笑みを浮かべた。


「そうそう、だれでも笑顔が一番よ。必要なことは全部わかったんでしょ?」


 風花の笑顔を確認すると、伊織も嬉しそうに笑った。


「はい。彼の暴走への条件は、怒り。限定はできませんが、野山さんが危機に晒されると、高い確率で我を忘れます。それともうひとつ。恐らくは、一定以上のダメージを負ったあとでないと、暴走はしません」


 涙を拭い、いつもの冷静さを取り戻した風花は、成果の報告を始めた。


「あら、どうして?」

「野山さんが誘拐された直後、彼は暴走することなく捜索をしたと聞きました。そのうえで単身乗りこみ、袋叩きのあと暴走したと。今回も、私にとどめの一撃をくらったあとに、暴走状態になりましたので、間違いないと思います」


 風花はヒビの入った眼鏡を上げた。


「それなら、とりあえずは一安心かしらね。あの子にそんなに手傷を負わせられる奴なんて、限られているでしょうし。さて、あんたも怪我の治療を」

「ぬああああああああああ!」


 伊織が一階まで下りた瞬間、廊下に裏返った叫びが響く。


 階段横に置かれた掃除道具入れの中から、古いモップを振りかざした男子生徒が、伊織に襲いかかった。


「会長!」


 風花が声を上げたと同時にモップの先端が伊織の頭に直撃し、衝撃で先端が折れ、弾け飛んだ。



「みんな、ありがとう」


 義雄に肩を貸してもらいながら、あゆむは保健室までの道を歩いていた。

 信一と忠は前後を歩き、義雄と反対側では千代が心配そうに見上げている。


「いいんだよ。っていうか、特になにもしてねぇ」


 信一がバツが悪そうに言った。


「見事に返り討ちに遭ったもんねぇ」

「情けねぇ……」


 忠と義雄も、苦笑いを浮かべた。


「でも、あのときみんなが来てくれなかったら、どうなってたかわからないよ」


 あゆむは沈んだ表情をしていた。


 水谷たちのときは、敵を倒し千代たちを救えたことで、暴走したことをそれほど危険だとは思っていなかった。少なくとも、手を上げる相手くらいは分別がついていると思っていた。


 しかし、現実は違う。


 風花のような女の子に手加減もせず、本能のまま襲ってしまった。下手をすれば、償いきれない事態になっていたかもしれない。

 それに、どれだけ伊織に痛めつけられようと、暴走したあゆむは攻撃を止めなかった。もし、あのまま戦うことをやめなかったら、再起不能になっていた可能性だってある。


 誇らしく感じていたゴリラの力に、あゆむは言い様のない恐怖を抱いていた。


「……強くなろうよ」


 あゆむの手を握って、千代が言った。


「今のままじゃ、あゆむもみんなも辛いよ。だから、強くなるしかないよ。あゆむも、私も、みんな」


 握られた小さな手が、かすかに震えていた。


「そうだな。このままじゃいけねぇ」

「うん、だね」

「筋トレ増やすか……」


 千代の言葉に焚きつけられたように、信一たちも頼もしい笑顔を浮かべてくれた。

 

 嗚呼、僕はこの娘にいったい何度救われるのだろう。

 

 千代の振り絞られた勇気と覚悟が、あゆむの中で希望に変わった。


 きっと、一人ではなにもできない。

 けれど千代となら、みんなとなら乗り越えられる。

 根拠なんてない。でも、たしかな自信が湧いていた。


「うん。僕も、頑張るよ」

「うん。じゃあ、はやくその怪我治さないとね」

「なぁ、ところでよ」


 腕を組み、首をかしげた義雄が口を開いた。


「どうした?」

「あのラブレターって、あの先輩が書いたんだよな?」

「そうだよ。まぁ、嘘だったけど」

「じゃあよ、早乙女の私物盗んでたのも、あの先輩なのか?」

「「「「……あ」」」」


 全員が足を止め、一瞬言葉を失った。


「そうだ。ストーカーの件が終わってない!」

「生徒会がそんなキモイことするわけないし……」

「他にいるってことよね? あゆむ、とりあえずお尻に気をつけて!」

「だからそれどういう意味?」


 すっかり忘れていた案件を思い出し慌て出した一行の中で、千代のうさぎの耳だけが、どこかの裏返った叫び声を聞いていた。

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