第46話

 あゆむにとって、夢のようなクリスマスイブから三日後。

 先日までその余韻で緩みっぱなしのあゆむだったが、この日は違う。


 怒りに燃えた獣の顔。


 暴走しない自分が不思議に感じるくらいだった。

 朝早く、スマホに見知らぬアカウントからメッセージが届いた。

 その内容は、あゆむからイブの幸せを完全に吹き飛ばした。


「野山千代は預かった。返して欲しければ、我々の指示に従え。午前十時。迎えの者が行く。だれにも言わず、自宅で大人しく待っていろ」


 あゆむは危うくスマホを握り潰しそうになった。

 英梨は朝から昨日単身赴任から帰ってきた父と、二人で過ごせなかったクリスマスのリベンジと言って出かけた。

 静かな家の中にあゆむの煮えたぎる怒りと、近づいてはいけない野生の匂いが充満している。

 チャイムが鳴った。

 時間は午前十時。メッセージにあった迎えの者だろう。


 あゆむの準備は万全だった。

 動きやすいトレーニングウェアに着替え、黙々とストレッチを行っていたところだ。

 もし、迎えの者が襲いかかってきたとしても、今のあゆむに迎撃は容易だった。


「……はい」


 あゆむは玄関のドアをゆっくりと開け、敵の来訪を鋭い眼光で迎えた。


「おっはよう……ってどうしたの? すごい怖い顔してるけど」


 来訪者は、誘拐されているはずの千代だった。


「え……えぇ! なに、どういう……あ! もしかして偽物!」

「ちょ、ちょっと! なんなの、あゆむ。落ち着いてよ」

「……本物の千代ちゃんっていう証拠は?」

「えーっと、小学三年生のときに海で溺れたあゆむが、無我夢中でわたしの水着を掴んじゃって、脱げそうで恥ずかしかった思い出はどうでしょう?」

「ごめんなさい、本物です……」


 あゆむは頭を下げると同時に過去を思い出した恥ずかしさと、無事だった安堵を噛みしめていた。


「よしよし。ねぇ、ところで今のはどういうこと? あゆむの態度もおかしかったし、なんでわたしの偽物の話になるわけ?」


 あゆむは千代にメッセージを見せ、事情を説明した。


「なにそれ? わたしはこの通りだし、あゆむをこの時間に迎えに行くように、新島くんから言われたんだけど」


 千代は首をかしげ、うさぎの耳をピコピコと動かした。


「新島くんが? なんで?」

「忘年会しようって。あゆむをこの時間に迎えに行って、いっしょに学校まで来てくれってさ。あゆむにも連絡してるって言ってたのに、聞いてないの?」


 先ほどまでの熱が一気に冷め、なにがなんだかわからないあゆむは、黙って頷いた。


「だから、どうせイタズラだとは思うんだけど、ちょっと悪質過ぎるよね」


 千代は不機嫌を隠そうともせずに言った。

 あゆむも、千代の言葉には賛同した。いくらなんでも、冗談の域を超えている。


「でも、新島くんがこんなことするとは思えないし」


 今までの経緯を知っているはずの忠が、あゆむが最も傷つき怒りを覚えることをするとは思えない。

 それは信一や義雄であっても同様で、あゆむは三人になにかあったのではないかと、その身を案じた。


「まぁ、考えたって仕方ないし、とりあえず言われた通り学校に行ってみようよ」


 千代の言葉に従って、あゆむは家を出た。


 雪の積もる外はトレーニングウェアだけでは寒く、ダウンジャケットを羽織った。いつもの道は踏み固められた雪で滑り、ゴリラになってから初めて経験するあゆむは、バランスが難しく転ばないように必死だった。

 千代に笑われながら進み、あゆむはどうにか校門までたどり着くことができた。


「まだ着いてないのかな?」

「まさか、学校の中で待ってるわけじゃないでしょうし」

「いえ、そのまさかです」


 校門の影から現れた女子生徒に、二人は驚いて飛び上がった。


「うひゃあ!」

「み、南先輩?」


 現れた女子生徒は、先日あゆむと一戦交えた生徒会執行部副会長、南風花だった。

 風花は制服に黒いコートを羽織り、乳白色のマフラーを巻き、カンガルーの太い尻尾には防寒用の布が巻かれている。


「どういうこと?」

「っていうか、また生徒会が絡んでたの?」


 驚きと警戒心を隠せないまま、二人は風花を見つめた。

 風花は校内におり、あゆむたちとは校門を隔てて向かい合っていた。


「まぁ、その話は歩きながら。今開けますね」


 風花は無表情のまま、重たい鉄の扉を軽々と開けた。


「どうぞ、お入りください」


 風花はほっと白い息を吐くと、まるで自分の家のように二人を招き入れた。

 あゆむたちが戸惑いながら敷地に入ると、風花は再び鉄の扉を閉めた。


「あの、いろいろ聞きたいんですけど」

「わかっています……その前に、お二人には先日のことを、一度ちゃんと謝らなければと思っていました。本当にごめんなさい」


 風花は長い髪を揺らし、深々と頭を下げた。


「たしかに、やり方は過激だったと思います。でも、先輩たちの学校を思う気持ちは本物だと思います。僕が危険じゃないとわかってくれたのなら、それでいいですよ」

「わたしは……存在を利用されただけですし。あゆむがいいなら、わたしから言うことはないです」


 二人は顔を見合わせて、風花に頭を上げるように促した。


「ありがとうございます。その……虫が良い話だとは思いますが、これからよろしくお願いします。野山さ……あなたたちとは、その、いい関係になりたいと思っているので」


 顔を上げた風花は、少し気まずそうに言った。


「もちろんです、先輩」

「僕のほうこそ。でも、ラブレターが偽物だったのは残念だったなー」

「それってどういう意味~?」

「いててて」


 ふざけたあゆむの頬を、千代が指でぐりぐりと押した。


「ふふふっ」


 二人の様子を見ていた風花が笑った。

 その姿は学園のマドンナに相応しく、可憐で美しい。

 あゆむも千代も、不意に訪れた一瞬の奇跡に目を奪われ、言葉を失った。


「……なにか?」


 二人が自分に見惚れたなどとは思っていない風花は、いつもの無表情に戻り首をかしげた。


「い、いえ」

「なにも」

「では、行きましょう。歩きながら、今日のことを説明します」


 凛々しく歩くうしろ姿を見つめながら、千代はラブレターが偽物でよかったと心から思った。

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