第16話
「うおおおお!」
「でけぇ! ゴ、ゴリラだ!」
「黙れお前ら!」
迫力満点の類人猿の出現に慌てる手下たちを、水谷が一喝した。
「来るんじゃないかと思ってたぜ、ゴリラくん。この三馬鹿から金取り返した、うさぎちゃんの彼氏だろ?」
水谷は、荒い息を吐くゴリラの出方を窺った。
しかし、その声はあゆむの耳には届いていなかった。
信一たちを見失ったあゆむはタクシーを拾い、二丁目の廃工場を手当たり次第に探して回った。ようやく見つけたのだが、目の前の光景に言葉を失っていた。
ボロボロになった信一たち。
その奥で、あられもない姿になっている幼馴染。
あゆむはこの場所でなにが起きたのか、そしてなにが起きようとしていたのかを理解した。
「ごめん。大野くん、新島くん、津川くん。僕、きみたちのこと誤解してた。僕がちゃんと話を聞いて、余計なことをしなければ、こんなことにはならなかったのに」
「早乙女……んなことはいい。逃げろ、いくらお前でも無理だ」
信一が動かない体で言った。
いくらあゆむがゴリラでも、喧嘩慣れもしておらず、残った十人以上の相手とスタンガン。そして水谷がいるこの状況では、勝ち目がないと思っていた。
「そんなわけにはいかないよ。だって、僕のせいで」
「逃げて、あゆむ!」
千代が涙を流し、腹部の痛みに耐えて叫んだ。
本当は、助けに来てくれたことがうれしくてたまらなかった。
しかし、目の前であゆむが傷つくのは、自分が汚されるよりも耐えられなかった。
「そうだな。そんな震えたゴリラじゃあ、どうすることもできねぇだろ。でもな、俺たちが黙って逃がすと思うか?」
言われて初めて、あゆむは自分が震えていることに気がついた。
勇んで踏み入れたが、湧き上がる恐怖が全身を巡っていた。
しかし、やらなければならない。
勝てる勝てないの問題ではなく、自分が自分であるために。
ここで逃げれば一生後悔することを、あゆむは理解していた。
だからあえて、手下のヤンキーたちが自分を取り囲むまで待ち、自ら退路を断った。
「馬鹿野郎……」
信一たちは、あゆむの勇気を理解しつつも、無謀とも言える行動を嘆いた。
「大丈夫。僕だって戦えるんがああっ!」
覚悟を決め、拳を構えたあゆむの背中に、焼けた刃物で切り付けられたような痛みが走った。
犯人は北尾で、スタンガンをひけらかしながら馬鹿にした笑顔を浮かべていた。
「ぎゃははは! おら、もう終わりかよ!」
膝をつき、背中を丸めたあゆむを、男たちが容赦なく殴り蹴飛ばした。
「やめてぇ! もう……やめて」
千代は涙を流し、震える声で叫んだ。
男たちが手を止めると、あゆむは懸命に立ち上がり、水谷を睨んだ。
「あはははは! がんばるじゃねぇか。ほら、ゴリラくん、そこで彼女が犯される様子を見てな」
水谷が千代の耳を掴み、無理やり顔を上げ、煽るように頬を舐めた。
「千代ちゃん!」
その瞬間、あゆむの中でなにかが切れた。
痛みが消え去り、全身の毛が逆立った。
頭の奥底から一つの衝動が生まれ、肉体のすべてを支配していった。
ぶっ殺してやる。
「オオオオオオオオオオオ!」
雄叫びを上げ、あゆむは胸を叩いた。
ドラミングという、ゴリラ特有の威嚇。
分厚い胸板を叩くことで生まれる独特の音が、サイレンのように響いた。
自然界でこの音を出すことができるのはゴリラだけである。この音が聞こえるということは、臨戦態勢のゴリラに襲われる危険があることに他ならない。
ゴリラが発する、最後の警告音。
アニマを経た人間は、少なからず動物的本能が強くなっている。
主に闘争本能や食欲、性欲が挙げられるが、同時に強者や命の危険に対する危機回避の能力が上がると言われている。
それはこの場にいる者も例外ではなく、手下たちはこの音が持つ意味を本能で理解し、震え、動けずにいた。
「なにビビってんだ、てめぇら」
その音を、鼓膜をひっかくような振動音が塗りつぶした。
音の発生源は、細かく震える水谷の尾先だった。
ゴリラのドラミングのように、独自の威嚇音を発する蛇がいる。その存在こそ、水谷のアニマであるガラガラヘビである。
水谷はあゆむのドラミングをかき消し、手下があゆむに抱いていた恐怖心を自分に塗り替えた。
「おら、さっさとやれ」
水谷への畏怖が蘇った手下たちは、言われるがままあゆむに襲いかかった。
「やめてー!」
千代の悲鳴がこだまする。
「くそっ」
信一たちも顔をしかめた。
先ほどのダメージもある。あゆむに勝ち目はないと諦めていた。
「ぐぬんっ!」
次の瞬間、彼らの目の前で鈍い悲鳴と血を流し、その場で気を失ったのは襲いかかった手下の一人だった。
「……え?」
男は、あゆむの岩のような拳を頭にくらい、地面に叩きつけられ血を流していた。
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