第5話 とある春の日の窮地

 俺はついに念願のベンチへと舞い戻ることができた。無事に、とはまったくほど遠い形で。


 目前には、寒気がするほどのきれいな笑みを浮かべた斎川が立っている。


「それで? 誠実さがウリの國木頼仁君は、こんなところで何をしていたのかしら? まさか盗み聞きなんていう高尚な趣味をお持ちだったなんて」


 その口調はどこまでも丁寧で落ち着き払っていた。いつもよりちょっと高い声色がまた、一層恐怖を感じさせる。


 落ち着いて話を聞かせろ。正確にはそんな言葉ではなかったが、意訳するとそんな感じ。つまるところ、脅迫めいた要求。

 当然、こちらが100パーセント悪いので従うほかなかった。開放感があって気持ちいはずの中庭なのに、冷や汗がずっと止まらない。


「ええと、それは……コ、コンタクト! コンタクトをちょっと落としちゃって」

「まあ! それは大変。一緒に探してさしあげましょう」


 ニコッと微笑む女神。もはやまた別の方向性で、いつもの雰囲気とは違う。


 そんあキャラ崩壊を前にして、ついツッコミ心が疼く。もちろん、それは必死に抑え込む。妙なことを口走ればどうなるかはわかったもんじゃない。相手はいつもの相棒じゃないんだ。


「いや、斎川さんの手を借りるほどのことじゃ……ほら、何か用事とかあるだろ。全然帰ってくれて大丈夫だから」

「気にしないで、あたしこの後暇だから――って、聞いていたと思うけど」

「さ、さあ。何の話でしょう」

「目が泳いでる。ヘタね、ごまかすの」


 ふん、と斎川は鼻を鳴らした。声のトーンもすっかり低くなっていた。さっき聞いた独り言とほとんど変わらない。その顔からは笑みが消え、軽く眉間にしわが寄っている。


 普段の斎川瑠美奈――それこそ『女神』称される姿からは想像できない雰囲気だ。でもきっとこれが素なのだろう。

 もしかしたら、丸林辺りは卒倒するかもしれない。でも不思議と俺は、親しみやすさを感じていた。


「はっきり言いなさい。一部始終聞いてたんでしょ」

「……まあその、はい」

「はぁ。あたしとしたことが、まずったか。誰もいないと思ってつい気を抜いた」


 ぐっと顔をゆがめて、斎川は苦々しく呟く。悔しさが全身からにじみ出ていた。

 まあ独り言なんて誰にでもあるだろうし、そんな恥じるようなことじゃないと思うんだが。まあ、斎川らしい悩みといえばらしい。


 だが、斎川はすぐに表情を変えた。どこかむすっとした感じに、俺に視線を向ける。


「で、どうしたら黙っててくれる? あたしにできる範囲でなら、なんでもするわ」

「そんな大げさな。斎川がまた告白されたなんて話、初めから言いふらすつもりはないさ」

「…………え? ああ、そっちはまあ別に。先輩にはちょっと悪いけど、何事にもリスクはつきものだろうし。じゃなくて、あたしの独り言、というか、その」

「猫被ってたって話?」

「はっきり言うな!」


 元女神様は顔をちょっと赤らめて声を荒らげた。見開かれた目は、少しだけ売るっとしている。

 その姿は俺の目にとても真剣に映った。案外、わかりやすいところがあるのかもしれない。


「別にそっちでも答えは変わらない。だいたい俺がそんなこと言ったところで、誰も信じないさ。斎川と俺じゃあ、周りからの信頼度が違う。その心配は杞憂さ」

「……あなたの人の好さはわかっているつもりだけど、信じられると思う?」

「そればっかりはなんとも。ってか、人が好いって、俺が?」

「違った? 馬鹿がつくようなお人よしだと思ってんたんだけど」


 お人よしといわれると、褒められている気はしない。いや、もともと皮肉っているんだろうけど。


 第一、斎川は俺のどこを見てそんなことを思ったんだろう。同じクラスになってからも、今日までたいした接触はなかったのに。


「とにかく、この件は――」

「やいっ、ライジン! てめぇ、取材サボってなにしてやがる」


 ばんっ――勢いよく、出入り口の扉が開いた。

 激しく叫びながら、猛然と俺たちのもとへ突進してくる奴が一人。


 ……これはまた面倒な奴がきたもんだ。その姿を眺めながら、俺は心の中で深くため息をつくのだった。



     ※



 狭い教室の中央、その応接セットらしきソファに、俺と斎川は並んで座っていた。ほかの顔触れは丸林と――


「芯クン。新聞部の部室は部外者の溜まり場じゃあないんだぜ?」

「部長普段から言ってるじゃないっすか。こんな部屋、我が弱小部には無用の長物、宝の持ち腐れ。こんな時こそ有効活用しないとっすよ。しかも客人の一人は、校内人気ナンバーワンですし」

「……斎川瑠実奈さん、ね。まあ、見学も冷やかしも本当は大歓迎さ。もちろん、二回目でもね」


 そう言って、新聞部部長はこちらを一瞥した。どうやら向こうは俺のことをしっかりと覚えていたらしい。こちらは今朝思い出したのだが。


 丸林に見つかってすぐに、俺たち三人はこの新聞部室にやってきた。部室を見てみたい、そんな風に先手を打った斎川の一手により。


 どこかミステリアスな雰囲気を醸し出す部長さんは、すくっと立ち上がった。出口の方に歩きかけてから、丸林の方を振り返る。


「じゃあちょっと出てくるから。芯クン、くれぐれも失礼のないように」

「了解しやした」


 ちょっとだけ困ったような顔をして、彼女は部屋を出ていった。颯爽と、その言葉がこれ以上ないくらいにしっくりとくる。


 部屋の中に微妙な空気が流れだす。最もおしゃべりな男も、ついてくるとのたまった女神様も話し出すそぶりはない。


 結局、気まずさに耐えかねたのは俺だった。


「で、丸林。なんかいいネタは見つかったか?」

「まあそれなりにはな。弓道部の道場裏にエロ――いかがわしい本が落ちてたとか」


 丸林はもう一人の人物を見て表現を変えた。でもそれは、無駄な配慮だと思う。


「ライジン君が俺を出し抜いている間、一生懸命働いてたんでね」

「お前は正規の新聞部なんだから当たり前だ。それに、さっきから言ってるが、そんなんじゃないって」

「嘘つけ。楽しそうにしゃべってんの、上から丸見えだったぞ」

「斎川さんからも何か言ってくれよ」

「そうだよ、丸林君。たまたま中庭であって、それで世間話してただけだから。國木くん、退屈してたみたいだし」


 俺と話していた時の姿はどこへやら。斎川はすっかりいつもの姿で、丸林に微笑みかける。


 事ここに至ると、俺としては違和感が半端ない。


「まあ、斎川さんの言うことなら信じるけどさ。にしても、退屈ってのはないだろう。お前、もともと暇だったんだしよ」

「あてもなく校舎を彷徨うことのどこに楽しみを見出せばいいんだ?」

「自分をスパイだと思うとか」

「ふふっ、丸林君ったら」


 斎川の愛想笑いだけが部室に響いた。それはたぶん、俺が彼女の真の姿を知っているからそう感じただけなんだが。


 それにしても、やはり居心地が悪い。ここが新聞部のアジトだから、ではなく、隣の人物の存在が気がかりすぎる。


 先ほどから、斎川はちょくちょくひっそりと視線を送ってくる。おそらく監視のつもりだろう。俺が余計なことを口走らないように。


 けれど、それは全く必要のないことだ。

 だから俺は席を立った。


「さてと、そろそろ俺はお暇しようかね」

「……お前、家入れないんじゃないのか?」

「姉貴に連絡がついたから何とかなるさ」


 そう嘯いて、俺は荷物を持ち上げた。

 斎川に無駄な時間を過ごさせるのは悪い。とっくに冬は終わったし、まあなんとでもなるだろう。


 二人に別れの言葉を告げて、一人新聞部室を出る。部活棟の辺境の地であっても、賑やかな声がかなり聞こえてくる。


 俺も何か部活をやってればよかったか。そんな微塵にも思っていないようなことを考えながら校舎を歩く。


「待って、國木君!」


 階段を降り切って一回まで来たとき、誰かに呼び止められた。

 ゆっくりと振り返ると、そこには斎川がいた。急いできたのか、長い髪が少しだけ乱れている。


「暇を潰せる場所を探してるなら、いい場所知ってるけど」


 そう言って、斎川はいたずらっぽく唇の端を上げた。

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