第32話 いざ決戦へ

 支度が整って姉貴の部屋の前に立つ。トントンとノックしながら、ドア越しに声をかけた。


「ちょっと出かけてくる」

「はいはーい。帰りはいつ?」

「夕方くらいかな」


 曖昧な言葉を残して、その場を離れた。正直、今日のスケジュールについてはよくわかっていない。決まっているのは、正午ごろに駅前集合ということだけ。


 現在時刻は十一時をちょっと回ったところ。余裕は十分にとってある。よほどのことがない限り、遅刻はあり得ない。


「ありゃ、そんなにおしゃれしてどこ行くの?」

「……ちっ。わざわざ出てこなくていいのに」


 玄関で靴を履いていると、後ろから声がした。紐を結ぶのにやや手間取ったのがよくなかった。


 立ち上がって振り返る。案の定、我が姉君は壁にもたれながら下世話な笑みを浮かべていた。


「ずいぶんな口の利き方。ま、聞かなかったことにするけど。で、今日のご予定は?」

「街に行くんだよ。いいだろ、別に」


 ぶっきらぼうに答える。本音を言うと、いち早く振り切って家を出たい。


 だが、姉貴は全く納得していないようだ。わざとらしく、ちょっと首を傾げた。


「相手はマルちゃん……というわけじゃなさそう」

「いや、丸林だよ」

「ウソウソ。にしては、小奇麗なカッコしてるもん」

「……それはアンタの気のせいだ」


 あえて語気を強めて正面を向きなおす。こんな尋問にこれ以上は付き合っていられない。

 

 ドアノブをがっちり掴んで、一歩を踏み出す。さっきから少し息苦しい。


「行ってきます」

「行ってらっしゃーい。デート、楽しんできてね」


 バタン。

 脱出には無事成功。だが、最後の一言はあまりにもインパクトがありすぎた。


「…………はぁ」


 ぴたりと閉じた鋼鉄の扉を睨みつけながら、一つため息をつく。じっと見ていると、向こうでほくそえむ姉の姿が目に浮かぶようだった。


 いつまでもこうしているわけにはいかない。帰宅後が恐ろしいが、もうすべては終わったこと。

 気を取り直して近くのバス停へと急ぐ。予想以上に時間を食ってしまった。スマホを見ると、かなりギリギリだ。


 最終的には走る羽目に。脚に少しばかりの疲労を感じながら、タイミングよく来たバスに乗り込む。もちろん、行先の確認は怠らない。


「発車します」


 アナウンスを聞きながら、手近な席へと腰を下ろした。車内の込み具合は疎ら。うちの最寄りは始発に近い方だからだいたい空いている。


 バスの揺れに身を委ねつつ気持ちを落ち着ける。やはり姉貴に黙って家を抜けだせばよかったか。だが、それをすると後が本当に面倒くさい。

 ただでさえ、今日の用事に緊張しているというのに。余計なトラブルはマジでごめんだ。


 窓に頭を軽く当てて、ふと昨日の放課後のことを思い出す。それだけで、心拍数がまた上がっていく。


『映画とかどう?』


 唐突に遊びに誘われた後、俺がなんとか絞り出したのは『何をするんだ?』という質問だった。

 動揺したままのこちらとは対照に、斎川ははとても冷静に言葉を返してきた。もしかすると、初めから計画していたのかもしれない。


 その後、再びどうするかを聞かれて、俺は反射的に首を縦に振っていた。そして、今日の予定が決まったわけである。


 それにしても、あいつはいったいどういうつもりなんだか。

 百歩譲って、勉強会の件はわかる。口封じという名目――それはもう有名無実化しているともいえるが。


 けど、一緒に遊びに行くってのはなぁ。

 そもそものご褒美からして謎だ。てっきりあれは、こちらにをかける冗談だと思っていたのに。


 まあ、他人のことがわからないなんて今に始まったことじゃない。中でも、斎川瑠実奈はより複雑な部類に入る。


 第一、わからないっていうんなら自分だってそうだ。どうして、俺は断らなかったのか。あの瞬間、そのたぐいの言葉は少しも頭に浮かばなかった。

 どうせ用事があったわけじゃない。土日はだいたい家でゴロゴロしている。それを考えれば、ずいぶんと建設的な過ごし方だと思う。


 でも斎川の提案を受け入れたのは、そんな消極的な理由だけじゃない。たぶんそれは、あいつを家に誘ったときと同じ感情から。


 あれこれと考えているうちに、バスは終点である駅前へと到着する。他の乗客が全て降りるのを待ってから立ち上がる。


 一応、時間を確認しておく。出かける前に調べたのとほぼ変わらない到着時間。つまり、待ち合わせまであと15分以上あるわけだ。


 土曜日だけあって、辺りはかなり人で賑わっていた。

 波に混じって、ゆっくりと駅に向かって歩く。待ち合わせの場所は南口広場にあるモニュメント前。丸林曰く、だいたいみんなそれを目印にするとか。


 しかし、この辺に来るのもずいぶんと久しぶりな気がする。春先に、丸林と来て以来かもしれない。

 さて、あの時は何をしたんだったか。覚えていないが、どうせ大したことじゃないだろう。


「あのすみません。ちょっといいかしら」


 何度目かの信号に引っかかったとき、突然声をかけられた。


 その方を振り向くと、そこにいたのは品のよさそうなおばあさんだった。薄い冊子を右手に持って、どこか困った雰囲気。


「ここに行きたいんだけど、どこかわかりますか?」


 続けて、おばあさんはその冊子を見せてきた。地図が書かれていて、目的地と思われる場所が赤く塗られている。


 住所を見た感じ、ここからはあまり遠くはなさそうだ。ただ、確かに道は少しわかりづらそうではある。


「よかったら、案内しましょうか?」

「いいのかい? でも何か予定があるんでしょう」

「大丈夫です。平気ですから」


 頭の中で瞬時に計算してみるが、おばあさんを案内してもたぶん間に合う。もしかすると、ちょっと走らなきゃかもだが。


 信号が変わるのを待って、俺はおばあさんと共に駅とは違う方向へと踏み出した。

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