第33話 その心に手を伸ばす

「いやぁ、本当にありがとうねぇ」

「いえ、大したことじゃないですよ。それじゃあぜひ楽しんでください」


 案内先だったホールの入り口付近で、おばあさんと別れた。思いの外時間がかかったのは、やや道に迷ってしまったから。まさに、ミイラ取りがミイラになるを体感した結果に。


 待ち合わせ時間はあと少し。どう考えても間に合う気がしない。それこそ、全力疾走をしたとしても無理だ。


「……出ないか」


 斎川に電話をかけてみたが呼び出し音がずっと鳴るだけ。すぐに切って、ショートメッセージを送っておく。


『ごめん、ちょっとだけ遅れる』


 スマホをしまい込んで再び走り出す。こんな街中で、と思うがもはやなりふり構っていられない。


 結局、俺が南口広場についたのは正午を5分ほど過ぎたころ。中央にそびえるモニュメントは、相変わらずモチーフは不明。

 その周囲には、たくさんの人が集まっている。人波をかき分けて、約束相手を探していく。乱れ切った息を整えながら必死に。


「ずいぶんと慌ててるわね、國木」


 声がすると同時に、右肩をポンポンと叩かれた。


 振り向くと、そこに待ち人がいた。クリーム色の柄物ワンピース姿。普段にもまして、ぐっと大人びて見える。


 そのまばゆさに、言葉がすぐには出てこない。改めて思い出す。こいつの学校での異名と、その人気っぷりを。

 今までだって忘れていたわけじゃない。過ごす時間が増えて、ただ自然と意識しなくなっただけ。毎日のように顔を合わせていると、特別感も薄れていく。

 だが、実際のところ俺たちはあまりにも不釣り合いな組み合わせだ。住む世界が違う。こうして、一緒に休日を過ごすとかどこまでも分不相応のはず。


 いつまでも俺が喋らないのを不思議に思ったらしい。女神様はゆっくりと首を傾げたその白い首筋に、ほっそりとした指を当ててたりして。


「どうしたの?」

「いや、その、遅れてごめん」

「うん、知ってる」


 彼女は無邪気さいっぱいに笑った。とても皮肉めいていて、ますます罪悪感を覚えてしまう。


 せめて、もう少し早く連絡すればよかった。自分の見積もりの甘さが本当に嫌になる。気配り上手な斎川とは大違いだ。


「で、理由は。寝坊でもした?」

「……そんなところだ。ホント申し訳ない」

「そっか、じゃあ仕方ない」


 どこか寂しげに言うと、斎川は少しだけ目を伏せる。どこか残念そうだ。


 あまりにも予想外の反応に、より頭が白くなっていく。いつもだったら、もう少しからかうようなやり取りが続きそうなものだ。

 怒りを通り越して失望しているのか。なんにせよ、確かなのは全面的にこちらが悪いということ。


 俺はもう再び頭を下げた。今度はしっかり深々と。


「悪かった。なんとか許してもらえないか」

「うーん、そうだな。本当の理由を教えてくれたら許してあげる」

「本当のって」


 思わず彼女の顔を見返した。そこにあったのは、いつか見たことのある見透かしたような笑み。


 こいつはさっきのが嘘だと知っているんだろうか。だが、どうしてだろう。そんな素振りをした覚えはない。


「理由なんてどうでもいいだろ。俺が遅れたのが全てだって」

「遅刻に加えて、理由をぼやかすのもまた誠意がないと思わない?」

「どんな理由があっても遅刻はダメだと思うがな」

「それはそうでしょ。でも世の中にはやむを得ない事情という言葉があるわ」


 どうあっても、彼女は本当のことを言わせたいらしい。勝気な態度はそう簡単に崩れそうにない。


 こうなると、隠すのも馬鹿らしくなってくる。それに、あいつの言葉に一理あるのも事実。

 俺は苦い表情のまま、さっきあったできごとを話した。


「――で、遅れたわけ」

「うん、知ってる」

「……は?」

「ちらっと見かけたもの。國木らしい男がおばあさんと歩いているのを」


 俺はじっと、斎川の口がスラスラと動くのを見ていた。

 ……開いた口がふさがらない。なんだか、しなくていい遠回りをした気分だ。


「こっちが言えた義理じゃないけど、知ってたんなら初めから言ってくれよ」

「まあまあいいじゃない。なんにせよ、その優しさに免じて今日だけは許してあげる。よく考えれば、図書室にもいつも遅れてくるしね」

「あれ開始時間が決まってたんだな。初めて知った」

「開館してすぐ、よ。覚えておいて」


 ぴしゃりと言って、彼女は悪戯っぽく笑った。それから、ごそごそとバックの中に手を突っ込む。


「じゃあ行こう。チケットは先に買っておいたから」


 斎川は取り出した2枚のチケットのうち1枚を差し出してくる。


 おずおずと受け取って、俺は駅ビルへと歩き出した彼女の後を追う。結局、こいつは遅刻の件なんてなんとも思ってないようだった。




        ※




 食後に運ばれてきたホットコーヒーに、ゆっくりと口をつけた。


「ふう。なかなかおいしかったわね」

「そうだな」

「教えてくれたアズサに感謝しないと」


 映画を見た後、俺たちは遅い昼食をとるため街中にある喫茶店に入った。選んだのは斎川。以前に勧められて、一度来たいと思ってたらしい。


 食べてみて、オムライスが名物だといのも頷けた。内装も洗練されていて、なかなかに居心地がいい。


 一緒についてきた砂糖とミルクをコーヒーに入れる。ぐるぐるとスプーンでかき混ぜていると、斎川の視線に気が付いた。


「なんだよ?」

「今日は満足していただけたかなーと。ほら、ご褒美なわけだし」

「まあそれなりには。映画も面白かったしな」

「うん。意外性をウリにしてるだけのことはあった」


 今日観たのは、とあるミステリー映画。二転三転するシナリオと、怒涛の伏線回収が話題のものらしい。

 これも斎川の提案。ご褒美と言うだけあって、俺がもてなされている形なんだろう。はたから見ると、振り回されているだけかもしれないが。


「でもさ、一緒に出掛けるのがご褒美とはなぁ」

「なにか不満? 物の方がよかった?」

「それはそれで気を遣う」

「でしょ。國木、息抜きしたがってたんだし、ちょうどいいじゃない」

「それは木曜の話。そもそも、中間に向けて切り替えろ、みたいなこと言ってなかったっけ?」

「だからこそ、よ。明日から終わるまで、一気に駆け抜けるってことで」


 斎川は手元のカップを持ち上げた。ミルクティーというのは、どちらかというと、教室にいるときのこいつの方がは似合っている。


 その姿を見て、ちょっと訊きたいことが思い浮かんだ。


「息抜きしたかったのは、そっちじゃないか?」

「そうかもね。こういう気晴らしになるようなこと、しばらくしてなかったから」

「もしかして、土日っていつも図書館に籠ってるのか?」

「まあね。お金に余裕があるわけじゃないから、あんまり時間を潰せる手段もないし」


 彼女はカップの方をじっと見たまま答えた。どこまでも平然とした口調。まるで興味のない世間話をしているかのよう。


 俺はその姿から視線を外せないでいた。そうまでして家にいたくないのはなぜか。この疑問に行き着くのはいったい何度目だろう。ままならない自分の心が、ひどくもどかしい。


 ふと、斎川は視線を上げた。すると、ばっちりと彼女と目が合う形になる。


「そうだ。せっかくだし、一つだけ質問する権利を上げましょう。もちろん、ご褒美の一環でね」

「……これはまたタイミングがいいこって」

「何か言った?」


 聞こえなかったとは思えないが……ともかく、わざわざ機嫌を損ねさせる必要もない。


 意を決して、まずはカップに口をつけた。


 一歩踏み込んでみてもいいのか。持たないようにしてきた他者への興味に、再び火を点けてもいいのか。


 毎日のように、俺は斎川と一緒にいた。昨日までは、勉強会という一応の名目があった。でも今日は違う。

 断ることもできた。一緒に出掛けるなんて、姉貴に冷やかされた通りの意味を持ちかねない。そうでなくとも、どんな大義名分も立ちようがない。


 ああ、俺はやっぱり彼女からは目を離せないんだろう。日に日に、その気持ちが大きくなっていくのを自覚する。


「斎川はさ、どうして家にいたくないんだ?」


 そんな繊細な疑問を、彼女は優しい笑みで受け止めた。

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