第34話 加熱する想い

「あたしね、両親がいないの」


 思わず自分の耳を疑った。今のはきっと聞き間違いだ。そう思えるほどに、斎川はあまりにも平然としていた。


「いきなりすぎてびっくりした? 國木、すごい顔してる」

「……そんなことは」

「あるって。むしろ、何事もなく受け入れられる方がおかしいって」


 くすぐったそうに笑って、彼女はちょっと髪に触れた。毛先をくるくると巻いてこねるようにしている。

 さっきは、あんなにも冷静に見えたのに。やはり、斎川といえどどこか落ち着かないものがあるようだ。自らの身の上話なんだから当然か。


 改めて先ほどの言葉を反芻する。文字通りに受け取るならば、どれだけ過酷な事実なのか。


「それはその、どういう事情なんだ?」


 聞いていいものか悩みながら、慎重に言葉を選ぶ。他人の心に踏み込むとはこういうことなんだ。ここにきて、さらにその重圧を感じる。

 引き返すこともできただろう。だが、覚悟は決めていた。今はもうグラグラと揺れているけれど。それでも、彼女の心に触れたいと思った。


 斎川はゆっくりとカップを持ち上げた。縁にそっと唇をつける。何気ない仕草なのに、目が離せない。胸の鼓動がより早くなっていく。


「母はあたしが5歳の誕生日に出ていった。寝てるあたしの額に、さよならとキスをして。寝ぼけてはいたけど、あの時の母の表情は決して忘れられない」


 淡々としながらも強い感情が伝わってくる。斎川がこんなに力強いまなざしをするのは初めて見た。


「それからは父と2人暮らし。まあそれも、ある日学校から帰ったら終わっちゃったけどね。家にいてあたしを出迎えたのは、見知らぬおじさんとおばさんだったわ。中学2年のことでしたとさ」


 むかしばなしを締めくくるような冗談めかした口調。その表情も先ほどよりは柔らかい。それでも、瞳の奥の光は少しも弱くはなっていない。


 本当はもっといろいろなことがあったんだろう。きっと語りつくせないほどにたくさん。場所も時間もまるで相応しくないくらいに。


 だが、今はこれで十分だ。彼女の心に潜む何か。その断片がかすかに見えた気がする。それこそ、咀嚼しきれないくらいには。

 相変わらず理解はほど遠い場所にある。けれど、少しは距離が縮まった。まずはそれが大事だと思う。


「じゃあ今一緒に暮らしてるのって……結局、その人たちって誰だったんだ?」

「父の遠い親戚だって。あたしのことを頼まれた、って言ってた」

「そうだったのか……」


 無意味な相槌しか打てない自分がもどかしい。こっちから聞いておいたくせして、なんてざまだろう。


 果たして、誰が想像できるのか。いつも明るく笑みを絶やさない女神様が、その裏にこんな事情を抱えていたなんて。あまりにもかけ離れすぎている。

 素の顔を知っている俺ですら、予想を軽々と超えられた。なおさら斎川瑠実奈の特質さを思い知った。


 一度でも、こいつと同じ側に立とうとした自分が恥ずかしい。抱いた気持ちは同じでも、そこに至った過程が全く異なる。見かけだけの同情はただの自己満足でしかないのだ。


「なるほどな。わかった気がする。お前が家にいたくない理由が」

「二人はとてもよくしてくれるんだけどね。でも、やっぱり気が引ける。どうしてもぎこちなくなってしまう。本当の自分がわからなくなるんだ」


 たぶん家でも学校と同様に――いや、それ以上に優等生を演じているんだろう。垣間見えた笑みは、どこか自虐的だった。


 ここで、ある想いが一瞬過る。俺が見ている今の斎川は、いったい本当の斎川なんだろうか。

 確かに、学校で見かける姿とは全く違う。それを俺は、今まで素だと思っていた。


 だが、話を聞き終えた今、それが不確かなものへと変わる。俺とこいつはそこまでの仲では決してない。

 クラスが同じになったのは今年からだし、冬の放課後と中庭の盗み聞き以外ロクな接点もなかった。

 

 そんな俺にどうして、斎川が素を見せているといえるだろうか。それこそ、本当に思い上がりだ。


 けれど、今までのすべてが嘘とも思えない。俺の前では、少しは自分らしく振舞っていた……そう信じたい。

 それが違ったのなら、これからでも――


「ごめんね。いくら聞かれたからって話しすぎだね。重かったでしょ」

「……正直な。でも、聞けてよかったとも思う。斎川の、本当を」


 俺の言葉に、彼女はやや気圧されたような顔をした。そして、数回まばたきを繰り返すと目を伏せた。


「あたしもさ、話せて嬉しかったり。こんな話、誰にでもできるわけじゃないから」

「斎川……」


 再び視線がぶつかり合う。その瞳は綺麗で清んでいた。じっと見ていると吸い込まれてしまうほどに。


 顔を背けたのは、向こうの方だった。わざとらしく咳払いをする。


「あー、やめやめ。なんか恥ずかしくなってきた。気分転換に散歩でもしましょ」


 置かれていた伝票を、斎川は力強く掴み取った。そのまま席を立って、会計へと向かっていく。


 確かに、話の雰囲気にずいぶんとあてられすぎたようだ。気が付けば、顔中熱くて仕方がない。

 半分ほど残っていたコップの水を飲み干した。ちょっとだけ、身体の熱が引いていく。


 一呼吸おいてから、俺は急ぎ足で彼女を追いかけた。胸に渦巻く得体のしれない感情から目を背けるようにして。


 あれは気のせいだ。席を立つ前の斎川の顔が、今まで見たことのないくらい赤みがかっていたのは。

 あるいは、空調のせいか。外に出た時感じた風は、ひときわ涼しかったのだから。

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