第38話 悪戯な女神様
ひんやりとして、やや薄暗いエントランス。見慣れた光景だが、いつもとは明確に異なる点がひとつ。
「どうぞ」
「ありがと」
オートロックを解錠して、客人を先に通す。前を横切る涼しい顔に、なおさら何とも言えない気持ちになった。
斎川が家に来るのは、今回が二度目。だからといって、平常心でいられるほどの図太さは持ち合わせていない。
学校を出てからというもの、一瞬たりとも落ち着かないまま。飽き飽きしたはずの通学路をどこかよそよそしく感じてしまった。
すぐに奴に追いついたが、エレベーターはまだ来ていなかった。表示が切り替わるのがいつもより遅く感じる。
沈黙のまま待っているのはやや気まずい。相手の方はというと、澄ました顔でじっと扉を見つめているし。
「何階だっけ?」
「5階」
ようやく来たエレベーターに乗り込みながら、斎川を遮ってボタンを押した。まもなくして、重々しく動き出す。
あいつとの距離は肩同士が触れ合うほどに近い。2人しか乗っていないんだから、もっと広々と使えばいいのに。位置関係的に、こちらからは動き辛い。
表示板を見ながら、これでよかったのかどうか考える。別に、俺の家じゃなくてもほかにふさわしい場所があったのでは。
過度に意識してしまうのは、土曜日のことがあったから。2人で街に出かけて、一日おいて家で勉強。客観的に考えると……はぁ。
目的の階について、『開』ボタンを押す。
斎川を先に降ろしてから、俺もエレベーターを出た。律義にも彼女はすぐ近くで俺を待っていた。不自然すぎるほど畏まった表情で。
何か声をかけようとしてやめる。そのまま素通りして、我が家の扉の前へ。
「どうぞ、あがってくれ」
「お邪魔しまーす」
声を弾ませながら、斎川も中に入ってくる。以前よりどこか気安げに見えるのは、目の錯覚だと思いたい。
前例に則ってリビングへと通す。とりあえず、ソファに座るように促した。
「鞄置いてくるから、テキトーに寛いでてくれ」
「ん、わかった」
やや気がかりを感じながら、自室へと向かう。
リビングで勉強できるよう準備を整える。着替えたいところだが、待たせすぎるのも悪い。とりあえず、上着だけ脱いでおくことに。
リビングに戻ると、斎川がちょうどテーブルを整理していた。
「ゆっくりしてればいいのに」
「遊びに来たんじゃないもの……片づけて、大丈夫だった?」
「ああ。そうだ、なんか飲むか?」
問いかけながら、冷蔵庫を開けた。めぼしいものは、作り置きの麦茶くらいだ。一応、戸棚にはインスタントのコーヒーや紅茶の用意はある。
視線を向けると、斎川は首を小さく横に振った。
「大丈夫。あるから」
「おう」
結局何も取り出すことなく、俺は彼女のそばへと戻った。自分だけ、というのは気が引ける。
「お姉さんは仕事なんだよね」
「まあ、そうだな」
「じゃあ完全に2人きりなわけか」
その呟きはやけに意味ありげに聞こえた。
思わずテーブルを片付ける手を止めて、同級生の顔を見る。
初めこそ、奴は正面を向いていた。やがて、ゆっくりとこちらの方を向く。その瞳は真剣な色を帯びていた。
息が詰まるような感覚。鼓動が早くなっていくのをひしひしと感じる。唇がやたらと渇く。
いつにもまして、斎川の考えていることはわからない。今の言葉の真意は何か。どうしてこんなに、思わせぶりの表情をしているんだ。
得体のしれない感情が、俺の奥底で渦巻いている。視線は完全に彼女に奪われている。身じろぎ……いや、まばたきひとつすらできない。
静寂は俺と彼女にはつきものだ。だが、今回ばかりはまるっきりその性質が違う。空気はひりつき、俺を押しつぶそうとしてくる。
時間が止まったかのような錯覚の中、ふいに斎川の口元が緩んだ。
「ふふ、少しはドキっとしたみたいね。ちょっと満足」
「…………だよなぁ、やっぱり」
果たして、俺はあと何度純情を弄ばれればいいのだろうか。真に受けかけた自分の間抜けさが、心の底から憎い。
さすがに今回は前振りが大規模すぎた。家へ来たいと言ってからの流れからでは、警戒も薄れるというもの。
斎川の奴、俺をからかってストレス発散してるんじゃないだろうな。そう思えるくらい、眼前にある顔は晴れやかだ。
「気が済んだんなら、さっさとやることやろうぜ」
「そうね。このままじゃ誰かさん、赤点取っちゃうもんね」
「そんな奴はこの家にはいねぇ」
カラカラと笑う女神様。どこまでも喜々として見える。
その姿を見て、俺は先ほどの仮定により確信を持つのだった。
※
暗くなってきたのを感じて、スマホで時間を確認する。リビングには、時計と呼べる類のものはない。
いつの間にか、6時近く。斎川の隣で勉強していると、時が経つのを忘れてしまうことが多い。おそらく緊張感のせいだろう。気を抜いているところに、厳しい言葉がよく飛んでくる。
「そろそろ終わりにするか」
立ち上がって、電気をつける。ずっと集中していたせいか、照明の光がやたらと目に刺さる。
「あ、もうそんな時間か。お姉さん、そろそろ帰ってくるの?」
「いつもならな」
身体をほぐしながら答えた。血が全身をくまなく巡る感覚が少し心地いい。
斎川の方に目を戻すと、彼女は不思議そうに首をかしげていた。
「いつもならってことは、今日は違うんだ」
「遅くなるらしい。おかげで、これから飯の準備が待っている」
「なるほど」
正確には、奴の帰りが遅いこととは関連がない。どちらにせよ、食事当番には違いない。
幸い、今日は月曜日だから冷蔵庫にはそれなりに物が詰まっている。といっても、イチから何か作るなんて芸当はできないから、レトルト物に頼るわけだが。
そんなわけで、俺としてはさっさとお客人にはお帰り願いたい。腕を組んで、改めて険しい顔を彼女に向ける。
「さ、帰った、帰った。いくらお前でも、夜遅くなるのはマズいだろ」
「まあね。余計に心配させちゃうから。――でもね」
わざとらしく言葉を切って、斎川は髪をかき上げた。その顔に自信ありげな笑みが浮かぶ。
「勉強場所を提供したお礼に、何か作りましょう」
「……いや、結構です」
「なによそれ。もしかして、料理できないって疑ってる?」
「信頼できる情報は持ってないな」
「あのね、これでも毎日弁当は作ってるんだから」
言われて思い出した。以前にそんな話を聞いた覚えがある。確か、珍しく放課後以外でこいつと話したんだっけ。
そういうことなら、きっとそれなりに料理はできるんだろう。だが、それで消極的な理由が全て消えたわけじゃない。
正直、これ以上借りを作りたくないわけで。土曜日からそれは雪だるま式に膨れ上がっている。
礼は一向に間に合っていないのだ。結局、今日はその手掛かりを掴めずじまいに終わったし。主に、勉強開始前のひと悶着のせいで。
「そっちの夕飯はいいのかよ。家の人、心配するんじゃないのか?」
「そんなこと気にしないでよろしい。――で、どうする?」
唯一の突破口はすぐに塞がった。そう言われると、口をつぐむしかない。
迫ってくるクラスメイトに、なんとか返す言葉を探す。乗り気なこいつをいなすのは難しい。それは、今までで痛感している。
ぐぅ~。
間抜けな音が、リビングの中に響く。
「決まりね。ちょっと冷蔵庫の中、見せて」
腹の虫って、どうして鳴って欲しくないときに限って鳴くのだろうか。
途方もない問いに、ただただため息しか出なかった。
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