第37話 悪魔の誘い

 机の上に散らばったままの筆記用具を回収していく。その中には、もちろん一昨日斎川にもらったシャーペンも含まれていた。

 持ちやすく書き味もいい。心なしか、紙面に並ぶ文字もまともに見える。同じペンを使っているあいつには遠く及ばないけれど。

 もらったノートの方もかなり使い勝手がいい。勉強道具に気を遣え、という言葉もよくわかる。


 しかし、こうなるとやはり何か礼をしないとまずいな。ちょっとずつ考えてはいるが、特に名案は浮かばない。

 どうにも俺だけでは限界がある気がする。一応、ネットで調べたりしたがピンとくるものもなし。


 こういうときこそ、新聞部員を利用してみるべきだろうか。そう思っても、うまい口実が……


「入るよー」

「ノックしろ。言いながら入ってくるな」


 突然ドアが開いて、考え事は見事にかき消されてしまった。

 振り返ると、仕事に行く準備が完全に仕上がった姉貴が立っていた。横暴な行為を反省する様子は微塵もない。


「アタシ、今日ちょっと遅くなるから、夕飯よろしくね」

「へいへい。ってか、言われなくとも今日の当番俺だけどな」

「だっけ? ま、いいわ。じゃ行ってくるね」


 それだけ言うと、姉貴はさっさと部屋を出ていった。毎日毎日、嵐のように騒がしい女だな、まったく。


 話半分にでも、姉貴の欲しいものでも聞いときゃよかったか。少しは参考に……なるだろうか。いや、ならない。


 一瞬湧いたバカげた考えを打ち消して、俺は学校へ行く準備を続ける。

 それとなく、斎川本人に聞いてみよう。さりげなさを徹底できるかと、金銭的事情がやや心配ではあるが。


 そう考えると、どこか少しだけ放課後が待ち遠しく思うのだった。




        ※




「失礼しましたー」


 機械的に言って、静かに引き戸を閉める。英語準備室まで来ることになるとは。せめて職員室にいてくれよ、と心の中で毒づく。


 残念なことに、今週は自教室の掃除当番だった。それが終わったのは10分ほど前。その報告のために、担任を探して校舎を放浪していた。


 くたびれた気持ちのまま教室に戻る。長い授業時間の果てに待っていたのがこんな結末だとは……明日こそ、楽に済みますように。

 今週の後半になると、いよいよテスト2週間前。職員室や準備室といった類の教室は出入り禁止。入り口で用件を伝えなくちゃいけない。ホント、面倒だ。


 淡い願いを胸に秘めて階段を登りきると、教室の前に一人佇む影が目に入った。背中を壁につけて、本のようなものを読んでいる。

 その近くにはよく見覚えのある黒い鞄。やや離れたところで無造作に転がっているのは、俺のものだ。


「なにしてんだ、こんなところで。立ち読みの練習か?」

「國木くんのことを待ってたんだよ」


 その相手は少しも驚かずにゆっくりと顔を上げた。柔らかな笑みを浮かべたまま、優しく本を閉じる。


 さっと周囲の様子を探るが、俺たち以外に人影はない。放課後になって久しいとなれば、辺りをうろつく生徒もほとんどいない。本校舎とあってはなおさらだ。


 相変わらず徹底してるな、この女。まあそれでこそ、俺の知る斎川瑠実奈ではあるが。


「どうしたの、キョロキョロして」

「いや、別に。だいたい、それはこっちのセリフだけどな。なんで待ってたんだよ」

「さあなぜでしょう」


 斎川はもったいつけるような顔をして肩をすくめた。持っていた本をしまうと、そのまま鞄を持ち上げる。


 釈然としないが、俺もすぐに荷物を回収した。ずっしりと肩に重さがのしかかる。普段より重いのは、置き勉を回収したためだ。


 考えてみると、2人で図書室に向かうのはあのとき以来だ。俺がこいつの秘密を知った日。今日までこの不思議な関係は続いている。


 特に言葉を交わさないまま、校舎の中を進んでいく。心なしか、別棟もまた静かだ。もしかすると、早めにテスト休みとしているところも多いのかもしれない。


 やがて、例の重苦しい扉の前にたどり着いた。傍らの看板からして、今日も元気に開館中のようだが。


「はい、とうちゃく~」


 おどけるように言って、斎川が扉を開いた。

 たちまちに、中の様子が普段と違うことに気が付く。


「……なんか騒がしいな」

「あ、気づいた。まあ、今日から自習開放の日だから」


 彼女はちらりとカウンターに目をやった。ちょこんと座っている図書委員。その前には見慣れない札が置いてある。


『満席』


 なるほど、これが斎川が待っていたわけか。だったらそう言ってくれればいいのに。ここまで完全に無駄足だ。


 やや目を細めて、抗議の意思を伝える。


「本当は席をとっておこうか、とも思ったんだよ。でも國木くん、予想以上に掃除終わるの遅いし。それに、こう人が多いのもどうかな、って」

「掃除が終わらなかったのは俺のせいじゃない。まあ、確かにこの環境だと気が引けるわな」


 気になるほどの騒音ではない。いつもよりがやがやしてるなー、ぐらいのもの。


 問題は斎川の方だろう。いつもみたく、気軽に教えを請うのは難しそうだ。第一、こうなると周りの目も気になるわけで。一応、相手は校内でもかなりの有名人。


「じゃあ今日はお開きだな。ってか、テストまでずっとこうじゃないか?」

「うん、だと思う。全校での部停止もそろそろだしねー」

「しょうがない、か。まあ何とか一人でやってみるさ」


 俺の言葉に、なぜか斎川は意味ありげに笑うだけ。何か考えがあるようだ。こちらに向く二つの目はどこか挑発的。


 あからさまだと思うが、素直に聞いてみることにした。案があるなら、その方がいい。このまま家に帰っても、いまいちやる気が出ない予感がある。


「何か言いたいんならどうぞ」

「ううん。國木くんが一人でもできるんなら、いいんだ別に」


 奴の態度は明らかにこちらを疑っていた。俺はそんなに信用がないんだろうか。確かに、昨日はややなまけ気味ではあったけれども。


 そんな後ろめたさから、つい顔が渋くなってしまう。小さくため息をついてから、ぐっと背筋を伸ばした。


「……ぜひとも斎川さんの力が借りたいです」

「しょうがないなぁ。――場所を変えれば大丈夫じゃない」

「どっか候補があるのか? この間の図書館は、私語に厳しいだろ」

「そうだねー。あそこはいつも静かだから」


 女神様は俺の提案をやんわりと退けた。どこかしょうがないなぁ的雰囲気が漂っている。


「じゃあ、どこなんだよ。さぞ、素晴らしい場所を知ってるんだろうな」

「この間、とは言えば、もうひとつあるでしょ?」


 わざとらしい口ぶり。悪戯っぽい笑みについドキリとさせられる。


 言わんとしたことがわかって、俺は一層顔を曇らせた。確かに、邪魔は入らないとは思うが。


 微妙な気持ちでいると、斎川がぐっと距離を詰めてきた。


「國木の家とかどう?」


 耳元、落ち着いた声色で囁く。

 こちらの返事を待つことなく、女神様はすたすたと図書室を出ていった。

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