第36話 下りる幕
本屋を出ると、辺りはいい感じに夕闇に染まっていた。それでも、通りを行く人が絶えることはない。きっと、駅がすぐ近くだからだ。
「そろそろ帰りますか」
「だな。いい時間だ」
店の軒先で、斎川と言葉を交わす。彼女の右手には、今出たばかりの店の袋がぶら下がっていた。
薄いふくらみ。何を買ったんだろう。店に入ってからは別行動だったので、よく知らない。
「帰りもバス?」
「ああ。そっちは?」
「地下鉄」
どちらともなく歩き出す。自然と肩が並び、ペースが合う。
地下鉄の駅は、バス停への道の途中にある。そのため、意図せずして彼女を送っていく形に。
あと少しで終わるのか。ここまで意外とあっという間だった。始まるまではあんなに緊張していたのに、今はもうどこにもそれはない。
今日一日で、ずいぶんとたくさん斎川の知らない顔を見た。
スクリーンを食い入るように見つめる横顔。喫茶店の名物に顔を綻ばせ、土産屋では変わった品の数々に目移りする。その後の街歩きでは、いろいろなことをそれは得意顔で教えてくれた。
どれもが横並びで勉強しているだけではわからなかったもの。こうなってみると、改めて来てよかったと感じる。心の底から。
「ありがとうな、今日誘ってくれて」
「いきなりどうしたの? 変なものでも食べた」
「だとしたら、お前も食べてるはずだ」
どこか悔しそうな顔をして、斎川はそっぽを向く。この女は意外と照れやすい。数日思っていたことだが、今日を経て確信に至った。
「ホント、今日楽しかったからさ。どうしても言いたくて」
「あっそ……まあ、だったらいいけど」
どこまでもぶっきらぼうな言い方だった。奴はそのまま歩くペースを少し上げる。それでも、姿勢の良さは崩れない。
追撃は成功だったらしい。ちょっとだけ満足。いつもはしてやられることが多い。だが、これからは少しは闘えそうだ。
駅の西口にはすぐに到着した。
斎川は人通りのやや少ない場所で立ち止まる。ゆっくりとこちらを振り返ったその顔はどこか固い。
少し遅れて、雑な感じに右手を突き出してきた。
「あげる」
「……はい?」
「だから、あげるって」
やや語気を強めて、相手は袋を突き付けてきた。ぐいぐいとこちらに押し付けるようにして。それなりに力が籠っている。
怪訝に思いながらも、俺は袋を受け取った。くれるというならもらっておこう。それに、このままでは話が進みそうにないし。
ようやく、彼女は満足げに頷いた。口角がかすかに上がっている。
「別に大したものじゃないから。ノートとペン、あたしが使ってるやつ」
「はあ、そうっすか」
「反応が薄すぎない?」
眉をひそめて、むっとした表情を見せる斎川。腕まで組んで、たいそう不満なご様子だ。
俺は困惑のままに頭をかいた。
「いや、だってなあ。そんなものをもらう理由が」
「少しは勉強道具にも遣いなさいってことよ。最近は結構機能性に富んだなものもあるんだから」
「へぇ。まあともかく、サンキューな」
「ホント感謝してよね」
ずいぶんな言い方だとは思うが、おそらくは照れ隠し。そう考えれば、誇らしげな顔もとても作り物じみて見える。
たとえそうでなくても、ありがたいのは事実だ。俺は素直に感謝の言葉を口にした。大切に使わせていただこう。
晴れやかな表情で受け止めると、斎川は後ろを少し見た。
「じゃ、また学校で」
「おう。そうだな」
「そこは、明日じゃないのか、って言わないんだ」
「……いや、それは」
鋭いところを突かれて言い淀む。考えなかったわけじゃないが、言葉にはしないでおこうと思った。
一昨日を除けば、ここ最近は毎日共に勉強している。そこで明日ともなると、気が引ける。向こうに迷惑じゃないかと思って。
何も言わないでいると、向こうがくすぐったそうに笑みをこぼした。
「なーんて、こんな毎日一緒にいるような関係じゃないものね、あたしたち。それに、明日はもともと予定があるから」
「なら、さっきの言わなくてもいいじゃねーか」
「何か言った?」
素敵な笑顔を残して、女神様は駅の中へと消えていく。その姿は、人並みの中でもなお印象的だった。
残された俺が気になっているのは、一つの言葉。関係、か。確かに、俺とあいつの関係ってなんなんだろう。
少しも言葉が浮かばないままに、俺はバス停に向けて踏み出した。
※
割と慎重に玄関の開け閉めをしたつもり。
なのに、突き当りのドアは無残にも開いた。
「おかえりー」
「……ただいま」
にやけ面を差し出してきた姉君に、心底雑に言葉を返す。
正直、疲れはほぼピークに近いからすぐにでも部屋に戻りたい。
「で、どうだった、デート。うまくいった?」
「だから違うっての」
「えー、そっか。アタシの勘違いか。マルちゃんと遊び行っただけね」
「そうそう」
してやったり。姉貴の顔はそう物語っていた。
瞬間、自分の迂闊さを悟る。突然、物分かりがよくなった時点でおかしいと思うべきだった。まともな思考がもうできなくなりつつある。
「昼間、マルちゃん来たけど?」
「……マジで?」
あまりにも屈辱的。姉貴の顔がここまで忌々しいと思ったのは、ずいぶんと久しぶりだった。
自然と顔中に苦い思いが広がっていく。つい力が抜けて、近くの壁へともたれかかった。
「カマかけやがったのか」
「引っかかる方が悪いのよ」
こんな状況じゃなければ、と思うが、もはや後の祭り。俺はただ悔しさに打ち震えることしかできない。
すると、姉貴がちょっと不思議そうな顔をした。その目は俺の手元に向いている。
「その袋はなに。お土産?」
「なわけあるか」
「ま、そっか。怪しい……なるほど。ルミナちゃんからのプレゼントかぁ」
奴は一人勝手に納得していやがる。出かける前といい、甘ったるい方向へと解釈しやがって……。
「ちゃんとお返ししなきゃダメよ。ただでさえアンタ。普段からお世話になってるんだから」
「へいへい」
「ちなみにアタシが欲しいのはね――」
「心の底からどうでもいい」
戯言が続く予感がして、少し強めに遮った。いつまでも玄関に立ち尽くしているわけにもいかない。
そんな俺の態度に、姉貴は少し不愉快そうな顔をした。息を吐く荒々しい音がここまで届いてくる。
「いいのかな。参考になると思うけど」
「うるせーよ」
「生まれてこの方彼女いないアンタに、どんなお返しができるのか。これは見ものですな!」
はっはっは、と高笑いしながら、姉貴はドアを閉めた。なんなんだ、あいつはいったい。我が姉ながら、全くもって意味不明。
最後の最後に、こんなに疲れる羽目になるとは。盛大にため息をついてから、俺もまた部屋に戻った。
お返し、か。そのことを、心の片隅にしっかりと留め置いて。
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