第7話 とある春の日の親睦

 足を踏み入れるなり、図書室特有のにおいが鼻をつく。圧倒的な静寂が支配する世界、空気もどこか張りつめているように感じてしまう。

 ざっと1年とひと月ぶりだろうか。だからといって、懐かしさも新鮮味もない。俺にとっては、あまりにも縁遠い過ぎる場所。今日のようなことがなければ、もしかすると3年間来ることはなかったかもしれない。


 入り口横のカウンターの向こうには、エプロンをつけた女子生徒が一人で座っていた。たぶん図書委員なのだろう。

 眼鏡をかけて、いかにも文学少女といった雰囲気だ。実際、その視線は机の上に広げた本に落ちている。

 それでも、すぐに来訪者に気が付いたらしい。ゆっくりと顔を上げて、こちらの方を向く。


「こんにちは、瑠実奈ちゃん。今日はちょっと遅かったんだね」

「うん。用事があってね」


 どうやらこの二人は顔見知りなようだ。にこやかに言葉を交わし始める。

 

 なんとなく気まずさを覚えていたら、図書委員が俺の方に視線を合わせた。そこには、好奇心がはっきりと見て取れる。


「それにしても珍しいね、ツレがいるなんて。もしかして――」

「そういうのじゃないよ~。ただのクラスメイト」

「ふうん。なあんだ、大スキャンダルだと思ったのに」


 あからさまにため息をついて、彼女は俺から視線を外した。ワクワクを返してほしい、と言わんばかりの残念がりっぷり。


 それにしても、斎川の切り替えっぷりは本当に見事だ。さっきまでとは、声のトーンからまるっきり違う。


「ふふっ、ごめんね、期待に沿えなくて」

「ほんとだよ~。瑠実奈ちゃん、もしカレシできたらすぐに教えてね」

「まあ、できたら、ね。それじゃあ、エミちゃん、お仕事頑張って!」

「はいはーい」


 エミちゃんとやらの返事はこのうえなく軽かった。なんとなく、丸林と気が合いそうだと思ってしまう。


 斎川はちょっと頭を下げてから、図書室の奥へと進んでいく。なんとなく俺も真似して会釈をして後に続いた。

 すれ違いざまに様子を窺うと、エミちゃんはまた読書に励んでいた。果たして、あれで仕事が成り立つのだろうか。そんなどうでもいい疑問が胸をよぎる。


 慣れた様子で、斎川は歩いていく。本棚が立ち並ぶコーナーを抜けると、イスト机がずらっと置かれた空間に出た。閲覧スペース、というやつだろうか。


「あんまし人、いないんだな」

「試験前でもなし、これが平常運転よ」

「へぇ。勉強もできるんだ」

「一週間前になると自習室として開放されるんだけど……知らないんだ」


 ローテンションで言うと、彼女は驚いたようにちょっと目を丸くした。

 だが、知らない人は多いと思う。図書室でテスト勉強をしよう。なんてことを言う奴は、俺の周りには一人もいなかったぞ。


 斎川は一番奥のテーブルの方へと歩いていく。

 それを見て、俺は彼女とは違う手前側を選ぼうとしたのだが――


「一緒に座らないの?」


 怪訝そうな顔で声をかけてくる斎川。俺にはどうにも、素で不思議に思っているように見える。


「いや、まあうん。……それもそうか」

「そうよ。――もしかして、國木君はあたしのことキライなのかしら」


 また答えにくいことをストレートにぶつけてくるもんだ。この女はどうにも意地の悪いところがある。おちょくるような顔がどうにも憎たらしい。


 結局、俺は斎川と一緒に最奥のテーブルに並んで座った。窓際で、西日がよく入ってくる席。


 どうしてこうなったのか。隣に感じる存在に、ひたすらに緊張感を覚えてしまう。落ち着いて初めて、今の状況の奇特さに気づかされた。校内一の美人と放課後を過ごす――丸林が知ったら怒りの表情で記事にしそうだ。


 しかし、向こうは何も気にしていないらしい。なにやら鞄の中をごそごそと探って、手際よくテーブルに荷物を並べている。


「あのさ、斎川さん。別に、一緒に残ってくれることはないと思うんだが」

「自意識過剰。國木君に合わせてるわけじゃないわよ。放課後の日課なの、ここで勉強するの」


 そう言って、彼女は問題集を掲げて見せた。科目は現代文だが、まるで見覚えのないものだ。

 顔を正面に戻すと、さっそく問題に取り掛かり始める。その横顔は真剣そのもの。そこにぎこちないところはない。


 日課、か。その言葉から考えると、斎川は毎日ここに通っている。またしても、意外な一面を知ってしまった。


 手持無沙汰になって、俺も何をしようかと考え始める。

 図書室というだけに、適当に本を読んで過ごそうかとでも思ったが、なんとなく彼女に倣うことにした。

 どうせやるべき課題は山ほどあるわけで。さらに、さっきの会話で一つ気が付いた。中間テストは3週間後だ。



 紙の上をペンが走る音だけが行き交う。俺たちはお互い口を開くことなく、ただ黙々と手を動かし続けていた。


 ――ピタリ。

 手を止めるのはこれで何度目だろうか。問題がわからないのではなく、答えが合わない。さて、どこに計算ミスがあるんだ。


「そこ、まちがってる」


 突然声をかけられてついどきっとしてしまった。相手が誰かなのは明白なのに。


 ちらりと視線を向ける。彼女の目は、俺の手元のある一点に注がれていた。ご丁寧に、そのあたりに指を添えて。


「……え? ああ、ほんとだ」


 導きに従って俺も間違いに気が付く。

 なんのことはない符号のミス。消しゴムで消して、正しい道筋に戻してやる。


 しかし、よく見つけたものだ。斎川の奴、いったいどのくらい見てたのか。少なくとも、俺は全く気付いていなかった。


「あなたも勉強なんて、いい心がけね。それとも、合わせなくていい、って言った方がいい?」

「ちょうどテスト勉強を始めようと思ってただけさ。最近、どうも難しいと感じる科目が増えて」

「それ、わかる気がする」


 斎川は柔らかな笑みを浮かべた。控えめでいて、温かみのある感じ。初めて見る表情だ。いつもの輝きに満ちたものとは違う。


 でも、そんな顔をしていたのは一瞬だった。彼女は何かに気づいた顔をして、問題集のとある番号を指さす。


「ねえ、この問題空白だけど、どうしたの?」

「ちょっとわからなくてさ。後回しにしようかと」

「そう……」


 静かに呟くと、そのまま斎川は黙り込む。何かを考えているのか、その顔は少しだけ曇っている。


 気になって、俺は待ってみることにした。どうせ、そろそろ一休みしようと思っていたところだし。


「ねぇ、よかったらあたしが教えてあげよっか」


 言葉とは裏腹に、斎川がどこか自信なさげなのが印象的だった。

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