第8話 とある春の日に幕が下りる

「――っと、こんな感じなんだけど……わかった?」


 一通りの説明を終えて、斎川はペンを置いた。髪をかき上げて、ぎこちない感じにこちらに顔を向ける。話しぶり同様、ちょっと心配そうだ。


 俺の方に不満はまるでない。やや不慣れなところもあったが、一貫して丁寧だった。メモ代わりのプリント裏に並んでいる文字もきれいで読みやすい。


「ああ、すごいよくわかった。教えるのうまいんだな、斎川さん」

「別にそんなことないと思うけど。でも理解してもらえたのならなにより」


 彼女は澄ました表情のまま、少し目を反らした。なんとなく照れくさかったのかもしれない。形のいい耳の先が赤い。肌が白いからわかりやすい。


「さすが学年1位って感じだ。ほんと助かった」

「……張り出されてるの見たのね。國木君はチェックする系の人なんだ」

「違う、違う。丸林に聞いたんだ。あいつ、こっちが聞きもしないのにべらべらと教えてくれるのさ」

「新聞部だけあって、耳が早いわね、彼」


 要注意、と彼女は小さく呟く。だが、この静かな場所においては何の意味もなさなかった。


 曇った表情を見て、内心丸林に同情した。あいつが、斎川とお近づきになる日はまたしても遠のいたな。


 話もそこそこに、たった今教えてもらった問題の類題に取り組む。出典は向こうが持っていた問題集。やはり学校では使ってないものだ。

 説明を思い出しながら、時には傍らの講義メモを見ながら、独力で答案を作り上げていく。当たり前だが、初見時よりすらすら進む。


 あとは細かい計算を残すだけになって、斎川に話しかけてみることにした。ずっと黙ってみてられるのは、なかなかクるものがある。


「やっぱ勉強家なんだ。じゃなきゃ、それだけの成績維持できないか」

「それは大げさよ。成績上げたいためにやってるわけでもないし」

「じゃあなにか目標がある、とか」

「まあそんなとこ。――ほら、手が止まってる」


 斎川は話を切り上げるようにぴしゃりと言い放った。たぶん、あんまり踏み込んでほしくない部分なんだろう。


 こちらとしても機嫌を損ねたくはないので口を閉じる。細かいミスに気を付けて、ゆっくりと丁寧に計算式を仕上げていく。


 ようやく解き終わって、俺はさっとテーブルの上に視線を巡らせた。目的のものを見つけ手を伸ばす前に、目の前からノートが消える。


「できたみたいね。あたしが丸つけしてあげる」

「いや自分でするって」

「遠慮しない。もしかして照れてる? だいじょうぶ、間違っててもちょっと笑うだけだから」

「笑われはするんだな……」


 にやにやと目を細める女神様。今日だけ、でいったい何度このからかい100パーセントの表情を見たことか。


 観念して、俺は斎川に任せることにした。恥ずかしいところはあるけど、ノートを無理やり奪い返すほどじゃない。


 丸つけが終わるのをじっと待つ。退屈しのぎに、つい向こうの様子を目で追ってしまう。

 彼女は真剣極まりない表情で、ノートの文字を追っている。こうしてみていると、普段の天真爛漫なかわいらしさはどこにもない。落ち着いた雰囲気のツンと澄ました美人。


 どうにも居心地が悪い。こんなことなら、もっときれいに字を書けばよかった。汚さには、定評がある。主に丸林と東に。


 沈黙はそう長くは続かなかった。

 俺のもとに数学のノートが返ってくる。雑に書かれた文字群の上に、でかでかと赤ボールペンのハナマルが咲いていた。


「はい、よくできました~。センスあるよ、國木君。すごい!」

「……どうにも嘘くさいな」


 斎川はにこにこと輝く笑みを振りまいた。高い声のトーンといい、今の俺にはうさん臭く見えてしまう。女神様モード、と今後呼ぶことにしよう。


 微妙な感じに睨んでいたら、女神様は真面目な表情に戻った。ただ少しだけ口元が笑っている。


「いやいや実際飲み込みは早いと思う。後はちゃんと復習ね」

「本物の学校の先生みたいなこと言うんだな。やっぱり斎川先生じゃないか」

「はいはい、勝手に言ってなさい。反復がなにより重要よ。勉強も、ほかのことでも」


 これまた教師らしき戒めるような口調。内容はもっともなので、黙って受け入れる。茶々を入れても勝てないだろうし。


 ひと段落ついて、俺はしっかりと斎川の方に向かい直した。


「改めて、本当にありがとう。なんかごめん。そっちの邪魔しちゃって」

「ああいいの、気にしないで。別に大したものじゃないし。第一、話しかけたのはこっちが先だったでしょ」


 くすりともしないあっさりとした物言い。そう言われると、こちらとしては返す言葉がない。


 しかしふと思う。口調や仕草は確かにそうだが、内面にはそこまでギャップがあるように感じない。別に、素でいても彼女は周りを惹きつけそうなものだ。


 なぜ猫を被っているのか。


 そのよく整った顔立ちを見ながら、その奥に隠れているものに思いを馳せてしまう。当たり前だけど少しも見えてこない。決して訊ねることも許されないことだ。俺は別に彼女と親しいわけじゃない。

 それに――


「なに? あたしの顔に何かついてる? 正直、じっと見られると恥ずかしいんだけど」

「わ、悪い。そんなつもりじゃなかったんだけど」


 言いながらも、斎川は無表情そのものだ。じっと俺に目を合わせてくる。


 ありえないはずなのに、なんだか考えていたことが見抜かれているような気分になる。俺は慌てて顔を背けた。


 他人の心に手を伸ばそうなんてどうかしてる。きっとこのイレギュラーすぎる空気が、勝手に俺を動かしただけ。

 さっきの傲慢さをぐっと心の奥にしまい込んだ。向こうの実情なんて、俺が気に掛けることじゃない。



 そのあとも、俺はなんどか斎川の手を借りてしまった。わがことながら、ずいぶんと情けない。

 でも向こうは決して嫌な顔はしなかった……ように思う。


 チャイムが聞こえてきて顔を上げると、ようやく窓の外が暗くなっていることに気がついた。今のは、最終下校時刻を告げる鐘か。

 解きなおしだったから、ついつい夢中になりすぎた。


「ねえ、よかったら明日も勉強教えてあげるわよ。定期テストの前に、単元テストもあるしさ」

「……いいのか?」

「もちろん。でもその代わり――」

「中庭の件は黙ってる。それでいいんだろ」

「ええ、そんなところ。國木君を信頼してないわけじゃないけど、こうしておけば安心できるというか……しつこくてごめんね」


 斎川は済まなそうにちょっと顔を歪めた。

 別にこの際、なんとも思わない。それぐらいで安心してもらえるなら、安いもんだ。


「気が向いたら行くよ」

「照れてる」


 おちょくるように笑って、斎川は荷物を片し始めた。その姿はどこからどう見ても、完璧な優等生にしか見えなかった。

 

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