第21話 触れ合おうとする心
「ねえ、國木」
どうでもいい用件を話すときのような、あっさりとした呼びかけ。
ちらりと顔を向ける。
実際、斎川の目は問題集に向けられたまま。特に大事な話をする雰囲気じゃない。
だから俺も軽く応じた。視線を戻して、生物のワークを解く手を再開する。
「どした」
「國木はどうして家にいたくなかったの?」
予想外の質問に、驚いてもう一度斎川の方を見た。
だが、あいつの様子に変わりはない。涼しい顔でじっと設問を読み耽っている。口調もどこまでも淡々としていた。
昼休みの再演――3時間ほど前のことがつい脳裏に浮かぶ。ちょっとひねくれすぎだろうか。結局、姉貴に家を出た理由までは聞かなかったわけだし。
もやもやした気分を抱えながら、やはり彼女から視線を外す。向こうがなんでもない感じなのに、こっちだけ意識するのは納得いかない。
「いきなりどうしたんだよ」
「やっぱ聞いちゃダメなだった?」
「……そんなことねえけど」
そもそも、彼女に
もはや平静を装うのは限界だった。問題文が一向に頭に入らない。文字は紙面を踊り狂っている。
答えに窮しているのは、本当のことを口にしづらいからだけじゃない。
向こうの意図が読めない。タイミングが、雰囲気が、あまりにもちぐはぐ過ぎた。まさに異次元コミュニケーション。
あるいはもしかすれば。
斎川はただの雑談のつもりなのかもしれない。一応、共通の話題。客観的にみると、やや重たいテーマではあるが。
「うちさ、両親が仲悪くて」
結局、割り切ることにした。あれこれ考えても仕方がない。相手は斎川、その事実だけで本音を話す理由としては十分だ。
視線を感じる。
それでもあえて相手の方を見ないように、勉強するフリを続ける。顔を見ながらなんて、考えただけで恥ずかしくて死にそうだ。
「喧嘩とかもしょっちゅうでさ。家の雰囲気が悪いってやつ。気の休まる場所なんてどこにもなかった」
「両親のことは嫌い?」
「……どうだろ。そういうことは考えないようにしてるから」
そっか、小さなつぶやきが聞こえてきた。そこには何の感情も乗っていない。ただの相槌。
それでも顔を見れば何かわかるかもしれない。何かしらの表情が表れている。同情、哀れみ、蔑み、嫌悪。ひょっとすると、期待外れだという残念さ。
けれど、確認するつもりはない。あくまでも視線は手元に固定しておく。そうしないと、もう何も喋れなくなる気がした。
「本当は、俺も猛反対されたんだよな、こっち出てくるの。でも、姉貴が味方してくれて」
「仲良さそうだったもんね、二人とも」
「そんなことねえよ。――ただ、俺の気持ちを理解してくれたのかもしれない。姉貴も同じ気分を味わってきた……って、確認したことはないんだけど」
姉貴とは7つ歳が離れてる。だから、島にいたときの関係はそれこそ大人と子供。当時の姉貴の本心なんて知らない。ただいつも、あの人はニコニコしていて、俺にすごい優しかった。
リビングが一気に静まり返る。物音ひとつしない。
頭の中がいっぱいでうまく言葉が紡げない。言いたいことはいっぱいある。話し出して、いろいろな感情が込み上げてきた。
だが、俺はその全てを扱いきれていなかった。考えてみれば、今まで整理をつけるなんて未経験だ。高校に入ってからは、ただ『今』だけに集中してきた。
「ありがとう、話してくれて」
優しい声に、つい顔を上げて斎川の方を見る。
彼女は静かに微笑んでいた。こちらを労わるように。それこそまさに慈愛に満ちた女神みたい――
「別にそんなお礼を言われることじゃない。むしろ、聞いてくれてありがとう、みたいな」
「そう言うってことは、ちょっとはすっきりしたとか?」
「別にもやもやがあったわけじゃないけどな」
大して面白くない話を黙って聞いてくれた。そのことに対する感謝というか、謝罪というか。
まあそもそも、向こうから持ち掛けてきた話題だけど。
とにかくこれで話は終わった。そう思って、再び勉強に戻ろうとするのだが、斎川は相変わらずこちらを向いたままだ。いつの間にか、先の微笑みは消えていた。
「ね、もう一つおまけに聞いていい?」
「……俺に答えられることなら」
「結局、どうして今日家に誘ってくれたのかしら」
またしても答えにくいことを続けざまに……。
素の斎川は本当に遠慮がないと思う。別に冷酷非情とまでは言わないが、もうちょっとなんとかというか。
またしても黙り込む羽目に。今度はさっきと違って、そもそも答えが見つかってない。俺自身、結局斎川を誘った理由は不明なままだ。
なので、それを盾に有耶無耶にしたい。答えられる範囲で、と条件付けはしたわけだし。
だが、向こうはそれを許さなかった。
「可哀そうに思ったの? 行く当てもない哀れな女だって」
沈黙を好き勝手に解釈した様子の斎川。無感情に、直情的な言葉をぶつけてくる。
「それは違う。絶対にない」
「じゃあただ気遣ってくれたっだけ、か。優しいもんね、國木は」
「優しいって、なんだよ急に」
「今だってほら、あたしに同じ質問をしようとはしないでしょ」
意味がわからずに、つい困惑し言葉を失う。
まじまじと相手の顔を見返すが、どうやらはっきり言うつもりはないらしい。ただ挑むような目がそこにはあった。
「同じ質問って、どうして誘い乗ってくれたか聞けと」
「そっちもだけど、そもそもどうしてあたしが家にいたくないのか。その理由を、よ」
その指摘は的確にこちらの心を抉ってくる。それは俺が、ずっと先送りにしていた問題の一つだ。
こちらは本音を話したんだ。となると、向こうの本音も聞くべき。それは普通の流れだろう。斎川もそのつもりだったのか。
でも俺はしなかった。禁断の扉を開く勇気はなかった。その資格はないと思い込むことにした。誰に対してもそうしてきたように。
「それともただ無関心なだけ? 國木君はそういうとこあるよね~」
ひときわ声を高くする斎川。やわらかい声音のはずなのに、今はどこか突き放したものを感じる。
何も言い返せなかった。その言葉は決して的外れなんかじゃない。というか、俺という人間の本質を部分的に射抜いている。
島を出てからは、あまり積極的に人付き合いしないようにしてきた。仲がいい友達というのも、本当に丸林くらい。
俺と斎川の関係性には無言の時間がつきものなようだ。しかも、これはさっきのとは違ってかなり息が詰まるもの。相手の目を見ていることすら辛い。
「あたし、ちょっと小腹がすいてきちゃったかも。持ってきたおかし、食べない?」
彼女の身体が、テーブルの近くにあったビニール袋の方に向いた。ちょっと手を伸ばしてそれを引き寄せる。
「茶でも入れてくるよ。何か希望は?」
「おまかせで」
斎川はにっこりと言い放った。かなりの押しの強さを感じる。
これは彼女なりの助け舟なのかもしれない。話題を変える、だけでなく、なかったことにしようという意思表示。話を始めたがゆえの、せめてもの情け。
きっと乗るべきではないんだろう。心のどこかで感じつつ、俺はキッチンの方へと向かう。
斎川に対する感情をはっきりさせるには、この時間だけではとても足りない。それがかろうじて出た結論だった。
※
玄関、姉貴と並んでお客様が靴を履き終わるのを待つ。
「お夕飯、食べていけばいいのに」
「いえいえ。もういっぱい迷惑かけちゃいましたから」
6時前に、俺たちの勉強会は幕を下ろした。暗くなり始めた外を見て、斎川がそれを言い出した。
姉貴としては、もっと長居してほしかったらしい。しかし、俺はとても耐えられそうになかった。
おやつの時間を前後しても、リビングの空気感はそこまで変わらなかった。斎川は変わらず質問を受け付けてくれたし、時には向こうから確認してくることもあった。
でも、あの会話がなかったことにはならない。向こうはどうかは知らないが、少なくともこちらはずっと落ち着かない気分だった。
「ほれ、アンタ。下まで送っていきなさい」
「……へいへい、わかりやした」
「大丈夫だよ、國木君。ゆっくりしてて。今日は結構疲れちゃっただろうし」
断られて、若干の安堵を覚えてしまう。エレベーターの中で二人きりなんて、今日に関してはかつてないほど気まずいだろう。
準備を終えて、斎川は改めて笑顔を見せる。
「お昼ご飯、ありがとうございました、愛さん。國木君も誘ってくれてありがとう。嬉しかったよ! また明日ね」
斎川は女神モードのまま帰っていった。そこにぎこちなさは少しもなかった。
扉が完全にしまって、やや空気が緩むのを感じる。
「はぁ。本当にいい子ねぇ、ルミナちゃん」
「マジの妹になってくれないかしら。そこんとこどうなのかな、よー君」
「いい加減にしろ、バカ姉。――俺、リビング片してくるから」
「照れちゃってぇ、もう」
ぶつぶつと意味不明なことを言う姉貴を放って、俺は誰もいないリビングへと戻っていく。
がらんした室内に、寂しさと名残惜しさを覚える。
「嬉しかった、か」
果たしてあれは社交辞令だったのかどうか。
答えの出ない疑問を頭の隅に追いやって、まずはテーブルの上から片づけを開始した。
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