第28話 離れてみて
「はい、そこまで。答案、後ろから回してー」
数学教師の声を合図に、教室の時が一気に動き出す。
後ろからやってきた答案用紙の上に自分のを重ねて前に渡す。この機械的な作業に達成感を覚えたのは、もしかすると初めてかもしれない。
同じ作業を終えた丸林が再びこちらの方を向いた。
「どうだったよ、ライジン。手ごたえのほどは」
「まあまあ……いや、自分史上最高ってやつだな。計算ミスしてなきゃだけど」
一通り問題を解くことはできた。それだけでも大きな進歩だ。いつもは簡単な基礎問題にしか手が出ない。うん、改めて自分でもどうかと思う。
ともかく、快方に問題はないはず。斎川との特訓は功を奏した。問題を進めるにつれて、計算力不足を痛感はしたが。
「見直ししなかったのか?」
「あのな、誰もがお前みたいに時間余せると思うなよ。これ見よがしに寝やがって」
「おいおい、そんなんじゃ中間が思いやられるぜ。そろそろだろ」
余裕そうな態度はムカつくが、言っていることは正しい。この分だと、本番でも時間がギリギリになりそうだ。
中間考査まではもう3週間を切った。そろそろテスト範囲も出るころだし、いつもの学習計画表の提出も控えている。
今回はちょっと気合を入れて勉強しなくては。できるのに時間がありませんでした、じゃあいつに申し訳ない。そこは俺がやらなきゃな部分だ。
問題の回収は無事に終わったらしい。教師が黒板に文字を書き始める。それに合わせて、再び教室が静かになり始める。
「まあともかくだ。ようやく小テストも終わったことだし、今日くらいはパーッと遊ぼうぜ」
それを最後に、丸林も授業へと戻っていく。返事をする暇は少しもなかった。
やや丸まった友人の背中を見ながら、放課後のことを考える。ここ数日はずっと今日に向けて、斎川と勉強してきた。
だが、元を辿ればこれは交換条件だ。俺が真の姿を黙っておくことに対する。
それを考えると、もう十分じゃないか。正直な話、あいつにはもうかなり面倒を見てもらった。これ以上は、ただ迷惑をかけるだけ。
区切りとしてはちょうどいいかもしれない。定期テストは近いけど、そこまで頼りっぱなしというのも……。
結局、答えは出ないままに授業は進んでいく。珍しく復習が追い付いているからか、内容がすんなりと頭に入ってくる。
ふと、目線を黒板から右の方へとずらす。
斎川は今日も放課後図書室に行くんだろう。窓辺のあの席で、粛々とペンは知らせていく姿。たった一人でありながら、孤独感とは無縁。
その隣に自分が座っている。昨日まではそれが当たり前だった。女神の気まぐれに誘われた。
その一方で、その昨日には丸林の姿があった。普段よりも大人しかったといえど、予期せぬ第三者。そのことについて、あいつは実際にはどう思ったんだろう。
そもそも――
(俺だって元はいなかったじゃないか)
ある意味では聖域。足を踏み入れるべきではなかった。斎川瑠美奈の素顔を知ることは誰にも許されてはいない。それはあいつの望みでもある。
今日はどうしても、図書室に行く気にはなれなかった。当面の目標を達成したからか、つい色々なことを考えてしまう。
でも一番は、ただ休みたかっただけかもしれない。ここんところ、ずっと勉強していたわけだし。
そんな結論に至って、俺は黒板に視線を戻した。ちょっと目を離しただけで、授業はかなり進んでいる。
こんなところで置いていかれるわけにはいかない――今一度、ペンを握る手に力を入れた。
※
玄関の方から音がした。どうやら姉貴が帰ってきたらしい。反射的にスタートボタンを押した。
「ただいまー、誰か来てんの?」
ほどなくして、声が聞こえてくる。間違いなく、我が姉のもの。どこか気だるそうな感じは、客人の見当がついているからか。
わざわざドアを開けて反応するのも面倒だ。横着して、やや大きな声を出す。
「丸林が来てる」
「おじゃまです、愛ちゃんさん」
「あ、やっぱりね。ごゆっくりー」
足音を聞いて、ゲームを再開した。あとちょっとタイミングがずれてれば、自機がやられていた。
つまりはゲームオーバー。ベッドの上で順番を待つ丸林が生き生きとし始める。
「もうそんな時間か……早いねぇ」
「そろそろ帰るのか?」
「どうしよっかな。ぶっちゃけ、今いいとこなんだよ」
おそらく漫画のことを言っているんだろう。あの男、暇つぶしにとさっき本棚をごそごそ漁っていやがった。
そういう話なら、やられても交代しなくて済むのでは。一瞬が命取り、髭のおっさんは無様に地面に倒れこんでいってしまった。
「やっと俺の番か。ほれ、ライジン。コントローラーよこせよ」
「……いいとこじゃなかったのかよ」
「作戦よ、作戦。お前、さっきから順調に進めやがって」
「そういう話なら、初めから違うゲームにすりゃよかったじゃねーか」
「今日はこいつの気分だったんだよ」
釈然としないが、約束は約束。コントローラーを客人に渡して場所を入れ替わる。
とりあえず、壁にもたれながら奴のプレイを見ることに。一時間近くやり続けていたから、少し疲れた。
「ありゃ、やっぱりマルちゃんだけか」
「おい、いきなり開けんなって」
少しして、扉がいきなり開く。着替えを終えた様子の姉貴がぐっと顔を突っ込んできた。
「改めてお邪魔してまーす」
「はいはい。この間のルミナちゃんはやっぱり奇跡だったのねぇ」
瞬時に部屋の空気が凍り付く。画面上では、緑色のおっさんが完全に動きを止めた。ここぞとばかりに近づいていくモンスターたち。
だが、爆弾を投じた本人にはその自覚が全くないようだ。平然とした表情で会話を続ける。
「マルちゃん、お夕飯食べてく? …………あの聞いてる?」
「え、ええ、すみません。いえ、今日はやめときます」
「そっかー、残念。じゃあ今日は手を抜こーっと」
バタン――まもなく扉が閉まる。ゲームの方も、一区切りがついていた。
まずいことになった。こいつが家に来ることになった段階で、もう少しケアしておけばよかったか。
恐る恐る、丸林の方を見る。全く微動だにしない。不自然なまでに伸びた背筋がそこはかとなく恐怖を演出している。
とりあえず、気づかなかったことにしよう。
「……丸林、交代じゃないのか」
「ふっふっふ。ライジンよ、さっきの話はなんだ、いったい?」
「夕飯の話か? 姉貴が手を抜くなんていつもの――」
「そっちじゃない。わかってるだろ」
静かに言い放って、とうとう奴はこちらを振り返った。
そこに浮かんでいるのは静かな笑み。瞳の奥では、いつか見たことのあるジャーナリスト魂がメラメラと燃えている。
「話、聞かせてもらおうか? どうして、お前んちに女神ルミナが来るんだよ!」
夕飯の時間までに終わればいいな。
とりあえず抱いた感想はそれだけだった。
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