第23話 新しい日課
入ってすぐに見知った顔を見つけた。こちらが会釈をする前に、向こうはご丁寧に立ち上がりその顔を弾ませる。
「こんにちは、ライジン君。今日も熱心ですねぇ、私とっても嬉しいです」
「どうも屋敷先輩」
今日は委員長が図書当番なのかもしれない。カウンターに彼女以外の姿はない。
ここであったがなんとやら。せっかくなので先に確認しておくか。まあここまで来てしまったら、もはや何も変わらない気はするが。
「あの、斎川来てますか?」
「ええもちろん。いつもの場所にいますとも」
屋敷先輩はにっこりとした笑みで返してくれた。ホント、この人はいつも物腰柔らかだな。
その答えに一安心する。どうやらとりあえず無駄足ではなかったようだ。
改めてバッグを持ち直して、図書室の奥へと向かう。
ほんの少しだが、どうも足が重い。この人気のない無音の空間にいると、家での勉強会での出来事を思い出す。
今日もまた斎川はここに来ている。毎日のように居残るほどに、家にいたくないんだろう。
その理由を、俺は聞くことができなかった。心のうちに踏み込むことから逃げてしまった。
なのに、こうしてあいつのところに向かっている。何の覚悟も持たずに。ただ昨日の一件だけで、繋がりを立つのは違う気がする。そんな曖昧な感覚だけで。
本棚を抜けた先、定位置に彼女はいた。やはりお手本のような姿勢で、机に向き合っている。
孤高――果たしてその言葉を連想してしまうのは、可憐な姿の裏に潜む気持ちを欠片だけでも知っているからか。
ゆっくり近づくと、1メートルくらいのところで相手が顔を上げた。意外そうなところはない。それどころか、髪をかき上げる姿は余裕たっぷりだ。
「今日も遅かったのね、國木」
「……あ、ああ」
「また誰かのお手伝い?」
斎川は、くすりと冷やかすように笑った。俺が来たことについては、どうやら当たり前だと思っている節がある。それくらいに自然な雰囲気だ。
対して、俺の方が戸惑ってしまう。なぜここまで平然と振舞えるのか、この女は……。昨日のことだってあるのに。
「何で知ってるのか、って顔ね。五組の子に聞いたわ。教壇ひっくり返したんでしょ。かなり目立ってたって」
「知り合いが定期失くしたんだ。それで――じゃなくて、こんな話はどうでもいい。待ってたのか、俺のこと」
「ん? ええ」
何を当たり前のことを、と毒気のない顔をする斎川さん。あの勉強を見てあげる、というセリフはしばらくってことだったらしい。
なるほど、丸林と帰っていたら約束をすっぽかしたことになってたわけか。とんでもないトラップ。考え直してよかった。
図書室での二度目の安堵を覚えつつ、俺はその隣に陣地を作り始めた。一応、やることはある。主に宿題の面で。
そんな風にバタバタしていると、横から何かが差し込まれた。A4の用紙が2枚。手書きの文字が、規則性をもって並んでいる。
「はい、じゃあこれ。誰かさんに待たされちゃったから、仕方なく作ってあげたわよ」
「……ご親切にどうも」
その1枚を手に取ってみると、記されているのはどれも数学の問題だ。そして、どこか見覚えもある。裏面も同様。
「昨日の分も反映してあるから。じゃあ頑張って」
どうやら全部こちらの思い過ごし。斎川は今日も平常運転のようだった。
変に意識していたのが急に馬鹿らしくなると、今度はちょっと顔が熱くなってくる。それを気取られないように、俺は慌ててお手製テストに取り組み始めた。
※
荒々しく最後の文字を書きつける。さすがに疲れた。雑にシャーペンを放って、ぐっと背筋を伸ばす。
正直な話をすると、飽きた。四日も続けて勉強だなんて、間違いなく高校に入ってからの新記録だ。
リラックスしていると、隣の女子が顔を向けてきた。ニヤニヤと、どこかからかうような感じで。
「あら、休憩です? 今週小テストがあるっていうのに、ずいぶんと余裕ね」
「根の詰めすぎもよくないっていうだろ」
「それは同意」
短く言うと、斎川は手を止めた。そのまま少しだけ姿勢を楽にする。
ここ数日の付き合いで、こいつがあからさまにだらけるところを見たことがない。こんな風に小休止のときですら、その姿はどこか上品だ。
「さっきの話だけど、テストなんとかなりそう?」
「どうだろうな。まあ、ベストは尽くすさ」
「……頼りないな。これは明日からスパルタでやらないと」
彼女の中では、勉強会はまだ続くという認識らしい。まあこちらとしても異論はないのでそれでいいが。
ただそろそろ、禁断症状が出そうな気はする。勉強する体力というものがほとんどない。そのうえ、さらにスパルタとは……。
げんなりして、一層姿勢を崩す。浅く座って足を伸ばす。これも対面に人がいないからできること。
「しっかし、斎川はホント元気だな。同じ時間割を経験した後とは思えんわ」
「むっ、なんか悪口に聞こえるんだけど? あたしだって、疲れてるってば。今日は特に、7時間目が重かったし」
その言葉を意外に思って、俺は少し姿勢を戻した。女神様も人並みに疲れることがあるのか……ではなく、7時間目の話だ。
「楽しそうに見えたけどな、司会」
「どこかの何某は我関せずで退屈そうにしてたけど? 教壇って、わりかし視界良好なんだ」
「ははは、誰だろうな、そんな不届き者」
軽い言い方だったが、斎川の目は鋭く光ってた。
気圧されて、ごまかすように嘯く。まともに彼女を見ていられない。
これは脅しだ。今後目に余るようなことがあれば、実行委員の権限を振りかざす、そんな強いメッセージを感じる。
少しは真面目に活動に参加しないとダメかもしれない。元々、人並み程度にはやるつもりだったけど。
「まあ実際、話をまとめるって大変かもな」
「なに言ってるの。今日なんてまだ序の口よ。これから先のことを考えると……………はぁ、ちょっと憂鬱」
「立候補したのは自分だろう? まさか嫌々だってのか」
「そこまでは言わない。でも積極的にやりたかったわけじゃない。周りに押されて、というか。イメージ的にというか。瑠実奈ちゃんしかいないって感じで」
そう語る斎川の表情はとても苦々しい。そういうマイナスな姿、というのは新鮮だ。特に、どうも奴の方が優位に立ちがちだし。
しかし、そんなんならやめときゃよかったのに。そうまでして、みんなの描く完璧な斎川瑠実奈を演じないといけないのか。
これもまた、彼女の根幹に関する謎。今のところ、素の斎川にダメなところは感じない。けれど、本人には何か思うところがあるんだ。
「すごい大変なのよ、あの仕事。なのに、みんなこっちの気も知らないで……去年だってね――」
少し物思いに耽っていると、話がなにやら進行していた。
完全なる愚痴。奴の顔はたくさんの不満で覆い尽くされているように見えた。
長くなりそうだな。げんなりしながら、俺は近くの壁時計を睨んだ。その針の位置をしっかり脳裏に刻み込むように。
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