第30話 契約の延長
「別に、用ってことのほどじゃないんだけど……」
その声は2人きりのときよりもさらに低かった。
斎川にしては珍しく歯切れが悪いような。電話なんて、他人に気兼ねせずにすむ最高の環境だと思うんだが。
あるいは、だからこその緊張かも。少なくとも、俺は先ほどから全く気分が落ち着かない。それこそ初めて話したときと同じくらいに。
やはり続く言葉はなかった。いくら待ってみても、電話越しに聞こえるのは細やかな息遣いだけ。
改めて、俺はスマホを握り直す。
「用がないなら切るぞ。急ぎじゃないんなら、どうせ明日会えるだろ」
「…………それって、明日の放課後は図書室に来てくれるってこと?」
「はい?」
あまりに予想外すぎる言葉に、反射的に声が出てしまう。しかも、どこかその口調も湿っぽいものだったし。
またしても沈黙。通話が切れたのではないか、と思うほどに向こうからは何の反応もない。
「べ、別に今のは言葉のあや、というか。今日だって待ってたわけじゃないし。来るかどうか、なんて國木の勝手なわけで」
「あのさ、もしかして俺が放課後図書室に行かなかったから、わざわざ電話してきたのか?」
「なっ……!?」
やや上ずったような声。なんとなく向こうの顔色が想像できる。きっと赤だ。怒りと恥ずかしさがその源。
ようやく話が見えてきた。斎川からの電話なんてどんな用件だと警戒したものだが、わかってみればなんてことはない。少しだけ心が落ち着いた。
こんなことなら一言ぐらい断ればよかった。いつまで続くかはわからないが、昨日までは毎日していたわけだし。突然来なかったら、そりゃあ気になるか。
「悪かったよ、ちゃんと言うべきだった。余計な心配かけてごめん」
「心配ってなに? そんなのしてないけど。ただ、今日の小テスト、全然できなくて、あたしに顔向けできないんじゃないかと、思っただけよ」
「ああ、いやそれは杞憂だ。とりあえずは一通り解けたから」
「そう? まあ、結果を見るまでは安心できないけど」
語るに落ちる。斎川いろいろとボロが出ているような気がする。直接面と向かっていないから、という影響も多少はあるのかもしれない。
ずっと立っているのも疲れて、俺はぐっと椅子に腰を下ろした。やっと完全に緊張からは解放された。リラックスしながら、会話を続ける。
「でもさ、てっきり俺はもう終わったのかと」
「どういう意味?」
「小テストも終わったし、区切りとしてちょうどいいんじゃないかって」
「……だから今日来なかったんだ」
「それもあるけど、息抜きがしたかったというか……ここんとこずっとだったし」
考えてみれば、斎川はこれをずっと継続しているんだよな。俺が加わるよりずっと前から、一人でただ黙々と。
改めてすごいと思える。そうまでして、彼女を駆り立てるものは何か――
「そういうこと。とりあえずは納得した。國木、このところずっと頑張ってたわけだしね」
「……そんなことねーと思うけど」
「なるほど、謙遜じゃなくて額面通りに受け取るわ。だったら、もちろん中間テストまでやらなきゃ、よね」
どこか挑発するような口調。もうすっかり余裕は取り戻したようだ。ありありといつもの得意げな笑みが思い浮かぶ。
「いいのか?」
「乗りかかった船だもの。それに、誰かに教えるって意外と勉強になるってわかったから」
それは本心からの提案のように聞こえた。けれど、二つ返事ですぐに受け入れることはできなかった。
やはり彼女の邪魔をしているのではないか、という思いは消えない。ここまでの話すべてが社交辞令で、良いように解釈しているだけ。
ひた隠しにしてきた自分の素顔を知られてしまった相手。斎川瑠実奈にとって、俺はそういった存在のはず。
初めこそは見張られているのかとも思った。そばに置くことで秘密が露呈しないようにする。まあすぐにその考えは捨てたけども。
別の見方をすれば、唯一気が許せる存在、とか。彼女は俺の前では自然なふるまいを見せている。
なんて、こんなのは思い上がりも甚だしい。俺のどこに、そんな要素があるというのか。
結局、他人の考えを完璧に読み取るなんてできないんだ。斎川の思惑なんて考えるだけ無駄。あるがままに受け止めるしかない。
「それで、返答は?」
「斎川に問題ないんだったら、俺の方に断る理由はない。むしろ願ったり叶ったりなわけだし」
「……なんだ。そんなに一緒に勉強したかったんだ」
「なんだかんだいって、中間も自分だけだと不安だからな。それに、数学以外も大丈夫だろ?」
「一応はね」
やや言い方が荒っぽかったのは気のせいだろうか。便利屋扱いされたのが気に障った……それは今更過ぎると思う。
そろそろ話しの終わりが見えてきた。始まる前は話題を微塵にも想像できなかったが、斎川との勉強会を更新する結果になるとは。
どこか気分がすっきりした気がする。俺はぐっと、背もたれに寄りかかった。
「にしても、こんな用件だったらメッセくれればよかったのに」
「ああ、それは無理ね。あたし、やってないから」
「……マジで!?」
驚きすぎて慌てて姿勢を戻した。
そして、ようやく納得したことが一つ。先週の土曜日の帰り際、斎川と初めて連絡先を交換したが、それが電話番号だった。
あの時はどこか気分が浮ついたせいでそこまで気にしなかったが、なるほどそういうことか。
「いわゆるガラケーってやつ。ないと不便だから持ってるだけね」
「嘘だろ。みんなの人気者の女神様がなぁ……」
「別にいいでしょ。じゃ、切るわ。おやすみなさい」
返事をする暇もなく、通話は切れた。こちらの反応があまり気に食わなかったように思える。
はあ。まさか最後の最後に超ド級の爆弾を落としてくるとは。斎川め、やはり侮れない奴だな。
喉の渇きを感じて、俺はリビングへと戻ることにした。ソファはすっかり占領され返されている。
「長電話だったねー。そんなにルミナちゃんと盛り上がったの?」
こちらの方は全く見ずに、姉貴は的確に指摘してくる。
まさか聞いてやがったのか。質が悪いが、追及したところで認めることはないだろう。不毛な時間を過ごすだけ。
「……そもそも別に斎川じゃねーから、電話の相手」
「ふーん。そう聞こえたんだけどなぁ。そんなことより、風呂入ってくるかー」
わざとらしく言って立ち上がるその顔は、最上級にニヤけて見えた。
くれぐれも家での電話には気を付けよう。一人、そう心に誓うのだった。
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